*...*...* Departure (2) *...*...*
少しの間の沈黙。静かな波の音。
遠くでは子どもたちが両手いっぱいに水をすくって、
思いきり空に向かってしぶきを上げている。
こいつらの手なら、俺とは違って空まで届きそうだな。
無心で、純真で。
俺も昔はあんなふうだったのか。
……願えばなんでも叶うと思っていたあのころ。
今は。
―― 願うだけじゃ、ダメだ。
行動に移して、自分の手に手繰りよせなくては。
こいつも。
自分の夢も。
「……そうなの? また撮影か、なにかなの?」
「いや……」
俺がわざわざ『日本を離れる』と言ったのには理由があって。
決して今までのように1週間とか、10日とか短い時間ではないこと。
―― いつ帰ってくるのか予定が立たないこと。
しかしどうやら、そこまでのことは伝わらなかったようで。
はあどけない目を俺に向けてくる。
そして、突然眉をひそめると、
「あ、じゃあ、珪くんのお父さんになにか!?」
だから、突然行くことになったの? との小さな手が俺の腕を揺らす。
「、俺……」
「ん」
「石、の勉強をしてきたいんだ」
言葉の先をうながすように、は大きく頷いている。
「シルバーに載せる石の」
「…………」
「それだけを、集中してやってきたい」
今のぬるま湯につかるような生活ではなく。
ただ何もかも忘れて、石のことだけ学びたい。
「俺、何年か、シルバー作っているうちに、石にも興味がでてきたんだ。
この台にはどんな形の石が合うか、って。
でも、今、石って、とてもたくさんの贋作、……ニセモノがあるんだ。
あまりに精巧で何十年と鑑定している人でも見間違うほどの、な」
「ん」
「俺、早くホンモノを見極める目を養って、それで……」
『早くおまえと暮らしたい』
今みたいに親の庇護下にあるのではなく。
経済力を持って。
そして、の両親にも納得してもらって。
堂々と暮らしたい。
―― 結婚。
そのためにしなくてはならないこと。
思い描いた未来のために、今できること。
そのためには今、の少しの犠牲は仕方ない。
……ようやくそう思えるようになった。
は視線を足元に落としながら、やや乾いた声で訊いた。
「どこに、行くの?」
「ニューヨーク」
「いつから、行くの?」
「……10日後」
「どれだけの間、行ってくるの?」
「短くて、年内。……長いと、わからない」
「……大学はどうするの?」
「必要な単位は3年までに全部取ったから。後はもう行かなくてもいいんだ」
俺はがどんな反応を示すか、正直とても不安だった。
でもは、とても落ち着いてて。
まるで今度の週末は会えないから、といった些細な話を聞いたときのようだった。
「きっと、もう、なにもかも、決めてるんだよね?」
「……ああ」
「チケットも取って。お仕事も調整して」
「…………」
「きっと、いっぱい、考えて、決めたんだよね?」
はすくっと立ち上がると、脚についた砂をパンパンとはらって。
笑顔で俺を振り返ると、言った。
「―― わかった」
そして。
俺たちの近くで、作っては崩れる砂のヤマに泣きべそをかいている女の子に近づいて。
「ほら、おねーちゃんと一緒におヤマ作ろうか?」
「……うん!」
まだ目じりに涙を光らせたまま、満面の笑顔になる女の子。
「こっちおいで〜」
は嬉しそうに女の子を手招きして。
―― さりげなく俺に背を向けて。
「大きいの、作ろう、ね……?」
俺は。
の語尾が震えているのを感じていた。
*...*...*
泣かない。わたしは、泣かないんだ。小さな女の子から借りたカラフルなプラスチックのスコップで、
がしゃがしゃと砂を掘りながら、わたしは下唇をきゅ、っとかんだ。
いつからかな? ……ゴールデンウィークを過ぎてからかな?
わたしを見つめる珪くんの瞳のイロの深さに、ひどく納得いかないものを感じていたのは。
何かを確かめているような……迷っているような。
……取り残されるのを恐れている? ―― 幼い男の子のような、瞳。
でも、訊けなかった。
きっとこれは、珪くんの中でも、まだ答えの出てないことなんだって。
彼の中でまだ、そのナニかをわたしに伝える準備ができてなくて、
今、ピッタリした言葉を探している最中なんだって。
そう、言い聞かせてた。
『ね、教えて?』
なにをそんなに悲しがってるの?
わたしを射るように見つめたあと、ふと視線が揺れるのはなぜ?
わたしを強く抱きしめたあと、自分を戒めるように身体を引き剥がすのは、どうして?
夢の中では、たくさん訊くことはできたけど。
夢の中でも、珪くんは、笑って首を振るだけだった。
「おねーちゃん?」
「あ! ん、なあに?」
「こんどはね、とんねる、つくろ?」
「いいよ〜。じゃ、そっちから掘ってね?」
女の子は嬉しそうにわたしの反対側に行くと、ふっくらとした手で懸命にトンネルを掘り始めた。
わたしも負けずに掘っていく。マニキュアの剥げるのなんて気にしないで。
けど、ヤマが大きすぎるからか、女の子の腕が短いからか。
砂の中の手と手は、なかなかつながらなくて。
『珪くん……』
今、手を離したら。
砂の中の手と手のように。
もう、会えなくなっちゃうのかな?
イヤだ、そんなの。
―― 泣かない。
鼻の奥のツンとした熱いものを、わたしは唇を噛むことでやり過ごす。
泣かないんだから。
目を思いっきり見開いて、涙を押し込んで。
わたしは目の前の女の子に微笑む。
「む、難しいね?」
もう、腕だけじゃなく、顔も身体も砂まみれだ。
(なに、むきになってやってるの? わたし……)
「おまえ、なにやってるんだ?」
声の方向を仰ぐと。
珪くんが、まるで痛々しいものを見るかのようにわたしを見ていた。
「あの、えっと……。なかなかトンネルができなくて……」
「手伝ってやる。……ほら」
そう言って優しく女の子を脇にやると、女の子が作っていたトンネルに腕を入れた。
「ん?」
「あれ?」
もぞもぞした感触のあと、つるりとした珪くんの爪、を見つけた、と思った瞬間。
珪くんはわたしの手首を引っ張った。
「……つかまえた」
「……ん」
珪くん……。今度もちゃんと、つかまえてくれる、かな……?
―― こんな小さな予感が、ホンモノになればいい。
*...*...*
夏の陽がひどい暑さを残して、暮れかかろうとしていた。尽は、身体の芯が1つ抜けてしまったようなのぼんやりとした様子を見て、俺が伝えたことを察したようで。
「あ、俺、ちょっと用事があるのを思い出しちゃったよ。
あ、出掛けに母さん、夕食作るんだ、なんて張り切ってたけどさー。
なんとか上手く言っておくから、2人でゆっくり食事してきなよ」
あ、なんなら、泊まってきてもいいからさっ、とおどけながらを覗き込んでいる。
「も、もう〜。尽ってば、なに言ってるの! 高校生のくせに」
尽は、自分の肩を小突こうとしたの手を簡単に取ると、もう、勝てないんだからさ、と、笑って。
「おっ! いつもの元気なねーちゃんの、本領発揮、ってところか〜?
葉月もこんな彼女持って、大変だよな〜。俺からも礼を言わなくっちゃな」
「なっ、もうー。全くエラそうなんだから。……これじゃどっちが年上かわかんないじゃない!」
「はいはい、っと〜。じゃ、葉月、あとはよろしくな」
「……ああ」
「尽、ごめんね? お母さんに謝っておいて? ね?」
そうして。
尽が帰ってからのは。
―― 尽の前ではこれでも必死に取り繕っていたんだろう。
身体中に満ちていた生気がしぼんだように小さくなって。
「……?」
「ん」
「……なに、考えてる?」
「ん……。さっき、珪くんが言ってたこと……」
「…………」
「あのね、……わかったから」
「……そうか」
「ん、今って、ほ、ほらっ、電話もメールもあるもの!
離れてたって、声は聞けるし、ね!!
会えないのはちょっと寂しいけど。ん、大丈夫」
だから、珪くんの納得いくまでやってきて? と、言葉をつなぐの髪をなぜながら。
俺は、自分の中で決意していたことを告げた。
……これも、日本を離れると決めるときに、決めたこと。
「、悪い。……俺、電話もメールも、しない」
「!?」
「石、だけに打ち込みたいんだ」
そうでもしなければ。
声を聞いてしまったら、おまえの様子を知ってしまったら、
きっとなにもかも放り出して、日本へ帰ってしまうから。
「……そう……」
は傷ついた目のイロを押し隠すようにしばたかせると。
夜に向かって変色しはじめた海を見つめながらつぶやいた。
「……ね、珪くん。
いつか、……いつの日か、ね。
『あの時は寂しかったね』って笑いあえる日がくるのかな?
その時、珪くんは、わたしの隣りにいてくれるのかな?
『そうだったな』って一緒に笑ってくれるのかな……?」
それは俺を責める、という響きはなく。
ただ、不安に彩られて、震えていたから。
俺はその震えをなだめるように、小さな背中を抱きしめた。
「……バカだな。おまえって、本当にバカ」
すると俺の言葉には身体を強張らせて。
「ひどいよ。珪くん。わたし、バカじゃないもん!
珪くんが突然なんだもん!
どうしてこんな大事なこと、もっと早く教えてくれなかったの?」
「教えたら、なにか、変わるのか?」
「!?」
「おまえのツラい時間が増えるだけ、だろ?」
俺自身、自分のビジョンが見えてきてから。
航空チケットを用意してから。
―― 何度チケットを破ろうとしたか。
自分の『夢』は、ただわがままな行為なのか、とか。
もっとゆっくり、日本で勉強すればいいのではないか、とか。
……1日の中でも自分の思いが目まぐるしく変わって。
いや、本当のことを言えば。
―― ただ、と、離れたくない。
それだけだったんだ。
そんな簡単なこと、悩み続けていたから。
俺はの髪をかきわけ、少し日焼けして赤くなった首筋に唇を落とす。
……は俺のされるがままに、柔らかい身体を預けていた。
「正直言うとね、……想像つかないの。
ずっと、一緒にいたでしょ? 一緒じゃなかったときが思いだせないくらい。
会えない日があっても、電話すれば、声訊けたでしょ?
会いたいって思ったら、自転車でも行ける距離だったでしょ?
……それが、突然、ニューヨークだなんて。
電話も、メールもできないなんて!」
話しているうちに感情が高ぶってきたのか、は泣き出してしまった。
「……」
「ご、ごめんね。取り乱して……」
「謝るな」
謝らなくていい。
俺が日本を離れることを切り出してから、ずっと辛抱してたんだろ?
「でも、今日、は、ダメ、そう……」
「いいから」
さらに腕をきつく絡ませて、首筋に顔を埋める。
明日からおまえが流す涙、全て。
―― 俺の海になってくれたら。
。
おまえ、声、殺して泣くんだな。
そんな泣き方されたら、……俺は。
「……、行こう」
俺はそっとの手を引いて立ち上がらせた。