*...*...* Sweet 2 *...*...*
「行ってらっしゃい」
「行ってくる。お前も、身体 早く治せよ?」

 こめかみに柔らかいキスが落ちてくる。
 ふわりと髪から立ちこめる梓馬さんの香りを感じていると、
 和風の家らしく引き戸の玄関が、からからと軽い音を立てて閉まった。

「行っちゃった……」

 これから洗い物を片付けて、洗濯をして。
 それでもまだ、梓馬さんが帰るまで、有り余るほどの時間がある。
 私は時計の針を見て、ほ、っとため息をつく。

 こんなことなら、クリスマスに開催されるPオケに、1曲でも乗っておけば良かったかな、と思わないでもなかったけど、
 最近、なんとなく体調が優れないこと。
 それに、オケの部員は、日中は仕事を持っている人が多くて、合同練習は必ず夕方から夜中にかけて、になること。
 この2つがどうしても引っかかって、今年は乗り番を外してもらった。
 ── なかなか会えない梓馬さんと、これ以上会えなくなるのは、イヤだったから。

 なんだろう。
 別々に住んでいて、たまにしか会えない、というのは理解できても。
 一緒に住んでいて、会話する時間もないっていうのは、子どもっぽいと言われるかもだけど淋しいと思う。

 男の人は、外に飛び出して、いろいろな人とお話ができるから、かな。
 梓馬さんは私のような閉塞感を感じてないような気がする。

 こんな時は、ヴァイオリンを弾こう。作ったことのないお菓子を作ってみよう。
 って、いつもの私なら考え方を変えてみるのに、このごろはなんとなく身体全体が怠くて、やるぞ、ってパワーが浮かんでこない。

 とりあえず、やることだけはやっておかないと。
 そう思って、私は手早く朝食の後かたづけと、夕食の下ごしらえを済ませた。
 このごろ、毎晩遅くまで忙しそうな梓馬さんだから、高カロリーで小さなおかずがいいかな。
 あ、昨日お母さまから、到来物だけど、ってフレッシュチーズを いただいたっけ。
 あれに、水菜とサーモンを巻いて前菜にしてみよう。

「あ、電話かな?」

 この家では、呼び出し音さえ品がいい。
 結婚して半年。いろいろなことに少しずつ慣れてきたというのに、電話の音だけは、ワンテンポ、反応が遅れる。
 受話器を取り上げると、そこからは懐かしい声が飛び出してきた。

「香穂子。今、話しても大丈夫?」
「あ、お母さん!」
「あらあら、どうしたの。そんな声出して」
「だって、淋しいんだもの。このままじゃ口が腐っちゃいそう」
「まあ、子どもみたいなこと言って」
「お母さん……」

 お母さんは、私の話を飽くことなく聞き続けてくれる。
 私も思ったこと、感じていることそのままに話をする。
 お友だちには簡単に言えないことも、すらすらと口に出せる。

 お母さんは我慢強く私の話を聞き終えると、安心したようにため息を漏らした。

「そんな理由なら良かったわ。一瞬、梓馬さんや、柚木家の方と仲違いでもしたのかと思ったじゃない」
「う、ううん? それはないかな。みんな、良くしてくれるもの」
「とにかくあなたは新参者なの。まずは10年。口答えせずに柚木家のみなさんに仕えなさいね。
 あなたが今、頑張っていることは、巡り巡って自分に返ってくるわ」
「そういうものなの?」
「女は案外順応性が高いから、大丈夫よ。それに……」

 お母さんは電話口で小さく笑った。

「── 10年も一緒にいて。あなたが、どうしても、って、選んだ人なんでしょう?」
*...*...*
 今日も帰りは遅いのかな、と思っていたら、夜の10時前に、車の中から電話があった。
 あと10分で家に着くという。

 私はパタパタと寝室の鏡の前に座ると、顔の中を覗き込んだ。
 薄暗い部屋の中、白っぽい顔が、急に生き生きと元気になっている気がする。
 軽く口紅を引き直す。ほんやりしていた顔に生気が宿る。

 今日は金曜日。先週は週末のお休み2日とも仕事に行っていたから。
 明日くらいは、久しぶりにお休みが取れるかも。ゆっくり、お話できるかな。

 期待したい。でも期待しすぎると、もし残念なとき、寂しいから。
 ああ。でも、どちらかな。どうなんだろう。
 ねえ、どっちだと思う? と鏡の自分に問いかけていると、コロンコロンと玄関のチャイムが鳴る。
 ── あ、帰ってきた!

 私は小走りで廊下を走り抜けた。

「ただいま。香穂子」
「梓馬さん。お帰りなさい!」
「……ん?」
「は、はい? なんでしょう?」

 えっと……? たった今、鏡も見てきたし、アイボリー色の着心地のいいワンピースも、そんなにおかしくない。
 部屋だって、私1人じゃ、汚しようがない。……なんだろう?

 首を傾げていると、梓馬さんはあごに手をあてて笑っている。

「いや。白い仔犬がしっぽを振って駆けてくるようだ……、と思ってね」
「う……。仔犬、ですか」

 仔犬、って、仔犬、って……。褒め言葉、ではないような気がする。
 それに、結婚して半年って、まだ、新妻の範囲、っていうか……。
 私の想像していた新妻さんって、好きな人に好かれて、抱かれて。
 もっともっと、色っぽいモノだ、って思ってたんだけど…。
 仔犬、って例えは、どう考えても、色っぽい存在ではないような気もする。

 梓馬さんは、手にしていた紙袋を手渡してくれた。

「今日は手土産があるんだ。これでお前の機嫌は直るかな?」
「なんですか? 手土産、って……。あ、もしかして、お寿司?」
「は?」

 私のお父さんは仕事で遅くなると、しょっちゅう手土産だと言ってお母さんに寿司折りを買って帰っていた。
 お母さんは専業主婦だったから、お父さんを初めとして、お兄ちゃんも、お姉ちゃんも、私も。
 家のことはなにもかもお母さんにお願いして、私たちは学校や勤め先へと飛び出していった。
 元々、お母さんはお寿司が好きな人だったし。
 平日の昼間は、一人きりでご飯をつまらなさも感じていたのかな。
 お父さんがお母さんのご機嫌を取るのに、お寿司は、とても良い仕事をしていたと思う。

 梓馬さんは、楽しそうにくつくつと笑い続けている。
 も、もう……。私、また、なにか間の抜けたこと、言ったのかな?

「なにお前。お寿司が好きなの? だったらこれからは、手土産はお寿司にしてもいいけど。
 ずいぶんと安上がりだな」
「え? えっと……」

 袋の中を覗く。ラッピングされた箱は見るからに小さい。
 これは、アクセサリー、なのかな? 光沢のある白い紙の上、薄紫のリボンがふわりと揺れている。

「開けても、いいですか?」
「どうぞ。これはもうお前のだから」

 そっと取り出して、リボンの端を引っ張る。
 すると、大振りな2つの羽根はするするとほどけて、あっけなく私の手に収まった。
 なんだろ……。

「わぁ……。ヴァイオリンのブローチ?」
「いろいろな楽器がモチーフにされていた。フルートもあったよ」
「そうなんですか?」
「ピアノ、トランペット、チェロまではいいけれど。
 ヴァイオリンとヴィオラは、こういうモチーフにした場合、区別が付きにくいね」
「ん……。そうかもしれません」

 精巧な細工が施された金色のヴァイオリンは、弦が正確に4本描かれている。
 ペグも、正しい位置に付いている。
 弓を当てるところには、小さな色石が4つ、音符みたいに踊っている。

 見れば見るほど可愛い。
 もしこのヴァイオリンとおそろいの弓があったなら、どんな音色が生まれるんだろう。

「本当は、なにかお前が暖かく過ごせるものを、って思ったんだけどね。
 そうだ。明日、一緒に見に行ってみる?」

 梓馬さんは上着を取ると、ダイニングの椅子に腰掛けた。
 いつもだったらどんなに疲れていても、自分の部屋に行って着替える人なのに。
 ── そんな中、このお土産、買ってきてくれたんだ。

 心の奥がきゅ、っと暖かくなる。

「ありがとうございます。大切にしますね」

 私は座ったままの梓馬さんを抱きかかえた。
 まだ外気を纏ったままの梓馬さんからは冬の匂いがする。
 私たちの、結婚してから初めての冬が始まる。

 腰に回された腕が暖かい。
 もう、何度、私はこの腕の中で壊れたんだろう── 。

 とても はしたないことを言っているという自覚が、言葉の端を震わせる。
 でも、走り出した言葉は止まらない。

「あのね……。忙しいのはわかるんだけど、もっと……」
「香穂子?」
「そう。私、梓馬さんとお話がしたい。
 だって、この1週間、ほとんどお話してないんだもの。もっと、近くに感じたい……です」

 私が、天羽ちゃんのようにハキハキと思ったことを上手に言葉にできたら、こんな風に、ウジウジと悩まなくて済むのかな。
 冬海ちゃんだったら、どうするんだろう?
 小さい子が近くにいる人は、この、のっぺりと広い時空を、小さい子をお世話する、ということで過ごしていくのかな。
 時間の使い方がわからない、なんて、それこそ贅沢病だとも思ってしまう。

 梓馬さんは、小さくため息をついて笑った。

「……仕方のない子だね」
「はい……」
「抱いて欲しいなら、素直に『抱いて』って言えばいいものを」
「は、はい? えっと、そんなこと言ってません!」

 普通の良くできた奥さんなら、もっとダンナさんをねぎらったり、優しく励ましたりして。
 こんな風に自分のわがままを告げたりしないんじゃないかな。
 ── 自己嫌悪、かも。

 冷蔵庫から出したばかりの前菜とサラダが、静かに私たちを見つめている。


「……シャワーを浴びてくるから、お前はベッドで待っていて」
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