午後4時。12月の日本は、早くも陽が暮れかかっている。
「は、葉月! おまえ、こんなところでっ。っていうかいつ戻って来たんだ?」
ニューヨークを飛び立つまではあんなにもグズグズしていたクセに、日本に戻って来てからの俺はこの日1日をに会えないまま終わってしまうのさえ惜しくて、肩で息をしながら玄関に出てきた尽に問いかけた。
「……、は?」
「ねえちゃんは葉月が帰って来るの、知ってる……わけないよな。知ってたら、出掛けたりしないよな」
「いないのか?」
「ああ。デートだって言って出掛けた。夕飯はいらないって」
「……デート?」
鈍い痛みとともに、久し振りに走り込んだから、だけでは説明のつかない、めまいのようなものを感じる。
顔色が変わったであろう俺に、尽は弁解するように早口で告げる。
「って、誤解するなよ。葉月とデートしてるんだぜ、ねえちゃんは」
……俺?
俺は今、ここにいて。
いや、半日前はここから海を隔てた地にいたわけで。
わけがわからないながらも、俺はを探しに行くために身体の向きを返る。
まだ、あいつに手が届くのなら。
── 俺は絶対諦めない。
ちぇ、まったくもう。タイミング悪いぜ。ねえちゃん、葉月がいなくなってからケータイも持ち歩かなくなっちゃったからな、とぼやきながらも、怒ったような声を俺の背中にぶつけた。
「褒めてやってくれよな。ねえちゃんのこと」
「尽……」
「ねえちゃん、ひとりで頑張ってたぜ。どんなときもさ」
俺はその言葉を背負って、走り出す。
見つけ出してやる。
手遅れになる前に。
── まだ俺に少しの可能性が残っている間に。
*...*...*
はば学の教会。クリスマスに行われるミサの準備が進んでいるのか、ほの暗くなった教会の中では、目に痛いほど白いろうそくが、センターラインを跨いで左右交互に灯されている。
俺は目の前の牧師と話をしながら、途方に暮れていた。
「ああ。あなたのおっしゃってるような女性は先ほどまでここにいましたけど、……そうですね、もう1時間以上前に帰りましたよ」
「どこに行くか言ってませんでしたか?」
「……ええ。なにも聞いていません」
目の前の年老いた牧師はまるでそれが自分の落度のように俺に頭を下げてきた。
何事もすべて自分が起因してるのだ、という態度の敬虔なクリスチャン。
その態度には俺をイラつかせるものは何一つないのに、なぜか俺の心の裏側を引っ掻いた。
ふとじいさんの横顔が浮かぶ。
じいさんは熱心なクリスチャンだった。けど俺はその影響を受けないまま大人になった。 それは幼いころのとの別れが原因だったと思う。
願えば、通じる。いつか叶う、と。
周囲の大人たちはそう言ったし、俺もそれを信じて祈ってたこともあった。
でも。
『いつか』
その言葉が永遠とも思える程長い時間が流れて。
時間の概念が曖昧な幼い子どもが、願うのに疲れて、神様を恨むようになったのも不思議じゃない。
じいさんは神様の悪口を言う俺を責めることなく、ただ淋しそうに俺の頭を撫でていた。
俺は、みんなが信じる神様というものを信じられない自分よりも、神様なんか信じない、と言い切る俺を見つめるじいさんの淋しそうな表情を見る方が辛かった気がする。
礼を言うことも忘れて突っ立っている俺を牧師は痛ましげに見つめている。
そして漆黒の式服の胸にかかっているロザリオを握ると、ゆっくりと十字を切った。
「……あなたに神の御加護がありますように」
*...*...*
わたしは牧師さんにお礼を言うと教会を後にした。気が張りつめていたのか、外の冷たい風に触れたとたんほぅっとため息が洩れる。そんなわたしの視界に雪がわたあめのようにふんわりふんわりと空から降りて来た。朝からぐぐっと冷え込むと思ってたけどこの調子じゃあ今日が初雪になるかもしれない。
(ニューヨークでも雪が降ってるのかな?)
この頃はネットをするとき、必ず見にいくニューヨークのサイト。
天気を見ては、温度を想像しては、どうかな? どうしてるかな? なんてとりとめのない時間を過ごしている。
ねえ。
何度、わたし思ったかな? 珪くんに会いたいって。
見て、聞いて、触れて、感じて。
五感で珪くんのこと感じたい、ってどれだけ願ったかな?
どーん、と落ち込みたくなる気分に陥って、わたしはなんだか笑いたくなってきた。
ヘンな、デート。
もうずっぽりと。頭のてっぺんまで珪くんに浸って。もう、いらない、もう十分なの、って、ごちそうさまって言えるくらい楽しむつもりでやってきたのに。
今わたしは楽しんでるという言葉とは対極にいて。
ぼんやりと考えごとに身をまかせながらも、わたしの脚は正確にわたしの身体を自宅へと向かわせる。
大きな道路を曲がると、閑静な住宅街が広がる。数年前は毎日通ってた通学路。
この角を曲がれば、いつも珪くんと寄り道した公園がある。ここでよく珪くんお昼寝してて、バイトすっぽかした、って笑ってたっけ。
嬉しそうに体育館裏の猫を語る珪くんと、雑誌の中での珪くんにギャップがありすぎて、わたしはいつも不思議だった。どうしてみんなわからないんだろう、って。虚構の珪くんだけを信じて、どうしてこの不器用な人のこと、知ろうとしないんだろう、って。
わたしはぴたりとそのT字路で足を止める。
このT字路の道を左に曲がれば、わたしの家。右に曲がれば珪くんの家に着く。
実は恋愛って本当はすっごくシンプルなもので。
待つという行為。待たないという行為。
これからも珪くんと一緒にいるということ、別れるということ。
すべてはこのT字路のように選択肢は2つしかないのかもしれない。
もし、わたしがもっともっと幼い少女だったら、今すぐここでブーツのファスナーを降ろして、思いきり脚を降り上げて、ブーツにわたしの岐路を預けただろう。
けど、今のわたしにはその無邪気さも、無鉄砲さもない。
わたしはちょっと周囲を見回して、誰もいないのを確認すると足元の小石をカツンと蹴った。
そして自宅とは反対の道へと走り出した。
……なにかに囚われるように。
*...*...*
真っ暗な珪くんの自宅が薄暗い街灯の中、淋しげに浮かび上がる。珪くんがいない間、掃除しに来ようか? と言ったわたしの申し出に珪くんは笑ってなにも答えなかったから、わたしも勝手にお邪魔しては悪いような気がして、いつも外から眺めるだけになっている。
ときどき家政婦さんが掃除のためにこの家に通っているようだけど、主を失った家というのはどこか一本芯が抜けてしまったみたいに頼りなく見えた。
……いつか。
この家に明かりが灯って。
わたしはその明かりの中へ、笑顔で入っていけるのかな?
笑って迎えてくれる人、いるのかな?
「……珪くん」
わたしは門扉にそっと手を掛ける。
そして、今日一度も発していなかった大好きな音を舌に乗せる。
それは甘美な柔らかさを伴って、わたしの中にたくさんの響音を作る。
会いたくて。……会えなくて。でも会いたくて。
会いたさが募って、わがままな気持ちが止められなくなると、いつもここに来て言う言葉がある。
ここが中心。彼の生活して来た場所。一番匂いが残る場所。
今、手摺りにつかまってて良かった。
そうじゃなかったら、きっと波打って見えるこの地面に飲み込まれちゃうよう。
えいっと脚にチカラを入れる。
世界中のどこでもない場所で、わたしは本当のわたしと対峙する。
「帰って、来て」
泣かないように、目を見開いて空を仰ぐ。
舞い落ちる雪が睫毛に付いて目の端に見える街灯が綺麗な虹の中に輝く。
「早く、帰って来て」
本当の気持ちだった。
『待ってる』だなんて。『自分のやりたいことやってきて』なんて。
カッコいい、分別ついた女の人みたいにとても言えない。とてもなれない。
もう、ずいぶん大人になってきたつもりでいたのに、わたしはやっぱり珪くんがいなくちゃダメみたいなの。
気の抜けた風船みたいにしょぼんと力がなくなっちゃうんだ。
「お願い、だから……っ」
弱さも涙もごちゃまぜだ。それはたったひとつの願いへと通じて。通じたとたん、それは口から漏れる息のように少しずつ空へと昇華されていく。
「!」
背後にがさりと人の足音がする。
その瞬間、決して短くはない時間、自分がこの場に留まっていたことを知った。
(不審者って思われちゃうかも)
自分でも説明がつかない自分の行動。そんなものを人に説明できるわけ、ない。
どうしよう……。
逃げちゃおうかな。走っちゃおうかな? それとも謝っちゃおうかな?
真冬の夜。しかも初雪が降るというくらい冷え込んでいる街でわたしは冷や汗をかいていた。
*...*...*
教会に行き。その後海にも行き。あいつと行ったいろんな場所。ダメだ……。記憶が多過ぎて、行っても行っても行き着けない。
たまたま週末のせいか、それとも人は寒くなると暖かみを求めるのか。俺はカップルの波にもまれながらも、小さなの存在を探し続けた。
(デート、か……)
さっきの尽の顔が目に浮かぶ。
のことを疑っているわけではないけど、すぐ近くにあいつのような存在があったら、どんな男も放ってはおかない気がする。
俺の心があいつを求めるとき、いつも浮かぶのはあいつの顔。
ふたりきりの時、俺に甘えたくなると、あいつまるで捨て猫みたいに腕にすり寄ってきたっけ。
そして、俺の身体があいつを求めるとき、思い出すのはあいつの髪から立ち昇るシャンプーの香りだったりする。
……俺以外にも、すぐ近くであいつの香りを感じたヤツがいるのだろうか?
感じて。……感じながら、彼女の甘い声を聞いたヤツがいるのだろうか?
やり切れない思いが胸の中に横たわる。
俺は帰国したときよりも水を含んだ分、重みの増したブーツにうんざりしながら歩き続けた。
記憶は薄らいでいるものの俺の脚は自宅への道取りを覚えていてくれるようで、俺の気持ちにおかまいなく俺の身体を目的地へと運んで行く。
角を、曲がって。
(ん?)
目を、凝らした。
薄暗い街灯の下。白い影がぼんやりと浮かび上がっている。
ひっそりと人通りの絶えた住宅街。
一歩一歩近づいて行く。微かに影が震えているのが分かる。
いや、実は影はまったく微動だにしてなくて、俺の視覚が揺れているだけなのかもしれない。
その影は、必死にしがみつくように門扉に手を添えている。空から降って来る雪がすべて、その影にまとわりついたかのような真っ白なコートを着ている。それが肩で苦しそうに息をつく。その度に、吐息が空に帰っていく。
俺は、目の前にある存在が夢のように儚くて声をかけるのも忘れていた。
(本当に、あいつ、か?)
湿り気を増した空気から懐かしい香りが流れて来る。
あいつの背の2倍以上に伸びた影。その中に俺の脚がゆっくりと入り込む。俺は自分の嗅覚に感謝しながらゆっくりと背中越しに手を回した。
「……やっと、見つけた」
*...*...*
愛しい者の温もりを胸に抱く。頬を伝って流れ落ちる水分は、俺のシャツを濡らす。それが肌にまで湿り気を与えてくれて、やけに気持ちがいい。
出掛ける前、泣かないように必死に笑顔を取り繕っていた。でも今は、ありのままに振舞っている彼女がこんなにも愛しい。
俺は抱きすくめながら、の頭に鼻を埋める。
「……一緒に、帰ろう?」
俺はすぐ横にある自宅の玄関を目で示した。
はようやく俺の胸から顔を上げると、まじまじと俺の顔を見て言った。
「なんだか、珪くん……。痩せたみたいだ」
「……そうか?」
首をかしげながらも、じっと俺を見つめ続ける。そして拗ねたような口調で言う。
「ちょっと大人っぽくなって、また少しだけわたしの先へ行っちゃうみたい」
先に? ……そうじゃないだろ?
今回はたまたま俺が俺から離れてしまったけど、それは目的があってのこと。気持ちの上ではいつも俺がを追いかけて来た。
話す。歩く。食べる。眠る。
誰とでもできること。でもおまえとしかできないこと。
こんなに俺にぴったりくるヤツを俺は知らない。そしてきっと、これからも見つけることができない。
気のせいだろ? と言う俺に、は珍しく食い下がる。
「追いついた、と思ったら、すぐ追い抜かれちゃうね」
「……」
「きっと、一生そうなのかな?」
そうでもいいけど、とは独り言のようにつぶやいた。
「……引き受けてやる」
俺は玄関の扉を開けながら答えた。
……この返事は彼女に聞こえたかどうかわからない。
手の平には俺の体温ですっかり温まった指輪が一つ。
を部屋の中へ誘いながら暗闇の中で眺めると、昼間はエメラルドのような緑色を湛えていた石が、の頬のような朱色をして俺を見返していた。