*...*...* Departure (1) *...*...*
 俺はその時、夜の空を見ていた。

 これで曇ってなければ、あいつの好きな月や星が見えるんだろうけど。
 今夜の空は曇っていて。
 そしてこれから、夏に向かおうっていう時期なのに、
 まるで秋のような涼やかな風が、耳の横を通り過ぎていった。


 夜11時頃の電話。
 長いつきあいで、いつの間にか2人の間で決められた、ソレ。
 俺がかけたり、がかけたり、と、いつもかけたい、と思った方がかけるけど、
 不思議と重なったり、話し中だったりしたことはない。
 こういうのをきっと、波長が合う、って言うんだろうな。
 俺はシャワーを浴びた後、冷蔵庫からミネラルウォータを取りだして一気に飲み干すと、一息ついた。
 もうすぐ、かかってくる。多分。
 きっと携帯にぎりしめて『もうシャワー終ったころかな』なんて電話するの迷ってるんだ。

「!」

 シルバーのケータイが、肩を震わせながら聞きなれたメロディを流すと、
 俺は3回呼び出し音をやりすごした後、ゆっくりと通話ボタンを押した。

?」
「珪くん!」

 耳元で、の優しい声がする。
 張りのある声。電話越しでは、少しくぐもって聴こえて。
 それ、がこの時間帯には相応しい音に感じる。

「珪くん、お疲れ様。今日は1日中デッサンしてるって言ってたよね。
 どうかな? はかどったかな?」
「ああ、まあ、な」

 の声がいつもより心なしか弾んでいるから、俺も嬉しくなって尋ねた。

「おまえは今日なにしてたんだ」
「んとね、昨日の夜突然たまちゃんからショッピングに誘われて、
 ショッピングモールに行って来たんだ〜。
 久しぶりにたまちゃんに会えて嬉しかったよ。
 それがね、卒業して3年もたったのに、彼女、全然変ってないの。服、選ぶときもね」


 聞き慣れた、穏やかな、声。
 いつもこの声を聞くと、自分の中の焦りや戸惑いが小さくなっていくんだ。

 ―― コレ、がなくなって、やっていけるのか?
 ……俺自身が。

俺は小さくため息をつくと、髪の毛の水分を含んだタオルを洗濯機の中に投げこんだ。

「ん、と、珪くん?」
「ああ、悪い。なんだ」
「もう、やっぱり聞いてなかったんだー」

 少しだけ声に怒ってる様子を絡ませてながら、はもう一度言った。

「珪くん、一緒に、海、行こ?」
「海?」
「そう。夏だもの。夏しかできないこと、珪くんと、いっぱいしたいな。
 たまちゃんと新しい水着も買ったの。前のと違って少しおとなっぽいんだよ」
「……で、俺をビックリさせよう、って?」
「や、やだな、もう、先読まれちゃってるの?
 そ、そうなの! 今度は、多分、大丈夫、だ、と……」

 だんだん声が小さくなるから、思わず笑ってしまう。

「なんだ、自信ないのか?」
「そんなこと、ないもん!! って、言い切っちゃってもいい? わたし///」
「頼もしいな。……期待してる」
「う、ん、と、期待してて、っていうか、あまりしないでっていうか、
 もっとメリハリがある身体だったらいいんだけど、あー、もう! これ以上言うと自滅しそう」

 今更なに言ってるんだろう、こいつ。
 まあ、こんなところが可愛いんだけど、な。

「かまわない。水着なんて、どんなだって」
「えー。せっかくステキなの選んだのに〜」
「……俺、おまえの身体、好きだから」

 そう言うとは俺の予想通り、絶句した。


「ははっ。…?」
「あ! じゃ、じゃあ、何時に待ち合わせしよっか?」

 ぴたぴたと頬を叩く音が電話越しに聴こえる。
 きっと真っ赤になった頬をもてあましてるんだろう。

 どうしてこいつ、こんなに分りやすいんだ?

 ―― 高校のころから。……いや、初めて出逢ったころから。



『―― なくなよ』
『ないてないもん』
『じゃ、どうして、め、あかいんだ』
『えと、きのう、にんじん、いっぱい、たべたから』
『?』
『うさぎさん、に、なったんだ、よ。わたし』


 きっとね、もうすぐ、ながいみみ、も、はえてくるの。

 俺が別れを告げた幼い日。
 はそう言いながら、ぽろぽろ涙を流しながら走っていってしまった。
 俺は、独り、残されて。
 自分が言い出したにもかかわらず、まるで置いていかれたような
 やりきれなさを感じたんだっけ、な。


 ……今度は?
 俺が、今、別れを切り出したら?
 こいつはどうなるんだ?

 そして、俺も。


 俺の心の中を知るはずもないは、嬉しそうに言葉を連ねている。
 そして大体の時間を決めた後、俺はまるでたった今思いついたかのようにさりげなく言った。


「尽、誘ったら、来るか?」
「尽? うーん、どうかな? 聞いてみないと分らないけど。
 珪くんがそう言ってた、って聞いたら、他の予定をキャンセルしても来るんじゃないかな?
『イイオトコ、チェーーック!』なんて言って」
「そうか」

 できれば直接会って、頼んでおきたい。
 こいつの、これからの、しばらくの間のこと。

「今度の週末、楽しみにしてるね! じゃ、お休みなさい。珪くん」
「お休み。


 俺はが切るのを確認してからそっとケータイを切った。
 これも2人の間の決まり事。
 付き合いはじめたばかりのころは、お互いがお互いの電話の切れるのを待ってて。
 ずっとしばらく、ケータイを耳にあてていたこともあった。
 特に会話もないのに、それが全然イヤではなくて。
 お互いの息遣いを、聴き入ってる……そんな感じだった。


 俺はケータイを机の上に置くと、引出しの中から航空チケットを取り出した。
 出発の日は、ちょうど2週間後。
 チケットは、……1枚。
 そして、片道。

 もう、いい加減に伝えないと、な。


 ―― そして俺はまた、何も見えない空を仰ぐ。
 手を伸ばすと、何かがつかめそうなのに。


 手を伸ばすと、だんだん自分の指が暗闇に紛れて、見えなくなっていくんだ。
*...*...*
 そして当日。

「わあ、今年は冷夏だって言ってたけど、こうして来てみると結構暑いね!」
「……ああ」

 眼下には、俺が想像したよりもはるかに美しい海が広がっていた。


「……まだ、夏が残ってて良かったね!」

 来週は、遊園地のパレード見てね、その次の週は、新しい映画、見に行きたいの。
 たまちゃんからいろんな映画の話、聞いたの。
 ほら、鈴鹿くん、あっちにいるでしょ? だからそういう情報も早くて。
 珪くんが好きそうなジャンルも何本かありそうなの。

 は嬉しそうに腕をからませながら、あれこれと予定を立てている。

「そうだな、来週は行けるかもな」
「やった」


 は嬉しそうに両手をぱちんと合わせると、俺を見上げた。


『再来週は行けない』


 って、いつ言うんだ? 俺。

 の髪を夏の強すぎる日差しが照らしている。
 暗いところでみても色素の薄い髪が、外では更にきらきらしてて。

 ―― この距離なら、いつでも簡単につかまえられるのに。


……」

 俺はの髪を風から守るようにすくい上げた。


「ん?」


 なあに? どうしたの? は何もかも許してくれそうな穏やかな瞳で見つめ返してくる。
 この瞳が、不安で翳るようなことは、したくない。
 けど。
 ―― こいつは、待っててくれるだろうか?


「俺……」

「ちょっと〜〜。葉月〜、ねーちゃん。俺の存在、認識してる?」


 俺の前を3人では食べきれないほどの食料とピーチパラソルを抱えた尽が、
 足元の砂を蹴り上げて言った。


「わ、あ、あの、わ、わたしなにか飲み物買ってくるねっ。尽、ヘンなこと言って珪くん困らせちゃダメだよ?」

 は尽の視線に真っ赤になると、
 はじかれたように俺の手をすり抜けてパタパタと今来た方向と逆の方向に走って行ってしまった。

「あ、おい、気をつけろよ?」

 あわてて背中越しに声をかけたけど。……聞こえたか、どうか。

 は本人に言わせればぼんやりしてるからってことらしいけど、
 しょっちゅう通りすがりのオトコに絡まれて、あたふたしてるから。


 ……大丈夫か? あいつ。俺が付いていった方が、いいか……?
 あれこれ迷っていると、  もう俺とそんなに目線の位置が変わらなくなった尽が、ここでいいよな、とパラソルを器用に立てながら言った。


「なーんだ。珍しく俺なんか誘うから、2人の間に秋風でも吹いてるのかと思ったら。
 俺が心配することなかったな。2人ともラブラブじゃん」
「心配してたのか?」
「へへっ。まあな〜」


 と尽は俺が知ってる限り、とても仲の良い姉弟で。

 でも姉であるがすっかり弟の尽に頼り切っているところが、普通の姉弟とは少し違う気がする。
 出会ったころはランドセルを背負っていたから、まだ弟に見えたものの、
 こんなに背が高くなると、童顔のの方が年下に見えるだろう。

 尽と俺とは、を『愛する形』は違うけど、を大切に思っていることには、変わりがなくて。
 ―― こんなヤツがの身近にいてくれてよかった。


「でもさ、なんかあるのか?」
「ん?」
「話があるから俺のこと誘ったんだろ?
 さっきもねーちゃんになにか言いかけてやめただろ?」

 手際良くビニールシートをひきながら、尽は俺をちらりと見た

「鋭い、な」
「まあな。この鋭さをほんのちょっとでもねーちゃんに分けてやりたいよ。
 見た目は葉月のおかげであんなに大人っぽくなったのにさ。
 内面がなー。なんかトロくさいんだよ、ねーちゃんは」


 俺は、ビニールシートに座りながら、
 よし、いいとこ取れたじゃん、と満足そうに海を眺めている尽に言った。

「俺……。そんなあいつが好きだ」
「?」
「ニブくて、トロくて、子供っぽくて。
 でもなんに対しても一生懸命なあいつが好きだ」
「葉月〜! そんなん、俺じゃなくて、ねーちゃんに言えよ」

 呆れ顔の尽を無視して、俺は話し続けた。


「この気持ちは、ずっと変わらない。……離れてても、な」

「は? 突然なに言い出すんだよ? 離れるってなんだよ? どういうことだよ?」


 尽は振り返ると、俺の顔の中に答えを見出すかのような強い視線でにらんだ。

「あいつのこと、頼む」

 俺は祈るような気持ちで、尽を見つめ返す。


 きっとあいつ……。平気なふりをして。
 でも自分のベットの中でだけは、声を殺して泣くから。


「た、頼む、ってなんだよ? ちゃんと分かるように言えよっ。
 ねーちゃんは、知ってるのか? わかってるのか? 葉月の気持ちをさ。
 って知るわけないよな。あんな様子じゃ」


 俺は売店から帰ってくるの姿をみとめると、軽く手を振り、

「ちゃんと、俺から話す。…だから、あいつの、フォロー、頼む」

 と小声で尽に言った。


「お待たせ〜。ごめんね。遅くなっちゃった」


 は両手いっぱいに飲み物を抱えて帰ってきた。
 ―― 俺たちは3人。……飲み物は、5つ?
 俺の視線の意味を察したのか、は照れながらぼそぼそと口の中で言い訳をしている。

「あはは、たくさん飲みたいものがあって、選びきれなかったの。
 みんなでちょっとずつ飲めばいいよね?」
「え? 俺、葉月と間接ちゅー、するの?? パス! やめっ!
 あ、俺、このジンジャーエール、もーらいっと」

 尽はさっきとはうって変わって元気な声を出して、飲み物に手を伸ばした。

「あ、わたしもジンジャーが良かったのに〜。……ね、尽、ちょっとだけ」
「ちぇ、ちょっとだけ、って言って、きっとねーちゃんが全部飲んじゃうだろうからなー。
 しょうがねーなー。全く」


 そう言って、ちゅっとジンジャーエールを一口飲むと、

「さってと〜。邪魔者はひと泳ぎしてくるからさ! お2人はどうぞごゆっくり〜」

 おどけたフリをしながらも、尽は俺の目を見ると小さくうなずいた。

『ああ』

 俺もうなずき返す。……悪い。おまえにまで心配かけて。


「はい、珪くんは、コレがいいかな?」
「……サンキュ」

 は俺に飲み物を渡すと、トン、とシートに座り、眩しそうに目を細めて遠浅の海を眺めた。
 そして俺の方をふり返るとくるりと目を輝かせて。


「ね、……わたしたち、もう、何回、この海に来てるだろ?」
「高1の時から、だからな」

 はばたきの海は、年中穏やかで、海岸線が美しくて。
 俺たちは季節を問わず、しょっちゅう来てたから。
 俺は何回目かとに訊かれても、すぐに答えることができなかった。


「ね、来ている場所も、一緒に来ている人も同じだけれど、
 やっぱりなにかが違うような気がするね? ……風のイロ、とか、気持ちの温度、とか」
「……ああ、それ、何となくわかる」


 高3のクリスマス。
 おまえの驚く顔が見たくて連れて来たこの海。
 1年間、イルミネーションのことをずっと黙ってた俺を
 『おかしいよ?』と笑い飛ばして。
 ……それから『ありがとう』って泣き出してしまった


 高校を卒業した春。
 『今夜は帰さない』と言った俺を、
 恥じらいながら、とまどいながら、受け入れてくれた


 あの時の、こっくりとした風合いの赤いコートも、桜のようなはかなげなワンピースも。

 ―― 笑ってる顔だけじゃなくて。泣いてる顔も、困った顔も。


 全部、俺、覚えておくから。




 俺は深呼吸すると、の目を覗き込むようにして伝えた。



。―― 俺、日本を離れることにした」
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