乾いた街、ニューヨークが朝を迎える。
目を開けるのにはいつもほんの少しの勇気が必要だったりする。
瞳の表面の薄い皮膜が一枚こそげ取られたような気がするからだ。
この街の空気が乾いているせいか、それとも俺があまり眠ってないせいか。
身体が自分の身体ではないくらい、クタクタになるまで知識を詰め込む。目を凝らす。
そうすることで、少しでも早く日本に帰りたい。
飛行機が降り立つ。最低限の荷物だけ持って、走って。
自宅に行くより先に、あいつの家のベルを鳴らす。
この腕に引き寄せて、最初。
── 今の俺はあいつに何を言うのだろうか? 何を伝えてやれるのだろう。
そこまで考えて、俺はテーブルの上にある蔵書の山にため息をつく。
石の知識、というものにはそれこそ限りがなくて。
古代の人が初めて見つけたときの驚き、石に対する信仰、それにまつわる神話、歴史的経緯など、人一人が生きてきた年数の数倍も息づいている場合、その知識は膨大なものとなる。
覚えても覚えてもなお出てくるノウハウに、俺は眠るのも忘れて、本に見入っていた。
ちょっとでも気を抜くと、思い出してしまうからだ。際限もなく。
待ってろ、と言った。
待ってると言ってくれた。
信じることに不安を覚えたわけじゃない。
けど、あいつは今どんな思いをしているだろう、と思うと、そしてその原因を作ってるのが俺だと思うとやりきれない感情が高ぶってくる。
目の前にある置き時計2つを見つめる。
一つは今俺がいるニューヨークの時間を。もう一つはのいる日本の時間を指している。
ニューヨークが朝を迎える頃、は眠りにつく。
あいつは穏やかに眠れているだろうか?
俺はあいつの幸せそうな寝顔を思い出して、笑えない自分に気付く。
自分で決めたことなのに、あいつが近くにいないという事実が俺を打ちのめす。
── 早く。
あいつに、会いたい。
*...*...*
実際、宝石の贋作を見分けるというのは、俺が思っていた以上に難しいものだ、と気付いたのは渡米から約2ヵ月が経った頃だった。一般に鉱物、と呼ばれる貴石も実はとても脆いもので。
最新の注意を払っていても簡単にヒビが入ったり、色落ちしたりするものもある。
それらを保護する方法は一般にエンハンスメントと呼ばれ、貴石の品質を安定させるもので直接石の評価には響かない。
「珪、『エンハンスメント』と『トリートメント』は全く別物だという認識を持ちなさい」
トリートメントこそがフェイク(=贋作)なんだ。
先生は、心底残念そうな顔をしてつぶやく。
「エンハンスメントだ、と客を言い含めて、ガラス玉にイロをつけたりな。中には、本物の石と石の間にガラス玉を詰めこんでカラットを誤魔化したりする輩もいる。ガラス玉の周りに巧妙に本物の石を貼り付けたりな。なあ、珪。そんなの神に対する冒涜だと思わんかね?」
「Certainly」
俺は本を読んでいる目を休めて、先生を見上げる。
知りたい、と思う気持ちはキリがなくて。
「いつでも。どんなときでも。私が君に願うことは、石のことを敬意を持って扱って欲しいということだけだ。な、珪……」
「はい」
「そろそろ帰るときが来たようだな」
俺の驚きを先生は包み込むように受け止めて。
頭の中で、と離れていた時間を、その長さを思う。
「もう、いいんですか?」
「まだ、いたいのかね? ここに」
「いえ……」
「自分がどれだけ努力したか、自分が一番良く知ってるだろう?」
「……はい」
陽が射しても。抜けるような青空が広がっても。
俺の目には何も映らなかった街、ニューヨーク。
人は観光のために訪れる街。
けれど俺は、自分がどこにいても、どこにも属していない人間だ、ということを認識するしかなかった街で、幼い頃の自分のように心が萎縮する街でもあった。
近くにがいなくては、片腕がもげたようだ、とも。
先生は、俺の目を見据えて言う。
自分が幸せになって。
最愛な人を幸せにして。
それでやっと見えてくるモノもある、から。
「幸せになりなさい、としか私は言えない。手をこまねいていては掴み取れない。けど、私はそれを君に願ってる」
年寄りの戯言だ、と思って聞いてくれたまえよ、そう言って先生は俺の肩を叩く。
「……君に餞別があるんだ」
ちょっと照れくさそうに視線を逸らしながら、先生はスラックスのポケットに手を入れる。
そこにはいつも石の埃を取り除くための柔らかい布と拡大鏡が入っていて、いつしかスラックスの布の形が内容物の大きさ分たるみを増している。
「今の君の気持ちを忘れないでいて欲しい。……それと、君のまだ見ぬ恋人へ、な」
恭しく取り出されたそれは、先生の体温を伴って俺の手の平に届く。
手を広げると、ちょうど生命線の上に爪ほどの大きさのある真っ赤なルースが煌めきを放っている。
「これは……っ」
俺は礼を言うのも忘れて、まだ日差しが残る窓側へと走り寄った。
血の色のような鮮やかな赤色をしていた石は、太陽の日差しを吸い込んで。
今度は目も覚めるようなエメラルド色に変色していく。
その変化を目の当たりにして、俺はため息をついた。
「さすがだな。珪。拡大鏡も使わないで一発で見抜いたか」
太陽の下では初夏の新緑のような緑を。
人工のライトの光の下ではとろりとした火のような赤を映す、石。
その豊かな変色性は神の奇跡とも称されるほど鮮やかだった。
── アレキサンドライト。
インクルージョン(包含物)も少なく、その澄んだ色合いは一目で最高品質のブラジル産だとわかる。
……でも。
「どうして、俺に?」
「聞きたいか?」
俺が深く頷くと、先生は俺の目を覗き込んで言った。
「その目、だよ」
「俺の?」
「人は騙されるかもしれない。君のその容姿と、穏やかな翡翠の瞳に。けれど、ニューヨークに来たとき、珪は血の涙を流してるように見えた。まるで、すべての家族を失った幼い男の子のような目をしていた」
「先生……」
「傷ついた目をしているのに、何かに挑んでいるような、燃える目をしていた。そこまで傷ついてここにやってくる理由があるのかとさえ、思った。でも君は何も言わずに堪えてたな。……だから私は君に私のできるだけのことをしてやりたくなった」
私の老い先も長くないからな。
頬に深いしわを刻んで微笑む先生に、俺はなんて言っていいのかわからなくなる。
傷ついていたかもしれない。
生き急いでいるようにも見えただろう。
でもそれはすべて俺個人の都合であって、先生にはなんの関係もないことだった。
この3ヶ月のことを思い出す。
先生の蔵書を読むためにどんな遅くまでアトリエにいても注意一つ受けなかったこと。
あらゆる貴石の知識をまんべんなく俺に伝えてくれたこと。教えてくれたこと。
食べることに興味のない俺に、食事を勧めてくれたこと。
すべてが、暖かい。
このぬくもりが今の俺を形造る。
俺はゆっくりと、焦ることなく記憶の中のを呼び起こす。
やっと、帰れる。
やっと、声が聞けるな、おまえの。
3ヶ月という時間の長さが問題じゃない。
最愛なものの意味を知って。
最愛なものと離れていた、とき。
── おまえの存在の大きさを知った、期間。
「……ありがとうございます」
感情という目には見えない重さを抱えて、俺は日本に帰る。