*...*...* Far away〜After the "Departure"〜 #2-3 ワタシラシク *...*...*
【November】 Heroine's Side大学4年。秋が深まるこの季節になると、周囲はみな卒業論文とゼミを残すのみとなって、図書館にこもることが多くなる。
わたしも大まかな論文の流れとそれを書くために読む厖大な資料の選出をして先日、担当教授からゴーサインをもらったばかりだった。
(ん……)
ケータイから流れる小さな目覚し音が耳のソバでする。
珪くんといっぱい話したケータイ。
連絡が来ないとわかっているケータイに期待をするのがイヤで、このごろはまったく持ち歩かなくなって。
もっぱら目覚まし代わりとして使っているそれが、このときばかりと元気に鳴り続ける。
(図書館、行かなきゃ……)
朝の日差しがレース越しに弱々しく入ってくる。
それがとても力なく思えて、今日1日の寒さを感じさせる。
『くん、卒論の執筆、かなりハイペースだね。提出は年が明けてからだから、もっとゆっくり仕上げたらどうかね?』
来年退官になる教授はふっさりとした口ひげを動かして笑ったけど、わたしはその提案には首を振って黙々と卒論の準備をしていた。
(いつ珪くんが帰ってきても、いいように……)
いつ帰って来るって約束したわけじゃない。
もしかしたら、この卒論が仕上がる頃、ううん、その季節を過ぎても、珪くんは帰ってこないかもしれない、けど……。
……帰ってこない。
その考えにふと瞼が熱くなる。
(いつになったら、会えるのかな)
毎日、『いつか平気になる』って、本当は珪くんがいない状態が平気になんてなりたくないのに、何度願っただろう、祈っただろう。
自分の寂しさに手一杯で、珪くんのことを思いやれない自分がキライで。
もうなにもかも諦めてしまいたい、って、思う自分がもっとキライで。
朝、起きたその瞬間で、ポジティブになれるときとそうじゃないときがある。
簡単に自分の作った波に乗れて、『頑張ろう』って思えるときと、そうじゃないとき。
こんなこと思うわたしは……。今日は、ハズレ、引いちゃった、かな?
目を閉じる。ぎゅっと閉じる。誰にも見せられないようなしわくちゃの顔。
これ以上、自分の身体が小さく折りたたむことなんてできないくらい、小さくなる。
ふと、すべてのモノから守られている胎児というのはこんな形をしてるのかな、なんて思う。
そうして私は少しの間、痛みをやり過ごす。
『待つ、こと』
珪くんが決めたこと。
わたしが、わたしの意志で決めたこと。
だからその日のために、今出来ることいっぱいしておくんだ。
やらなきゃいけない、学生としての集大成の卒論。
今度会うときのための時間。準備。綺麗になること。
その他わたしがわたしらしくあること、全部。
わたしは冷たさを増したフローリングに足を降ろすと階下のキッチンに向かった。
*...*...*
「、おはよう。早いのね」ヤカンが柔らかい湯気を立てる中、おかあさんはわたしに声をかける。
「今日も図書館? ちゃんと朝ごはん食べて行きなさいよ?」
朝だというのにテーブルに乗り切らないほどお皿を並べて、おかあさんは微笑んだ。
幼い頃、食が細くて、心配させて。
今またあまり元気がないわたしを、おかあさんは何を言うわけではなく見守ってくれてるような気がする。
料理の数の多さがその証拠みたいで、またわたしの涙腺は勝手に壊れたりするんだ。
ね、珪くん……。
こんなに涙もろい自分は、自分が一番知らなかったよ。
おかあさんは目の前に半分くらい紅茶を注いで、それと同じ量くらいの熱々のミルクを入れてわたしに勧める。
「……おかあさん?」
「ん、なあに?」
おかあさんも一杯もらおうかしら? と対面に座ったおかあさんに問いかける。
ティーカップから立ち上る湯気が目の前を覆う。それは水滴になり、わたしの睫に膜を作る。
これで、今日は見つからないかな。見つからないといいな。泣いたことに。
わたしはティーカップに息を吹きかけると目をおかあさんに預けて、訊く。
「……なにも、聞かないんだ」
おかあさんは、あの夏から変わらない。
ぱたりと電話が途絶えても。
デートに行くことがなくなっても。
その理由も、珪くんの近況も尋ねようとしない。
不思議だ。
訊いて欲しいような、欲しくないような。
触れて欲しくないくせに。
触れられたら、それこそ自分がなくなるくらいまで話し尽くしてしまいそうで。
ティーカップの取っ手を指で弄んでいるわたしを対面の人は目を細めて見つめる。
そしてふと懐かしそうな顔をする。
視線はわたしではない、どこか遠くに行っちゃってるみたいで。
「なあに?」
わたしはおかあさんの視線を追って振り向いて。
そこには残り2枚になった数字だけの小さなカレンダーが頼りなげにぶら下がっている。
「……おかあさん?」
「……あんなに小さかったあなたが、ね。……はお父さんっ子でね。お父さんが赤ちゃんの尽を抱っこするだけで地団駄踏んで泣いてたのよ」
「おかあさん……」
おかあさんの視線は一旦遠くへ行ったものの、またわたしに戻ってくる。
けどそれは今ここにあるわたしの肉体を見ているのではなく、わたしの中にいる幼いわたしに話しかけているように、見えて。
「男の子みたいに真っ黒になって走りまわる活発な子だった。……そんなあなたが恋をして。みるみるうちにキレイになって。親よりも大切なものが出来て離れていくんだって思うと、親として感慨深いわよ」
「…………」
「……大体のことは尽から聞いてるから分かってるつもり」
(だから、いいのよ、何も言わなくても)
ますます細められた目の縁の赤さがそう、言う。
「直接、聞かないの? わたしに……」
わたし、だったら。
わたしが親だったら心配であれこれと問い詰めるだろう。
問い、詰めて。
まだ若いから1人の人だけを見つめるのではなく、いろんな人を見たら、なんて助言という名の余計な言葉を口に上らせてしまうかもしれないのに。
「あなたが話したい、と思ったら聞くわよ。けどいくら親子だからって、踏みこんでいいところといけないところがあると思うから」
だから、聞かないわよ。
そう言って微笑んでいる。
「そういうもの、なの?」
「結構、自分の中の葛藤、というのかしら? 聞けたらどんなに楽だろう、と思うときはあるわよ」
わたしはやっと人肌程度に冷めたミルクティを口に含む。
無関心に見えて。
── 実は、本当は。
誰よりもわたしのこと、心配してくれてる人。
「ね、……」
おかあさんの視線がわたしを包む。暖かいものが身体の周りに流れ込む。
続きを促すとおかあさんは、これだけは覚えておいて、と前置きして言葉を繋いだ。
「どんなも私の娘であることに代わりがないわ。私はいつでもあなたの一番の味方でありたい、そう思ってる」
「おかあさん……」
「さ、たくさん食べて大学行って来なさい。元気なじゃなきゃ始まらないわよ。何事も、ね?」
おかあさんは、目の前にハムエッグと乳酸菌飲料を置いて席を立ち上がる。
そうして、あ、そうそう、洗濯物干さなきゃ、なんて独り言のようにつぶやいて飲みかけのミルクティをそのままにしてキッチンを出て行った。
無言の背中。
ちょっと疲れたような肩が、めいっぱい主張している。
頑張って、でもなく、負けないで、でもなく。
(あなたらしく、ね?)
わたしは、ティーカップを持ち直す。
頬を伝うモノがそのままカップの中に落ちて、そのまま同心円状のきれいな輪っかを作る。
ごめん。ごめんね。
心配かけて、ごめん。
黙って見守るなんてなかなか出来ないこと。
そんな強さを持つ、あなたの娘で良かった。
ふと乳酸菌飲料のパッケージが目に止まる。
そこには『発育盛りのお子さまに最適です』ってキャラクターのイラストが描いてある。
おかあさん、特売だって言ってまた子ども用を買って来たのかなあ。
それともわたしはまだ発育盛りなの?
『発育盛り』
その言葉がこそばゆくて、わたしは一人でクスクスと笑う。
そんな小さな声が今日のわたしにはひどく心地良いい。
……まったく。いつまでたっても子ども扱いなんだから。
それとも親子の関係が続く限り、子どもはいつまでたっても子どもなのだろうか?
わたしはハムをぷすりとフォークに刺すと、それをひとくちで頬張ってミルクティで流しこむ。
ほわりと優しい味が口いっぱいに広がる。
美味しい、と感じることのできる自分にこんなにも感謝できる、自分。
ねえ、珪くん。
わたし、元気だよ。
泣いちゃうこともあるけど、今日はおかあさんのおかげで涙を強さに変えることができました。
珪くんは、どんな夜を過ごして、どんな朝を迎えましたか?