*...*...* timeless(前) *...*...*
梅雨も明けた7月のある日。はたくさんの本を抱えて、俺の家にやってきた。
『この試験が終われば、夏休みだもの!
できれば気持ち良く夏休みに入りたいの』
『そうだな』
『で、ね、試験勉強、付き合ってほしいな、って……」
前日の電話でそう、言われていた。
『ああ。もちろん』
『ん、ごめんね?』
大学2年にもなると、学部が違うせいもあり専攻科目もかなり違う。
正直言って高校時代とは違って、一緒に勉強しても、あまり重なる授業がないから、仕方ないと思うんだけど、な。
本当は、わかってる。
あいつ、俺の身体のこと、気にしてるんだ。
一人暮らしで、栄養が偏ってるんじゃないか、とか、野菜、ちゃんと食べてないんじゃないか、とか。
今は学食があるから、弁当の回数もずっと減ったけど、高校の時、せっせと弁当を作ってきてくれてたから。
こうした休日には、きっと、持ちきれないほどの食べ物持ってやってくるんだ。
『珪? ご飯なんて、適当に食べてても、死なないわよ。人間って、結構丈夫だから』
昔、母さんが言ってたのを思い出す。
母さんはあまり料理、に興味がなかったし、俺は、あまり食、に興味がなかったし、で。
出来合いの、誰のために作られたわけでもない食べ物を俺はただの義務感で食べてた。
それが。
高校の時、日々自分の好みになっていく料理を毎日、目の当たりにして。
俺が美味い、と何気なく言った料理が、翌日には少し添えられていたり。
苦い、と言った野菜が、翌週には違う料理の中に入ってたり。
「ほら、珪くん? 昨日はお肉料理だったから、今日はお魚、ね?」
「ね、珪くん? 肉と野菜、一緒に食べると、身体にいいよ?」
…全ての食べ物に旬がある、って教えてくれたのも。
だった、な…。
来ると、きっと、眩しそうに笑って言うんだ。
『また作りすぎちゃった』
って。
俺が食べるのを、は、いつもとても嬉しそうに見てるから。
この頃は、食べる、という作業もイヤじゃない。
「ん?」
玄関のベルが、待ち人の来訪を告げる。
俺は、飲み物に入れる氷の準備を一時中断して、いそいそと玄関に向かった。
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「えへへ、…今日はよろしくね! 珪くん」
うっすらと汗をかきながら、は弾むようにして家の入ってきた。
「おまえ、それって…?」
たくさんの教科書が入ったカバンが、1つ。
それと、それよりも大きな、手提げカバンが、1つ。
「ん。…また作りすぎちゃった」
「やっぱり」
そうだと思った…と笑いながら、2つのカバンを持とうとしたら、
「あ、ご、ごめんね? 重いよ?」
は遠慮して、カバンを持っている手を引っ込める。
「…だから、さ」
おまえの手、には持ち重りするだろ。
「珪くんは、……優しいね。いつも」
リビングに向かう俺の背中に、呟いた声が、切なさを含んでいたから。
「優しいのは、おまえだろ?」
俺は、振り返りながら弁当の入っているであろうカバンを揺らした。
「ううん……。珪くんが、優しくしてくれるの、いつも、嬉しいなあって」
そう思ってるよ、と、は俺のシャツの後ろをきゅっと掴む。
俺は荷物を置くと、シャツを掴んでいるの手を引っ張った。
「なんだ…。試験勉強しにきたんだろ?」
「え? も、もちろん!!」
「……本当に?」
夏に近づいたからか、が纏う花の香りが、以前より強くなった気がする。
俺はの温度を確かめるように、首筋に唇を這わした。
「やっ……ん」
「そんな声出すなよ」
「んもう、珪くん!!」
き、今日は勉強、するんだから、ね! もう…。
小さな手が必死に俺の胸を押し返す。
まあ、試験、明日からだしな。
の強いまなざしが、俺の感情を押しとどめる。
……俺が手を離すと、はほっとしたように微笑んだ。
そうして。
2人でお昼ご飯を食べた後からは、は本格的に勉強に取り組み始めた。
「一般教養が9科目もあるんだよ? 授業は出席してるけど、ちゃんとできるかなあ」
「語学も大変〜。第2言語のドイツ語。…私、リスニングが苦手で…」
「高校まではマークシート式で、いざとなれば、何かを選んで書き込めば良かったけど、
大学の試験って、レポート形式のものが多いものね…。本当に理解してないと、出来なさそう」
はつらつらと不安を並べ立てている。
……は本当に心配性だ。
一流大学の入試の時も、あの問題、どう答えれば良かったのかな!? って、1つの問題に対して、5つも6つも答えを言うから。
その真剣な様子が可愛くて、
『全部書いとけよ。そしたら、どれか当たるだろ?』
ってからかったら、しばらく口利いてもらえなかった、な。
「一度、教科書を読んでおけば、大丈夫だろ」
「あはは、珪くんは、そうかも、ね」
サラサラと紙の上を踊るペンの音。
静かに時を刻む秒針。
は俺が見つめてることなんて、これっぽっちも気づくことなく、教科書に向かっている。
また身体に触れようものなら、そっと押し返すようにして、やんわりと拒否されるんだろうな。
その、以前よりも余裕のあるの態度も悔しいけど、本気で怒らせたら、フォローも大変だし。
「ヒマ、だな」
俺はソファに横になって…。
いや、あいつのわからないって言ってるところ、見てやらなきゃ。
いや、……。
いや、俺も教科書くらい、目を通して、おこう、か……。
の微笑んでる瞳が、俺を包む。
……温かい……。
『いいよ? 珪くん、寝てて……?』
ああ、と返事をしたつもりだったけど。
あいつに、聞こえた、かどうか。
…………。
そうして俺はいつの間にやら、ソファーと同化していた。
*...*...*
カチャ……。窓の外はすっかり太陽が沈みかかり、1日のうち、一度だけ見える濃いピンクの夕焼け空が広がっていた。
「ん……」
「おはよ。…起きた?」
肩口には、生成りのタオルケットが掛けられている。
「もうそろそろ、起こそうかな、って思ってたところ」
そう言って、はクッキーを添えたコーヒーを差し出した。
「あ、キッチン借りたよ。はい、コレ、…眠気覚ましにどうぞ」
「ああ…」
「ふふ、ありがとう。勉強、大分はかどったよ」
「俺、なにもしてないだろ?」
「ん、まあ、そうなんだけどね」
はパクッと美味しそうにクッキーをほおばりながら言った。
「……いてくれるだけで、いいんだ、よ?」
「ん?」
「これだけ、頑張ったら、珪くんに、追いつくかな、近づけるかな、って。
そう思うと、勉強もあんまり苦にならないもん」
恥ずかしそうに肩をすくめて言う。
「おまえみたいに物事捉えられたら、楽しいだろうな」
「ううん! 要領悪い自分を、そうやって励まし中だよ!
本当は、…珪くんみたいに、スラスラ覚えられたら、って思ってる、いつも」
「みたいに、そうやって努力して覚えたら、その知識って、何倍も価値がある」
「あは……、そう?」
は唇を彩っている口紅が、カップについてないか、そっと見た。
そして飲み終わると、小さく伸びをして、
「んー、もう6時だね。……そろそろ帰ろうかな?
でね、家に帰ってもうひと頑張りするんだ!」
「……そうか」
腕時計を見るために手首の裏側を返す。
それが、魚の白いハラのようで。
薄暗くなった部屋の中ではひときわ白く見えて。
の唇を彩ってる口紅。
ぼんやりと輝く白い手首。
全部、見たい。
口紅の下の、口紅よりも綺麗なイロを。
手首から続く、なだらかな肩を。
俺はトレーの上にカチャカチャとコーヒーカップを載せているの手を掴んだ。
「ん?」
「こっち」
「もう…。ダメだってば」
いつもこの方法で誘っているから、ニブいもさすがに分かってるみたいで。
「いいから」
無理矢理身体を引っ張り込むと、俺はの手首から腕時計を外して。
の耳元で息を吹きかけるように呟いた。
「2人の時は、時計なんか見るなよ」
こうすれば、…は、許してくれる。
そんな思いが俺の中にあった。