俺が宝石の贋作について師事しているゴルド先生は、本名をゴルド・フランチョリーニと言って、16世紀半ばから続く貴族の血を引くイタリア系移民のアメリカ人だった。
彼は仕事に関しては一徹だが、アルコールが入ると俺と同じ色素の薄い魚のような瞳が深い色を帯びてくる。
そしていつまでも石の話をし続ける、初老の男だった。
環境が人を造るのか、それともそういう人だからこういう職に就いたのか。
この仕事をこよなく愛してる様子はどこか幼い頃のじいさんにも似ていて、俺は師という尊敬の念とともにどこか親しみも感じでいた。
な、珪。本物か偽物かなんて、本当はとても簡単なことなんだ。
上品な口ひげをもてあそびながら、ずっと欲しかったとびっきりの玩具をあてがわれた子どもような目をして先生は微笑む。
お気に入りのカリフォルニアワインのコルクが小気味良い音を立てて今夜の講義が始まる。
*...*...*
「今は、ルーペだ拡大だ、顕微鏡だ、含有率だって贋作云々を科学的に解明しようとしてるけど、本当はすごく簡単なんだ。石というものは、自分から光ってるか、光ってないか。それだけに限っているんだよ」「……でもそれだと、精巧な贋作が出てきた場合、見分けられないかもしれない……」
「No,no ! A work and no play make a dull boy !」
わかってないなあ、と言わんばかりに大げさに首を振って、先生は労るように俺を見つめる。
「そんな知識ばっかり身につけてもダメだ。珪。そんなものは参考書1冊分詰め込めば十分さ。それからは数。いかにたくさんの本物に出会うかだ。出会って、惹かれて。とことん惚れぬくんだよ。"woman for your life" みたいに」
君の大事な人を思い出してみなさい。
ヒカリや艶。どんなときにどんな表情見せるかということを。
先生の言葉のまま、俺は丁寧に記憶の包みをめくっていく。
その行為をして、俺はのことを思い出すのに少しずつ時間が必要になっていることに気付く。
この2ヶ月。
俺はどれだけ自分の記憶力の良さを恨んだだろう。
あるものを見る。それがすぐの言葉と表情を連想させる。
その連想から、途切れることなくのことが思い浮かぶ。
表情も。そのときのぬくもりも、匂いも。
あいつをおおう柔らかなうぶ毛の流れさえも。
心だけでなく、身体さえもあいつのことを欲しがる。
見るものすべてがある特定の人だけを思い出させるとしたら。
そしてその人が今自分の手の届かないところにあるとしたら。
── それはある意味とても不幸だ。
でも今は。
そんな感情に浸っている間になにかを得て、少しでも早く帰ること。
そればかりを願ってやってきていた。
だからあいつのことを思うたびにその感情を押し殺して、俺は必要な書物を読み漁った。
怒ったり、笑ったり。おどけたり。
俺の目の前ではいつも百面相を見せてたけど。
先生の言葉につられるまま今こうして思い出せるのは、ちょっと寂しそうな、顔。
ちゃかして頬に触れたら、その手を握って泣き出してしまいそうな、頼りなげな、表情。
── あいつはどうしているだろうか?
「石もオンナも大体同じだ。惚れ込むところはな。……これ、見てみなさい」
先生は引き出しからそっと4つの石を取り出す。
真っ赤な血の色をしたものから、ややピンクがかったものまで、4つ。
それらはどれも精巧にオーバルブリリアントカットがほどこされ、夜の照明を照り返すほどの輝きを放っていた。
「さて。……この4つのルビーの中から1つの贋作と、その他の原産国を言ってみなさい」
まるで手品をするかのように4つの石を真っ黒なベルベットの上に載せ、先生は挑むように俺を見つめる。
「……これがビルマ産です。タイ産はこれ。スリランカ産は真ん中。一番端がフェイク(=贋作)ですね」
「Oh my god ! 珪には簡単すぎたな、これは」
ゴルド先生は朗らかに微笑むと、口元をきゅっとすぼめて食い入るように4つの光沢を見つめた。
「……見てみなさい。これを。これはタイ産の最高級品だ。ピジョンブラッドとも呼ばれる。別に私はmurderでもなんでもない。けれど綺麗なオンナの血はこんな感じかな、なんてしなやかな喉元を見て思うときがあるんだ。今ここで切り裂いたらこれくらいの鮮血が吹き出してくるんじゃないかって。な、そう思えるほど赤の色に凄みがあるだろう?」
先生はうっとりとして一番赤い石を手に取ると、その光沢を確かめるように照明にかざす。
そして愛おしむように口づけた後、俺の方に向き直った。
「ところで……。珪は言わないんだな。そういうこと」
「……そういうこと、って?」
先生はノドを潤すようにワインのグラスを空ける。
そして空いているもう一つのグラスになみなみと液体を注ぐと、目に微笑を浮かべて俺に勧めながら言った。
「私は今までたくさんの弟子を取ってきた。男も、女も。中年もいたが大概は珪みたいな若い男だった。若さゆえ、か、みんな石にも熱心だったが、それと同じくらい女にも一途なヤツが多かった。でも君は……。珪は、あまりにもストイックな生活をしているようだから、私は最初、女に興味がないのかとさえ思ったよ」
「先生……」
まあそれはただのジョークだけど、と先生は茶目っ気たっぷりに俺にウィンクをしてコトリと石を元に戻す。
そして、ふと真面目な表情になって言った。
「でもその想像は違うんじゃないか、と私は思うようになった。この2ヶ月……。石を見つめる珪の視線や、……なにか猛烈なまでに生き急いでいる様子を見て感じたんだ。……待たせてるんだろう? 最愛な人を」
「…………」
「口に出せる感情というのは、実はとても軽いものだ。人は人に言えないほどの感情を自分の中で育て上げると無口になる。なあ、珪……」
「はい……」
「……早く帰れるといいな」
慰めるような、声が届く。
その口調が、幼い頃、たどたどしい日本語で温かく見守ってくれていたじいさんの声にも似て。
『必ず、会えるよ。珪。約束したんだから』
膝のぬくもり。藁の匂い。やや弱い西ヨーロッパの陽差し。
同様、俺の心の拠り所になっていた、人。
この2ヶ月。
慣れない土地、ニューヨーク。
いろんな人種のるつぼ。
颯爽と行き交うさまざまな色を持った人々。
たくさんの色に紛れて、誰も俺の髪の色や瞳の色に振り返ることはない。
けどそれは逆に言えばただの無関心というモノで。
先生と洋子ねえさん。
それ以外は俺という人間を知らない人に囲まれて送る生活。
2日でも3日でも、誰とも話をしない日が当たり前の日常。
自分の中に浮かぶ感情を、伝える、受け入れてくれる人がいない、毎日。
を近くに失って。
俺はいつしかまた自分の感情を伝えるのが苦手になってきているようだった。
それはまるでと会う前の自分。
寂しさを振り払うようにしてやってきた。
自分と他人の中に卵の殻のような硬質なモノを張り巡らせて。
それが先生の温かい言葉でカチンと割れた瞬間、俺の口から軋むような嗚咽が零れた。
*...*...*
「珪、落ち着いたか?」「……はい……。あの」
「ん?」
「すみませんでした。恥ずかしいところをお見せして……」
「Why not !? それは珪の国での風習なのか? 本当のところを見せてどこが恥ずかしいんだ? ……すっきりしただろう?」
「……はい」
「それは良かった」
テーブルの上ではコルクを抜かれたばかりだったワインがもう底をつき、空になったグラスが申し訳なさそうに寄り添っている。
「なあ、珪。私は先ほど石を女に例えて言った。けど、これは女、じゃなくて『human being (人間)』、という言葉に置き換えることができるかもしれない」
「……人間?」
「そう……。人との出会い、と言ってもいいかな。ルビーを例に取って言うと、こうして装身具用に使用されるルビーというのは全産出量の100分の1だ。そしてそれはさまざまな方法で点数化され、A、B、C、3つのランクにランク付けされる。Bランク以内に入れるのは、さらにその中の100分の1。Aランクはその100分の1だ。それが自分の目に触れるかどうかを考えたとき、その確率の低さに驚くだろう?」
「はい」
「人間も同じだ。何十億という人間がこの地球に暮らしていて、その中で自分と出会う人間なんてたかが知れている。出会えたことがもう奇跡なんだ。そしてその中で、こいつは、と思える人に出会えた、としたら……」
つ、と、俺の顔を覗き込みながら、先生は話を続けた。
「……人生はやり直せないからな。手放さないように、な。……後悔しないように」
「はい」
「……じゃあ、夜も更けたから休もう。珪も気をつけて帰りなさい」
軽く俺の肩に手を置いたあと、先生は背中を丸めて帰って行く。
俺もアトリエの戸締まりを確認した後、自分のアパートメントへと向かう。
ニューヨークにも冬が近づいてきているのか、時折吹きすさぶビル風が頬に痛みを走らせる。
黒よりも暗い夜空を見上げる。
洋子姉さんが防犯上危なくない地域のアパートメントを選んでくれたせいか、この辺りは人工物の光に満ちて、天空の星も、日本で見るそれよりもやや薄く、遠くにあった。
(日本ならもっと見えたのにな)
空を伝って。
1日とは言わない。
一目だけでもあいつの元気な姿が見えたら。
(そうしたらもう二度とここには帰れない)
俺は人の気配もしない、真っ暗闇な空間へと続くアパートメントのドアを開ける。
と離れて3ヶ月が経とうとしていた。