*...*...* Lesson 1 *...*...*
音楽科の制服も、やっと板についてきたかな、と思えるようになった11月。やっぱり新品の制服と、1ヶ月間、何度も袖を通した制服って違う。
どこが違うんだろう、って考えて、私は家に帰ってから、ハンガーに掛けたときの制服を思い出す。
肩から、襟。襟から、袖のあたり。
おろしたての頃は、まだ、1枚の布のようにぱりっとしていた上着も、今は、右手のヒジの部分は明らかに深いシワが寄っている。
そして、袖も、右と左、それぞれ違う。
右の袖は何度もヴァイオリンにぶつかっているからか、明るい場所で見ると、かすかに擦れて光っているのが目に付く。
右手に甘やかされている左手の袖は、比べると、シワも少ないし、それほど汚れもないような気がする。
白い上着はホコリが目立つ。
ハンガーにかけてから、パタパタとブラシをかけていて気付いたんだ。
日頃、自分の背中ってあまり見る機会がないからわからなかったけど、
上着の下の方、背中の部分に、大きなシワが寄っていることに。
(うーん……。どうしてなんだろ)
普通科のセーラー服を着てたときは、こんなシワはなかった。
音楽理論の授業の中、私は後ろの席なのをいいことに、クラスメイトの背中を見つめ続けた。
ピアノ専攻の真奈美ちゃんの背中には、私のようなシワはない。
真奈美ちゃんは、授業の時はもちろん、ピアノに向かうときの姿勢は、クラスで一番キレイだと思う。
すんなりとした白い指と、ラウンド型のピンク色の爪。
それらは、音が生まれる前から彼女の音楽は素敵なんだって思わせてくれる、大切な存在だ。
音楽は見た目も大事だ、って。
『目と耳から受ける感覚というのは聴衆に押しつけることができるだろう?
外見に気を遣わない人間の作る音は、音楽の質も落ちるぜ?』
折に触れ、そう明言する柚木先輩の言葉を思い出す。
初めはその考え方に反感を持っていた私だけど、今ならなんとなくわかるような気もする。
この美しい人なら、こんなにも自分に対していろんな気遣いのできるこの人なら。
私が知らない音楽の世界を教えてくれるんじゃないか、っていう期待感が、音楽の質をより高めてるんじゃないか、ってことに。
私の目は真奈美ちゃんを通り過ぎて、今度は美咲ちゃんへと移る。
ヴァイオリン専攻の彼女にも、やっぱり制服の背中の部分に私みたいなシワはない。
だけど、この前、私がビックリするようなことを教えてくれたっけ。
『私の制服ね、右手の袖と左手の袖、長さを変えてあるんだよね』
どうしてって尋ねたら、却って不思議そうに言い返された。
『ヴァイオリンもスポーツと同じなんだよね。長いことやってると、リーチが違ってくるの』
『リーチ??』
『あー。えっとね、手の長さ、っていうのかな、”Reach"、『届く範囲』っていう意味よ?』
そう思って見ると、美咲ちゃんの右腕は左腕よりも数センチ長くて、手も一回り大きく、がっしりしてる気がする。
あんな繊細な音を作る美咲ちゃんでも、あんなにたくましい右手をしてるんだ、なんて改めて驚く。
(私の手は……?)
机の上に乗っかっている自分の手を見つめる。
今まで17年生きてきて、こんな風にシゲシゲと自分の指って見たことがなかった。
人より少し小さいな、とは思ったけれど、取り立てて不便もなかったし。
細くて困る、ってことも太くて困るってこともなくて。
最近天羽ちゃんが私の指のサイズを紙テープで測って、7号だ、ってことを初めて知った。それくらい。
天羽ちゃんは、細いー、とビックリした顔をしていたけど、そばにいた冬海ちゃんは4号、って言ってたもの。
けっして細いわけじゃないと思う。
だけど……。
こう、感情を盛り上げるような、土浦くんが好きな曲想は、途中で指がバテてしまうのかな。
最後まで自分の思う音をだせないこともあったっけ……。
指の体力。指力が、足りないのは事実かも。
「……ん?」
ふと視線を感じて顔を上げると、斜め前の席の月森くんがこちらを見ているのがわかった。
授業に集中してないのがバレバレだったのか、眉間に皺を寄せて、ふぅ、っとため息をついている。
ごめんね、と顔の前で手を合わせると、月森くんは困ったような顔をして口元で笑った。
*...*...*
「制服のシワ?」「うん、そう。……そういえば月森くんも、ちょこっとだけシワ、あるね」
「どこだろうか?」
「えっと、ここかな? ほら、背中の。ちょうどウエストの上、左側のところ」
放課後の練習室。
午後からの授業の続きで、私は月森くんと練習室にいた。
一緒に練習をしていたクラスメイトは、一息つきたいから、とカフェテリアに飛び出して行く。
私は、ピアノの椅子に腰掛けると、そっとピアノの上にヴァイオリンを置く月森くんを見つめた。
月森くんの制服のシワは、ちょうど私の目の前にある。
「ああ。ここか。これは、ヴァイオリニストなら当然できるシワだと思うが」
「そうなの?」
「ヴァイオリンはやや背中を反らせて奏でる楽器だ。練習すればするほど、服のシワは深くなる」
「じゃあ、あの、あまりシワのできていない人は??」
「それはあまり練習をしていないか、もしくは、あらかじめワンサイズ大きい上着を購入したのだと思う」
「ワンサイズ、大きめ……」
「そうだ」
自分を振り返る。
春にコンクールに出て。夏、どうしても音楽科に進みたいからと転科して。
音楽科の制服をオーダーしたのが、8月の半ば。9月の新学期に間に合うかな、ってそればっかりを気にしてて、
私、ワンサイズ上にするとか、そんなこと、まったく頭になかったような気がする。
真っ白な上着は、形だけでも私を一人前の演奏家として扱ってくれているように思えて。
この制服が、私を、『普通科のヴァイオリン弾き』ではなく、『音楽科のヴァイオリン専攻』として守ってくれるような気がして。
嬉しくて、舞い上がってて、シワなんて見えてなかった。
月森くんは、思いついたように私のヴァイオリンに目を当てた。
「香穂子。少しヴァイオリンを構えてくれないだろうか?」
「え? うん、いいよ?」
私は膝の上に置いてあったヴァイオリンを肩に乗っけて、弓を手にした。
練習室のドア。この頃寒くなったから、気を遣って美咲ちゃん、閉めていってくれたのかな。
小さな窓からは、弱々しくなった夕陽が残照を放っている。
「こんな感じ、かな」
元々ヴァイオリン、ってとても軽い楽器だ。
毎日手にする500ccのペットボトルの方が実は重いんじゃないかって思えるほど。
だから、持ち上げるのは大して大変じゃないのに、どうしてだろう……。
すぐ近くに月森くんがいる、というだけで、なんだかすごく緊張する。
月森くんは一歩足を進めると、そっと背中に手を回した。
「── 俺の思ったとおりだ」
「はい?」
「香穂子はやや上体を反らしすぎている。
高校生の今は良いかもしれないが、大学を出て、その後、1日10時間を超える練習を続ける場合、
今の姿勢では、背中を痛める」
「そ、そっか……。あ、あの」
すぐ近くに月森くんのすっきりとした鼻筋が見える。
あまりの距離の近さに、とくり、と胸が飛び上がったのがわかる。
どうしてだろう。女の子どうしなら、どんなに近くても、全然気にならないのに……。
「もっと、上体を起こして」
「はい!」
ふっと耳元に月森くんの息がかかる。
考えてみれば、物心ついてから、こんなに男の人が私の近くにきたこと、ってない。── 柚木先輩を除いて。
夏以来、本当に少しずつだけど、柚木先輩が、私に触れるのに慣れてきた、ような、気がする。
だけど、いくら慣れてきた、とは言っても、ドキドキするのは初めての頃と全然変わらない。
むしろ、行き着く先を知ってしまった今は、自分がどんな表情をしてるのかなって考えるだけで頭が沸騰したみたいに熱くなる。
月森くんは、ずっと私の背に手を当てたまま、上体の傾きを確認している。
「もう少しだ、香穂子。もう少し、起こして」
「う、うん……」
月森くんの手が背中を滑る。
私は耳のすぐそばで心臓が鳴っているような気がして、あわてて少し前屈みになった。
── そのとき。
練習室のドアの小さな窓。そこから、鋭い視線が私と月森くんの背中を見据えているのがわかった。
艶のある髪が頬の周りを覆っている。見間違えようもない人。
「あ……っ!」
「君はリーチが狭いな。今から練習を重ねても君はもうそれほど腕が伸びるわけじゃない。
だから上体をそらす角度は、これくらいが好ましいと言えるだろう」
「や、あのっ。月森くん?」
「少し、集中して。この体勢を身体に覚え込ませるんだ」
「う、うん……」
「指の位置も悪くない。これなら、すべてのポジショニングにも届くだろう?」
私の指の上、月森くんの指が重なり、4本の弦を押さえていく。
「ありがとう。あの、わかったから……っ」
月森くんの肩越しに、ドアに はめ込まれている小窓に目をやる。
そこにはさっきまでいた人はいなくて、いつもの静かな夕焼けが広がっていた。