*...*...* Far away〜After the "Departure"〜 #3 アイタイ *...*...*
 【December】


 ゴルド先生から帰国の許可を得てからも、俺はなかなか腰を上げられずにいた。
 いつしか見馴れたニューヨークの空。
 こちらに来たときはまだ新緑だった公園の木々も今はまばらに葉が付いているだけで、足元には枯葉の絨毯が広がっている。


 ヘンだよな、俺。
 ── 今更、あいつに会うのが怖くなった、なんて。


 石に関することを覚えること。ひたすらのことを思い出さないようにしながら
 必死で毎日をやり過ごしてきた俺にしてみれば、この3ヵ月は体感的には2週間くらいのものだっただろう。

 けど、待たされる方の気持ちは、どんなものか。
 俺が感じる以上に途方もなく長い長い時間で。あてもなく、ずっと待つことに、あいつは疲れてしまったのではないか、もう待ってないのではないか、と自分の勝手な妄想に目の奥まで痛くなる。


 揺れる。


 情けないほどに、自分が。


 俺はあるデザインを紙に起こしながら、どこかで今の感情と同じものを味わったことがあるのに気付いた。
 ……あれ、か?

 このままずっと冬が続くんじゃないかとまで思った、俺たちの受験の季節、俺は受験勉強もそっちのけでに指輪を作っていた。
 受け入れられるのか拒否されるのかわからない気持ちのまま、でもやっぱり伝わることを期待して、今と同じようにあれこれデザインを練っていたっけ。


 今度は。……どうなる?


 拒否される自分を思うと、たとえようもない虚脱感が俺を襲う。
 手に入れて。
 一度はその温もりを知ってしまった後で、今更なにもなかった状態にするなんて、もう、出来ない。


 無意識のうちにふとスケッチブックの上の手が止まる。そんな俺に先生は何も言わない。
 早く帰れ、とも、どうして帰らないのか、とも。


「……先生」
「なんだね?珪」
「これでいいでしょうか?」


 俺は先生の前に大きな一枚のデッサンを見せた。
 数種類のデザインを起こし、これと決めるまでに2Bの鉛筆を3本潰した。消えては浮かんでくるあいつの残像を1枚ずつ塗りつぶすように描いていった
 俺が残した点の軌跡は、多少の陰影を添えて微かに震える先生の手の中にある。


「……これを、あの石に?」
「はい」
「じゃあもう少し石を留める腰を持ち上げて、下からもヒカリを入れて……」


 先生は俺の手から鉛筆を取り上げると滑らかに線を引いていく。
 この職業を人生にするまでに、石に関するいろんなことをやったんだ、画家のまね事のようなこともね。
 その言葉どおり、先生は鮮やか過ぎるデザインを紙の上に起こしていく。
 そして目はスケッチブックに残したまま、まるで気にもとめてないような素振りで言った。


「珪。今度はおまえのsweetに会いたいものだな」
「はい?」
「私も会ってみたい。……興味が湧いた」


 俺を通して、映る彼女。
 彼女は今、先生に対してどんな色彩を放っているのだろう?


 俺は、先生の言葉に上手く相槌ができなかった。
 ……終わってしまっているかもしれない相手。俺とは他人になってしまっているかもしれない相手。そんな人間を今ここで、どうして連れて来る、と言い切れるだろう?

 ふたりの間には、微かにスケッチブックを引っ掻いていく鉛筆の音だけがする。
 しばらくして先生はデッサンする手を留めて、満足げにそれに見入った。


「……なるべく早く仕上げなさい」
「先生?」
「……もう、待たせてはいけない」


 珪が私の過去を辿るようなことがあっちゃいけないからね?


 先生はスケッチブックに顔を近づけたり遠ざけたりしながら、自分の線を見極めた後、俺の方を向いて茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
*...*...*
 『JL5013 New York U.S.A. J.F.K国際空港発、Tokyo Japan 成田国際空港、予定通り後15分のフライトで到着予定です』


 機内では、英語に引き続き、日本語のナレーションが入る。
 俺はシートベルトを装着しながら、耳朶に流れる久し振りの日本語の響きを懐かしく聞いた。


 (やっと、辿り着いた)


 帰って来た、というべきかもしれない。
 戻って来た、とも。


 俺は小さな旅行鞄1つを手にして、飛行機のタラップを降りる。
 とたんに身が締まるような吹きっさらしの突風にさらされて、俺はようやく日本を飛び立った時とは季節が移ろってるのを知った。

 1Fの到着ロビーには、見上げる程の巨大なクリスマスツリーが飾られていた。
 低音ながら明るめのクリスマスソングが流れ、通り過ぎる人たちも気のせいか幸せな色をまとって輝いているように見える。

 俺は入国手続を済ませて、大きく開けたロビーに目をやった。その端には、グレーの公衆電話が幸せな人間に忘れ去られたようにひっそりと立っている。


 (電話……)


 連絡、しなくては。


 J.F.K. 空港で、ダイムを握りしめて、何度もに連絡をしようとした。日本との時差を考えて。あいつの大学の休みの日も考えて。でも、俺の手の平は何度もダイヤルを回しながら、まるで磁石で引き戻されるように受話器を元あったところに置き直していた。


 怖かった、んだと思う。


 迎えて欲しいという気持ち。そんなこと今更言えるわけないだろう、という自責の念。
 そして。


 ── もしに、拒絶、されたら。


 俺は片手に掴んでいる航空チケットをそのまま破り捨てて、もう日本には帰らないかもしれない、そう思ったからだ。


 結局、先延ばしにしてるだけなのにな。


 ふいに泣きたいような、やりきれない思いが沸き上がる。
 もう何年か前に20歳を迎えた。大人になったつもりでいた。
 でもそれは俺の錯覚だったのかもしれない。


 (あいつがいたから俺も一人前になれてた)

 一つのモノを見るのに、いつからかが混じっている。
 あいつの明るい考え方がいつからか俺に住み着いて、それは自分だけの変化だと勝手に誤解してた。
 でも、違うんだ。

 ── おまえがいた、から。


「ママ、クリスマスツリーだよ? ツリー! ツリー! ツリー!」


 連絡する、ということから思いを遠ざけるようにして俯いて歩いてると、いきなり背後からかん高い声がした。

 顔を上げて声のする方を見る。そこには小さな女の子が、自分の背より遙かに高いクリスマスツリーを見上げている。

 思いきり手を伸ばして。踵を上げて。

 桜色の爪を持った手がかぶりを振る。その手の少し上にある金色の星に触れようと、して。ほんの数センチのことなのに、なかなか達成できないのがクヤしいのか、口の端をへの字に曲げている。


「……これか?」


 俺は歩みを止めて星の飾りを手に取ると、その女の子の方へ腰を屈めた。


「いい、の?」


 一瞬だけ怯んだ様子を見せたその子は、もじもじを手を後ろに回している。
 けど、俺が無理矢理笑顔を作ると、つられるように笑った。


「ありがとう。お兄ちゃん」
「ああ。……じゃあな」


 俺は軽く女の子の頭を撫でると、まっすぐ前に広がる出国ゲートを見つめた。
 ……行かなくちゃ、な。結果がどうであれ。


「……お兄ちゃん」


 ささやくような声が背中を覆う。
 ふと声の主へと振り向くと、星の飾りを胸に抱いていた女の子は、恥ずかしそうに目を凝らしている。


「……どうした?」
「メリークリスマス。……お兄ちゃんにも神の御加護がありますように」


 彼女は俺に照れくさそうに一礼して、ぱたぱたと足音を立てて親の元へと走っていった。
 普通だったらきっと注意を向けることのない小さな子。ピンクのコートが似合う女の子。


 ……バカだよな、俺。
 必死なまでの表情と、クセのない真っ直な髪が。
 ……を思わせた、から、なんて。


 ── 会いたい。


 会いたいと思う気持ちが、俺の中に流れて。
 今。強く、願いにも似た気持ちになる。


 (4ヵ月、か)


 俺はゲートを出てタクシー乗り場に並ぶとため息をついた。
*...*...*
 朝食を終えた後。


「えっと、今日はどこへ行こうかな……」


 今朝は窓ガラスに小さな結晶ができるほど冷え込んだからってことで、わたしは早速白い厚手のコートをクローゼットから取り出した。
 このコート。今年の春先、これを着てデートに行ったら、困ったような顔した珪くんに言われたんだ。


 『……汚してみたくなる』


 バカだよね、わたし。
 初め、珪くんが何を言いたいのかが分からなくて。本当に。情けない程わからなくて。
 へ? と見上げたわたしを、珪くんはちょっとだけむっとした表情で視線を逸らせて言ったよね。


 『後で、な?』


 そのときの言葉と、その後の行為はわたしの記憶の中ではいつもワンセットで存在する。
 だから、わたしはパブロフの犬みたいにこのコートを見ると勝手に赤面してしまうんだ。

 そして、思う。

 ねえ。
 わたし、いつからか珪くんがいてくれるというこの関係に慣れて、珪くんの発するメッセージを聞き洩らしてたこと、いっぱいある?
 会えない時間に押し潰されそうになったとき、信頼という言葉が、これほど不安になったこと、ある?


 (たかがコート一着のことなのに)


 わたしはくるりと自分の部屋の中を見まわしてみる。
 高校に入学したときに初めて与えられた、わたしの個室。隣り同士の部屋をどっちにする? なんて尽と真剣に話し合って決めて。

 写真立てや、オルゴール。抱き枕も、ね?

 えへへ、珪くんがくれたものはなんでも全部取っといてあるんだ。その品物に込めてくれた珪くんの気持ちが嬉しくて。


 思えば、高校の3年間。それに続く大学。その思い出は珪くん以外のことってなにがあるんだろう、っていうくらい珪くんに彩られてて。

 ね……。
 わたしは、いつか、その思い出に満ちたものたちを手放なくてはいけないのかな?


 ふっと視界が緩む。うう、わたし何やってるんだろう?

 今日は1ヶ月のうち1日だけのデートの日。今まで珪くんと一緒に行った場所、あらゆるところに行くの。
 このひとりデートは10月から始めたから、これでちょうど3回目になる。

 ふたりで行った場所にひとりで向かうなんて、とても自虐的な行為だと思う。
 ふたりで行ったときの会話、表情、声。そういったものを思い出して、結局、自分は今は一人だって思い知らされるんだ。


 でもね、不思議なんだよ?
 思い出している間は、すっごく幸せなの。
 だからその後にやってくる痛いほどの寂しさも乗り切れるんだ、って感じる。
 こうして1日、目一杯珪くんにチカラをもらって、パワーチャージして、わたし、残りの29日をやり過ごすんだ。

 コロンとした丸みのあるボタンをきっちり留めて、準備万端。
 わたしは音を立てないようにそうっと自室のドアを閉めた。


「おい、ねえちゃん出掛けるのか?」


 わたしが廊下に出ると、その微かな音にも気付いたのか尽がひょっこり顔を出した。
 試験勉強の最中なのか、薄く開いたドアの向こうの机には数冊のノートが開いてあるのが見える。


「うん、デート。……あ、尽。お母さんに夕飯はいらない、って言っておいて?」
「ねえちゃん……」


 問いたげな視線が、頭に降り掛かる。

 それは日々の日常でいつも繰り返されているものなのに、今日のわたしは戸惑っている。……尽、この家に引っ越して来たときは、わたしの胸までの身長もなかったのに。
 今じゃ珪くんと同じくらいの身長でわたしを見下ろしてる。生意気さを縁どった口調は変わらないけど、声はずっと深みを増した、男の声で、わたしのことを問いただす。


「ねえちゃん、どうした? 具合悪いんだったら、今日は家にいろよ、な?」


 尽、優しいところは全然変わってないね。


 (ジカン ガ ナガレ テ イク)


 わたしにも、珪くんにも。
 どんなものにも、甘い雪みたいに降り掛かっていくんだ。


「ううん。やっぱり行ってくる」


 わたしはそう言い残すと尽と目を合わせることなく、手前にある階段を降りて行った。
*...*...*
 変わっていくこと。変わらないこと。変わらないでいて、と願うこと。
 時間の流れや水の力のように、止めようとしても止まらないこと。
 自分だけの努力じゃどうしようもできないこと。


 会えなくなって、時間が過ぎて。


 密かに、音もなく珪くんの存在が薄くなっていく中でわたしは決心をしていた。


 (いつか平気になるために)


 怖いの。怖いんだ。自分が。
 追いかけても追いつかない場所に珪くんが離れて行くことを思うと。
 もし、その日が来ても、平気でいられるように。
 付き合うって一人の気持ちだけではできないこと。
 だから、彼が別れを望んだ時は、大きな笑顔で包みこめますように。
 あなたの脚をひっぱらないように。


 このごろはいつもそんなことを考え続けている。


「……変わってないなあ。ここ……」


 わたしはやや鈍い音を立てる銅製の重い扉を押し開けた。

 12月に入ったばかりだというのに、はば学の教会は、クリスマスのミサ準備のためか扉は大きく開かれ、中は雪をモチーフにしたのかふわふわした白い羽根でデコレートされている。
 そんないつもとは違う教会を見ても、わたしは厳粛な気持ちよりやっぱりわくわくした気持ちが勝っている。子どもの頃に一生懸命つくった不格好なブーツや、翌日にほおばったクリスマスケーキのことを思い出して、つい頬が緩んじゃうんだ。

 せっかく3年間カトリック系の高校に通ったのに、やっぱりわたしは熱心なクリスチャンにはなれなかったのかな。


 (けど、12月だもん。特別だよね?)


 こんなに雲が深く垂れ込める日には。
 ひとりの人間の存在に、こんなに囚われている日には。

 教会の中、わたしはこつこつとヒールの音が響く石畳の上を一歩一歩歩く。
 そしてステンドグラスのヒカリの脚が長く伸びて、わたしのつま先まで影を落す一番前の長椅子に腰かけた。

 座って。両手を胸の前に併せて。

 そこまでポーズをしてから、ああ、わたしは何を祈ろうとしてたんだろう、と放心する思いがする。
 座るまでの道のりが、実は果てがないのではないかと思う程長くて。
 わたしの心の中は、一度祈るために腰かけてしまったら、もう、それで務めの大半は終わらせてしまったような安堵感に包まれていた。


 本当は祈ることなんてなにもないのかもしれない。


 『早く帰って来て』とも。
 『会いたい』とも。


 じゃあわたしは今、何を願いたいんだろう。
 今、喉の奥から溢れそうになる熱いものはなんだろう?


 『待ってる』という言葉でひとまとめにすることなんて、とてもできない。


 (珪くん……)


 西日を浴びて、いつもよりオレンジの輝きを増したステンドグラス。
 その中で微笑むマリアさまはふたりの天使ふたりに囲まれて幸せそうだ。


「あ、そうだ!」


 わたしはようやく心の奥から、祈りたいことを一つ見つけてあわてて手を併せた。

 あったよ? 願いがあった。
 わたしがあなたに願っていること。


 (……元気、で、いて?)


 ちっぽけなこと。けど、わたしにとって一番大切なこと。
 珪くんと過ごしたなにげない日常が、神様の賜物と思えるような今なら、この場でわたしの肉体がなくなっちゃっても、全然惜しくない。かまわないよ。


 ── どれだけの間、そうして俯いていたんだろう。


 気がつけば、ステンドグラスの中のマリアさまの肩あたりにあった太陽は、彼女の二の腕を通り過ぎようとしている。


「ずいぶん長いことお祈りしていましたな」


 突然背後から声をかけられ、わたしの背中が委縮している。
 驚かせてしまって申し訳ない、と穏やかな声と足音が近づいて来る。


「あ、あの、ごめんなさい。突然お邪魔して……」
「いや、いいですよ。12月ですしね」


 ふっくらとした体型の牧師さんは、わたしの横に立つと慈しむようにわたしを見つめて。


「……あなたにも神の御加護がありますように」


 そう言って、わたしの頭上で十字を切った。
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