*...*...* Pain (前) *...*...*
 冬の木曜日。
 今日は俺ももバイトがある。

 こんな日は俺よりも早く仕事が終わるが、喫茶店の中でマスターの後かたづけの手伝いをしながら俺の帰りを待っていることが多い。
 もっとも俺の仕事はいつ終わるかわからない。
 裁量制、といった雰囲気もあるから、あいつの仕事が終わらない時はマスターが気を利かせて淹れてくれたコーヒーを飲みながら俺があいつを待っていることもある。

「8時過ぎ、か……」

 俺は帰り際スタジオの壁に掛かっている時計を目で追う。
 この時間ならあいつを待たせなくて済むかも、な。

 俺は素早くモデルの衣装から制服に着替えると、ALCARDに向かう。

 寒い季節に、熱いコーヒー。
 それに加えてあいつがてきぱきと笑顔で仕事をしてるの見るのは悪くない。

 ……ところが。

「……?」

 今夜、は店内ではなく、照明を落としたやや薄暗いALCARDのイルミネーションの陰に立っていた。
 俺がスタジオから出てきたことにも気付いてないようだ。
 いつもの周囲を明るくする空気はそこにはなく、ぼんやりとしているように見える。

 ── 雰囲気が蒼い。制服の上に羽織っている濃紺のコートのせいかもしれない。

「……どうした? こんなところで」

 肩口をつかんで眉をひそめる。
 ひんやりと冷たい布の感触はもうかなりの時間ここにいたことを示していた。

 は俺の来たことにも気づかず、ずっと靴のつま先を見ていたようで、肩に載せた俺の手にびくっと身体を震わせた。

「ん、今日はお客さん、早くひけちゃったの」
「……いつもは店で待ってるだろ? おまえ……」
「ん……。そうなんだけどね」

 煮え切らない返事。
 は俺と視線が合うのを避けているみたいだ。
 首に巻いた白いマフラーの中にあごを埋めてうつむいている。
 伏せた瞼が赤い。

 ……何か、あるな。

「あ、珪くんもお仕事お疲れさま」

 一歩先を歩き出したは、いつも俺にとびきりの笑顔で言う言葉を、たった今思いついたかようにぽつりとつぶやいた。
 俺は相槌を打ちながら小さくため息を吐く。

 ── やっぱり、おまえ、見てたのか。
*...*...*
 今日の仕事。
 それは、香水会社のオファーだった。
 って別にテーマは俺にとってどうでもいい。

 肝心なのは、俺一人の撮影ではなかった、ということだった。
 口べた、ということはモデルのような口の必要のない仕事にも多少の悪影響があるのか、それとも仕事が入った時点で社長とマネージャがはねるのか、このごろは俺一人の撮影がほとんどだった。
 それが今回だけは有名なメーカーからのオファーだということで、どうしても断れなかったらしい。

 俺が学校からスタジオに向かうと、強烈な匂いと甲高い声が俺を迎えてくれたのだ。

「あなたが葉月くんね? ……ふうん、かなり美形じゃない」

 髪の色から履いている靴の形まで品定めするように眺めた後、ふと好色な陰を目に浮かべるからすぐわかる。
 女のモデル。……俺よりいくつか上の。
 このごろは多いみたいだ。年上の女に可愛がられる男、というオファーが。

「……どうも」

 俺はマネージャにしつこいほどまで言われてやっと覚えた会釈をし、横を通り過ぎる。
 そんな俺の後ろ姿にその女は、茶化すような口調で告げた。

「あら、そんなそっけないことじゃダメよ。……これから私たち、キスするんだから」
「……キス?」
「そうよ? キスする場所はまだ決まってないけど。……あなたってどこが一番感じる?」

 探るように、ブルーのマニキュアを塗った指が俺の頬を滑る。
 そうやって俺の身体までチェックしてるみたいだ。……寝るか、止めるか。上手いか、下手か。

「まだ仕事前だろ?」

 俺は女の手を振りほどくと撮影用の衣装に着替えるべく控え室へ向かった。

 ……イヤな予感がする。

 できるだけゆっくり着替えをしたものの、今日の衣装は下半身だけだった。
 つまり、上半身は裸、で。ほとんど手間が掛からなかった、と言ってもいいくらいで。
 控え室から出て、改めて女を見ると、こっちもほとんど布を身に纏っていないというほどの格好で。

 俺はマネージャに言われる前にさっさとカメラの位置に立った。
 ……早く終わればいい、今日の撮影。


 そう思っているのに、あれから、なかなか撮影は進まない。
 オファーに適した具体的な立ち位置が定まらないのだ。

「そう、そうやってね。彼女の肩に顔乗せて……? もっと腕に力を入れて? いいよ? 君、背中、綺麗だね」
「ふふ? そうお?」

 カメラマンは怒鳴ってる。
 怒ってるのかと一瞬耳を疑いたくなるが、これは彼なりの賞賛、らしい。

 俺と女モデルとの二人の絡みをどうするのか、ということで、絵コンテを持って、メーカーとスタッフが話し合いを重ねている。
 ……どうも、俺と女モデルとの間の雰囲気がなかなか親密にならないことを悩んでいるようだった。


「よし。煮詰まってもしゃーないから。ちょっと休憩と行こうか!」

 カメラマンの一言で空気がちょっと緩む。
 お疲れ様の声とともに、周囲の私語が飛び交う。……みんな疲れてるみたいだな。

「葉月もね、もうちょっとビジネスライクに取り合ってくれないと……」

 スチールの椅子に腰掛けた俺に、マネージャが呆れたような声で咎める。

「やってる。これでも」
「もっと親しい雰囲気を出して欲しいのよ。恋人同士で付けあおう、っていうコンセプトなのよ、この香水」
「これ以上はムリ」

 怒りたい感情を押し隠して言う。

 ……好きでもない女と肌を触れあうなんて。
 これでも昔よりかなりましな対応になったと自負していたのに。
 周囲からはまだそう見られてないみたいだな。

 ライトを浴びる撮影はかなり喉が渇く。
 自分でも思っていた以上に気を遣っていたのがわかって、俺はミネラルウォーターを勢い良く飲み干した。

 無彩色の背景をバックに、カメラマンが柏手を打ってスタッフの注目を集めている。

「ようし、決めたよ。コンセプト変更だ。葉月くんの目を使おう」
「目?」

 マネージャがいぶかしげに首を振る。
 コンセプトとイメージが合わないのだろう。

「葉月くんは、女と抱き合う。この女は誰にも奪わせない、という気持ちを込めてね。それで周囲をにらみつける。つまり、女の背中と君の顔。君は女の肩口にキスをする、これでどうだね?」

 カメラマンは焦っているようだ。腕時計を指さしながら、早口にこれだけのことを告げる。

「いいかい? 葉月くん」
「……はい」

 この女と顔を見合わせないだけでも、ましだ。
 正直、こいつが付けているむせかえるような香水のにおいには、辟易していた。

 (……

 ── 身体が求める。あいつを。
 どんな女を見ても。触れても。……たとえ、寝たとしても。

「じゃあ、もうワンテイク行ってみる? そう、葉月君、腰に腕回して? 肩に唇を落とす、で、周囲を見渡す。……そう、いいね、それ」

 俺は言われるままに身体を動かす。
 あいつといるときの能動的な俺はそこにはなく、まさに人形のような従順さで。

 肩先に唇を落とす。……あいつとは高さも感触もまるで違うんだな。

 ── 俺の中の基準はすべてあいつになってる、と知らされる瞬間だ。


 むせそうな匂いが鼻を突く。
 唇を使う以上、鼻で息をするしかないわけで。……吐きそうだ、この香りは。

「ちょ。ちょっと、痛いわよ、そんなに力入れると」

 女が小声で俺に耳打ちする。腰に回した腕が気に入らないんだろう。
 ……それとも骨ばかりのギスギスした身体だからよけい堪えるのか?

「早く終わりたいだろ? アンタも」

 早くすませて。
 アンタもアンタをちやほやしてくれる男のところに行きたいだろうに。

 俺は有無を言わさず女の腰を抱きかかえると、目の前にあるカメラをにらみつけた。
 そんなとき、俺の背後でドアの開く音が聞こえた。
*...*...*
 不安が鳴る。

 それが不協和音のように違和感を持って俺の中を引っかき回す。
 が知らないのなら知らないままでいて欲しい、と思っていたこと。

 それを多分、は知ってしまっているだろうという事実。

 別にやましい気持ちがあるワケじゃない。

 のいつも近くにいるヤツ……。藤井、か? あいつなら、

『キスくらいどおってことないじゃん?』

 とあっけらかんとして言うかもしれない。

 けどもし逆の立場で、あいつが誰か俺以外の男にそういうことをされたら、と思うと、自分でも収拾つかないほどどす黒い感情が沸いてくる。

 ……勝手なもんだよな。

 の様子は、というと、ややいつもより口は重いものの怒っている、というわけではないらしい。
 でも、普通のふりをしようと必死に普通を装っているようなぎこちなさがある。

「こっち見ろよ」
「……や」

 街灯が寒そうな光を放っている夜の街。
 のぞき込んだって、の表情がすべてかいま見えるワケではなくて。
 雰囲気だけが頼り。
 なのにその雰囲気もどこか湿っている。

 手を伸ばす。
 いつもは俺よりも暖かくて柔らかいの身体が今日は俺以上に冷え切っている。
 俺はの存在自体を引き寄せて告げた。

「今夜、泊まっていけよ」

 いつもの安心する柔らかな香りが鼻をかすめる。
 
 浸りたい。おまえに。
 すっかり汚れた身体になっている自分自身を、白いおまえの中に入れて浄化されたいと願っている俺がいる。

 の返事をかき消すように、唇を合わせる。
 否定されることが怖い。
 でもそんな努力はなんの役にも立たない。
 唇を離した後、は腕の中で首を左右に振っているのがわかったからだ。

 これは、……『泊まれない』と言っているのだろう。

 俺はに気づかれないように落胆の息を吐いた。

 あんな女に触れられたままじゃ、俺が収まらない。
 ……けど、こいつの気持ちも大事にしなきゃいけないわけで。
 俺は、今、目の前にいるに触れて、触れることで、自分自身も彼女の色に染まりたい、というわがままを抑えつけた。

 こいつには家族があるんだ。
 いくら親公認だから、と言ってひっぱりまわしたらマズいよな。
 ……でも、今日は。

「……ダメか? どうしても」

 俺の中の疼きがなおも食い下がらせる。
 食い下がりながらも口づけは止めない。
 はじめは強ばっていたの身体がだんだん力が抜けて、そのうちぐったりとしてくる。
 俺に身体を預けている格好になる。

 はいつもそうだ。

 どんな状況でも、最後には俺のわがままを聞き入れてくれる。
 そのバランスがすごく良くて……。俺はすぐその次を求めてしまう。
 俺の中にある征服欲と独占欲。
 無意識のうちにその根底を揺さぶるんだ。の態度は。

 ── あと、少し。

 くたりとが身体を預けた行為を了解の意味に取った俺は、俺の自宅へと歩き始める。
 腕を取られ、引きずられるように歩き出したは、2歩、3歩と足を進めた後、ふと立ち止まった。

「ごめんね、珪くん……。やっぱり今日は帰る」
「……
「……わたし、今、必死で辛抱している。泣いちゃダメだ、って。泣くのはずるい、って……。珪くんお仕事だもん、なにも悪いことしてないもん、って。……今日、いつもみたいに珪くんに抱かれて理性が飛んじゃったら泣き出しちゃうよ、わたし……」

 だから、ごめんね。今日は帰らせて? とは微笑みながら繋いでいた手をほどこうとする。

 笑っているのに笑っているようには見えない顔。

 前髪が涙で湿ってところどころ束になってる。潤んだ目が熱を帯びたように赤い。
 泣くまい、と噛みしめている口の端はかすかに白くて。

 その表情はいつも俺だけに見せてくれるモノと同じ、で。

 ……煽られっぱなしだな。おまえには。

「……泣けよ。抱いててやるから」

 強く抱きしめて繋ぐ俺の言葉。
 悲しいワケじゃないのに目が熱い。

 正直、怒ってくれた方が気が楽かもしれない。
 怒って、なじって。『珪くんのバカ』って言ってくれた方が。

「どんな珪くんも好きだ、って思ったの。どんな珪くんも受け止める、って。だから、……モデルの珪くんも、同級生の珪くんも、お昼寝してる珪くんも全部全部好きで、……だから……。あ、あれ?」

 大きな瞳に膜が張った、と思ったら、それは重量を支えられなくなって、瞼の外へ飛び出した。

「辛抱できるのか? ……こんなになってるのに?」

 俺はスカートの中に指を這わす。

 今のこの季節とは裏腹の熱い場所。
 かすかに湿り気を感じる。
 ここがもう少し溶けると、おまえ泣き出すくせに。

 たまに発せられる俺の命令口調に対して、は『No』と言ったことがない。

 この口調の裏側からにじみ出てくるもの……。
 多分甘えのようなものをは敏感に感じているようで、俺はのそういう優しさが好きだった。

 鈍いクセに鋭いから。
 ── そしてこの頼りないばかりの身体も、また。


 (するどい、から)
↑Top
Next→