*...*...* Departure(3) *...*...*
 珪くんの進む足取りは確信に満ちていて。
 わたしは、ただ取り乱して、自分の涙を止めるのに必死だったから。
 珪くんがチェックインするためにフロントに向かった時、
 ここで待ってて、と、なだめるように頬に触れた指で、はっと我に返った。

「ここ……?」
「そう、おまえと、初めて、の場所」
「…………」

 珪くんは、フロントから戻ってくるとルームキーを手にしながら、エレベータの最上階を押した。

「あの時のおまえ、かわいかったから」


 あの時……。
 珪くんに、初めて、抱かれた時。

 ほんの3年くらいしか経ってないのに、わたし、ずいぶん変わっちゃった気がする。
 高校3年間の片思いで、切ないキモチって、充分すぎるほどわかったつもりでいたのに。

 ―― こんなに、珪くん、の、存在に、慣れて。

 初めてのときとはまた違う、コワさ、が、わたしを支配する。
 10日後には、珪くんが、イナイ。

 震える声で、わたしは問いかける。


「……今、は?」
「今? もっと、かわいい」
「どこ、が?」

 珪くんは、わたしの声のトーンに気が付いたのか、小さく笑って。
 わたしを抱きかかえると、背中をすっと撫ぜ上げた。

「……っやぁ」

 抑えようとしても抑えられない声。
 2人きりのエレベータ内なのに、わたしはあわてて口を押さえる。
 そんなわたしの様子を見ながら、
 珪くんは満足そうにわたしの手を取りつぶやいた。

「……そんなところが」

 わたしはやんわりと手を外すと、珪くんをにらんだ。

「でも、今日はそんなセリフに騙されないもん!
 ……珪くん、やっぱり、このお話、突然すぎるよ。
 わたし、さっきまでは、悲しかったんだけど、だんだん怒りたくなってきちゃった!」

 わたしはどうしたいのかわからない感情にもまれながら、
 部屋に入るなり、珪くんが歩く方向とは反対の窓側へ向かった。

 珪くんはそんなわたしにムッとする風でもなく、
 ゆったりとソファに腰掛けると、視線だけをわたしに這わせている。


 ね、……こんなに寂しい、って、つらい、って思ってるのは、わたしだけなの?


「も、もう! わたし、本当に怒ってるんだからっ」
「……そうか?」
「そうだよ。怒ってて、ね……。もう、珪くんのこと、待ってないんだから!
 待ってなくて、ね。いい人見つけて、仲良くするんだから」
「…………」

 ちょっと言いすぎだったかな、と、わたしはちらりと振り返って、珪くんの表情を仰ぎ見る。
 すると珪くんはただ愛おしそうにわたしの行動を見ていて。


 ……あ、まただ……。
 もともと珪くんは優しかったけど。
 この頃はわたしが何をしても、全てを受け入れるような優しい目で、
 わたしの全身をくまなく見ている気がする。

 ―― まるで記憶に焼き付けるかのように。

 やっぱり、あの話、は、現実なんだね。
 現実、で。
 わたしがどうこう言っても、変わらないもの、なんだね。


 わたしは余裕のある珪くんを見ているのがクヤしくて、
 さらに言わなくてもいい言葉を言いつのった。


「珪くんよりも、背が高くてね。珪くんよりもカッコ良い人、探すんだから。
 それで、珪くんよりも優しい人で、……それで、それで、ね?」
「……ムリ、だろ?」

 ……明らかにからかってる口調。

「なんで!? わかんないじゃない、そんなこと」

 珪くんは、すっとソファから立ち上がると、わたしの立っている窓辺に近づいてきた。

 ……キレイ。
 そんな、なんでもない身のこなしが。
 ……いつ見ても、美しくて。

 そうして一瞬だけたじろいだわたしを背後から抱き寄せると、珪くんはポツリと言った。

「ムリ、だ。そんなこと」
「む、ムリじゃないもん!」
「バカ」
「バカじゃないもん」


 素敵な人と仲良くなって、け、珪くんを忘れるんだから。それで、ね……。
 わたしが言いつづけると、珪くんはちょっと身体を強張らせたあと、自分に言い聴かせるように言った。


、……俺がおまえしか、愛せないように……。おまえも俺しか、愛せない」
「…………」
「だから、待ってて欲しい」
「…………」
「待ってろ」
「…………」


「ずっと、一緒にいたんだ。……これからも、一緒だ」


 わたしの耳のうしろに顔をこすりつける珪くん。
 ―― 何度も、何度も。


 !?


 この、耳から首へと滴(したた)るものは、なに?
 熱く、て。
 ―― 幾筋もの、流れ。


「珪くん……!」


 わたしは、とんでもない思い違いをしてたのかもしれない。
 寂しいのは、わたしだけだって。
 つらいのも、わたしだけだって。

 ……珪くんは、寂しくもつらくもないんだって。


「珪くんっ。珪くん!」


 わたしは身体を反転させて、珪くんを思い切り抱きしめる。
 身体の大きさが違うから。……ちょっとムツカシイ、けど。
 わたしの持ってる力、全部出して、抱きしめる。

 ―― なにを取り乱していたんだろう。

 わたしも珪くんも、同じ、だったのに。


 珪くんの髪の毛を撫ぜながら、わたしはひどく落ち着いているわたしにとまどっていた。
*...*...*
「ほら、珪くん、……こっち」

 安心しきって、身体を預けようとした珪くんをそっとベットに横たえて、
 わたしはタオルケットを掛けた。

 ……穏やかな寝息。

 きっと。
 いつ言おう、いつ、告げよう、って……。
 心配ばかり、してたんだろうな。

 そんな珪くんの寝顔を見ていたら、涙が溢れて……、止まらない。


 いい、よ?
 ―― もう、いい。


 時間や、距離が、わたしたちを切り離す原因になっても。


 こんなに、愛した、愛された、って、思いが。
 ……わたしの中に残るなら。

 わたしの存在が、珪くんの支えになってくれるなら。
 寂しい、なんて、言っていられない。


「珪くん……」

 愛してる、って動かない唇をそっと撫ぜて。
 顔中に、キスを落とす。
 ……どれだけしても、し足りなくて。

 さっきの。
 珪くんの涙を、感じて。
 かすかに震えてる肩に、触れて。

(守って、あげたい)

 いつもいつも守られてばかりいたけど。
 こんな小さい子に対して湧き上がるような感情を、珪くんに抱くのは初めてだけど。

 これは、

『愛すること』

 を、超えた、さらに先の感情のような気がする。


 珪くんの寝息が規則的になったのを確かめて。

 (……ん。ちゃんと眠った、よね?)

 わたしは、わたしの手をぎゅっと握りしめていた珪くんの手をそっと外した。

 珪くんの小指に触れながら……、いつも思う。
 見えない糸、確かめられたらいいのにね。
 ―― お互いのキモチも時間も、このままで止まれば、いい。

 そう考えて、わたしはかぶりをふった。
 ……バカだ、わたし。
 さっき『もう、いい』って、決心したばかりなのに。
 今、このまま、立ち止まるんじゃなくて。
 これから、ずっと、珪くんのこと、見つめていかなきゃ……。


 部屋に差し込んでいた月のヒカリが、少しずつ傾いて時間の経過を知らせる。

「ん、と……。今、何時だっけ?」

 わたしはベッドサイドの明かりを消して立ち上がった。
*...*...*
「……?」

 あいつ、どこ行ったんだ?
 さらりとしたシーツの感触を確かめながら、
 が眠った形跡のないのに気がついた。

 ニューヨークへ行くと告げてから、あいつ、海岸でぼろぼろ泣いて。
 ……それから。
 この部屋へ来てから、いろいろやんちゃを言ってたな。
 それで、俺が、抱きしめて。
 おまえのにおいを感じてるうちに、……こうなったの、か。

? どこにいる?」

 見渡しても、部屋に気配を感じない。
 俺はベットから降りると、部屋のあちこちを見てまわった。

?」

(家に帰ったのか?)

「?」

 ふと窓際を見ると、カーテンが朝方の風に揺れている。

!」

 ベランダを覗くと。
 まだ何のイロもついてない、朝の空気の中。

 ―― 空に、透けてしまいそうなおまえがいた。


「あ、珪くん、おはよ。……起きた?」
「……ああ」


 良かった、よく眠れたみたいだね。そう言いながら、は俺の方に近づいてきた。
 そして、俺の目を覗きこんで。


「珪くん……。あのね?」
「なんだ?」
「気をつけて、行ってきて?」
「…………」
「わたし、待ってるから」
「…………」

「数ヶ月、会わなくたって、平気。
 だってほら、もうこんなに、珪くんがわたしの中にいるから」
……」

「ひんやりした唇も。
 わたしにぴったりな胸も。
 ……わたしを鳴かせるこの指も」

『メ ヲ トジレバ ゼンブ オモイダセル カラ』

 そう言って、小さな手が順番に俺の身体に伝っていく。
 そのたびに、愛しさとともに、疼く、身体。

 の手が俺の指に降りてきた時。
 俺はの手をつかむと、身体ごと胸の中に押し込んだ。


「……、俺をこんなに煽って……。おまえ、どうするつもりなんだ?」
「……!? わ、わたし、煽って、なんて、ない……っん!」

 言い訳をするの口をふさいで、俺はベットへと誘う。




 朝の情事はけだるくて。

 その日、1日が、ソレだけ、になるけど。
 それは、俺の……、2人の、望んでいること、だから。


「「……もっと、求めて?」」


 俺の声か、あいつの声、か……。
 攻めても攻めても、底が見えない。きりがない。



 何度目かの、あと。

「―― もう、なにも、見えない」

 はそう言って、自分の目を覆った。
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