*...*...* Rain (前) *...*...*
 金曜日。21時。
 一緒に暮らそう、って決めた日。

 ぽってりとした重たい感情を持ち続けていることが出来なくなったのか、空がだんだん低くなる。
 白く透明な糸を引いて細かい雨が降り出した。
 自分の白く浮かぶ息を見て思う。
 この冷え込みじゃ、もうすぐ雪になるのかな……?

 珪くんの家の前。
 凍てついたように冷たい門扉に手をかけて、わたしは立ち止まった。
 約束の時間を20分過ぎてる。
 リビングで、珪くんは今どうしてるだろう? 座ってる? 立ってる? 何を見てる?

 きっとわたしが来るのが遅いこと、心配してるよね。
 言葉では何も言わないけど。ううん、出てくる言葉はそっけないことが多いけど。
 視線とか、吐息とか。

 見えない空気で、いろんなことを教えてくれる人だから。

 ── ねえ、珪くん。わたし、どうすればいいかな……?
*...*...*
 昨日の夕方のことだった。

 その人、は、突然ARCARDにやってきた。
 前を真っ直ぐに見据えた瞳がりりしくて。
 10センチもありそうなピンヒール。その上へと伸びた足首に光るアンクレットが歩を進めるたびにシャリシャリと小さな音を立てる。
 5時前。ちょうど3時のお茶の時間も終わって、夕食の時間にも中途半端という時間。
 ALCARDも一番手が空く時間でもあった。

「マスター? ちょっとだけ、このお嬢さんとお話がしたいの。お借りしてもいいかしら?」

 ドアに取り付けてあるベルが穏やかな音を立てて客の来訪を告げる。
 そこにはにこやかな微笑みを浮かべる妙齢の女の人が立っていたのだ。

 襟元がVの字に切れ込んだ身体にぴったりのスーツ。流行の形のサングラス。
 こんな風にメイクが映えて、物腰が優雅で、自分が周囲からどのように見られるかを良く知ってる女性のことを『大人の女性』っていうんだろうな……。
 そのときのわたしは初めてくるお客さまをぼんやりとそんな風に見ていた。
 バイトを始めて1年とちょっと。でも自然にわたしの手はきれいな形の氷をグラスに入れている。

「あ? えっと、あの、あなたはどちらさまで?」

 マスターは優雅な中にある彼女の押しの強さを柔らかく受け流している。

「私? 今度新しく葉月のマネージャになった者です」

 このときになってやっと、わたしはサングラスを取って見つめる瞳の鋭さに気づいた。
 と同時に頭はひどく冷静に珪くんの言ってたことを思い出してた。

 (俺のマネージャが替わったんだ。……今度のヤツは……。いや、なんでもない)

 わたしもそれ以上は何も聞き出さないまま、うやむやになっていたことを。
 これが、その人?

「いろいろ聞きたいのよ、このお嬢さんに。葉月と親しそうだし」

 ── 敵意、だ。
 そう言った彼女の視線は、憎悪以外の何物でもなくて。

 人の感情って簡単に相手に伝播するものなんだと知らされた。
 こんなに鈍いわたしでも。

 初めて露骨に出くわしたわたしへの悪意に、思わずグラスを持ったトレーが揺れる。
 マスターは少しだけなら、と口を濁しながらも、店内の一番人目につかないコーナーの席を用意してくれた。

 一番早く出てくるモノを、という彼女からの指示で、彼女の前にはアメリカン、わたしの前にはオレンジジュースが置かれる。

「……なんですか? お話って」

 身構えて聞く。
 きっと、珪くんのこと。── きっと聞いたら切ないこと、痛いこと。

 テーブルを挟んで見る彼女は、とてもなまめかしく、またきびきびとした大人の女性だった。
 首から耳へとしなやかにウェーブした髪が夕日を反射して赤茶けて見える。
 マネージャさんは慣れた様子で灰皿を手前に引いて切り出した。

「あなた、葉月と一緒に明日から暮らすんですって?」
「え?」
「葉月から聞いたわ。……あなたってバカね」

 細い細いライター。
 側面にラインストーンが入ってて、夕日が当たった部分は濃い茜色になっている。
 って、わたし、どうしてそんなどうでも良いところに気を捕らわれてるの?

 『バカ』という言葉があまりに唐突で。
 それが自分に投げかけられているとは思えなくて。
 同じ言葉なのに、珪くんのそれとはまるでトーンが違う。
 彼女のそれは、しみじみと軽侮している、という感じだ。
 彼女の言葉がわたしの身体をすり抜けたまま、わたしは少しの間ぼんやりとする。
 怒りという色は通り抜けて、悲しい気持ちが押し寄せる。

「……自分で決めたことなんです。だから、バカって言われたくありません」

 声は裏腹に弱々しく震えている。
 怒りたくなるような事象があっても、悲しくなるのがわたしの性格で。
 このときには、もう熱いモノがこみ上げてきてどうしようもなくなっていた。

「じゃあ、事実なのね。あなたが葉月と暮らすっていうのは」
「……はい?」

 耳を疑う。
 どういうことだろう? 確かこの人、『葉月から聞いた』って……。
 だからわたしも本当のことを言ったんだよ、ね……?

 わたしの軽い混乱が伝わったのだろう、マネージャさんは口の端を上げて微笑んだ。

「口の重い葉月がそんなこと言うわけないでしょ? ただ、この前自宅に通っているお手伝いさんを断った、って聞いたから、カマかけたのよ」

 本当にバカなわたし。言われるままに返事をしてた。
 ふと尽の顔やお母さん、お父さんの顔が浮かぶ。
 ……こんな大人の駆け引きなんて知らないまま、今までわたし、育ててもらってきたんだ。

「やめて欲しいのよ。一緒に暮らすこと。知ってるでしょ? ファン心理っていうの。恋人ができると大半のモデルは人気が下がるわ。今売り出し中の葉月はこれからが大事なの。だから、邪魔して欲しくないのよ」

 華奢なタバコからしなやかな弧を描いて煙が上がる。
 それは風下のわたしの鼻先を通り過ぎる。
 ……もしかしてここまで計算して、目の前の人はこの席を選んだのかな?

「あなたも可愛いから、なにもそんな面倒な背景のある葉月と一緒に暮らすこと、ないわ。何も肩書きのないシンプルな高校生と楽しんだ方がいいわよ」

 とどめのように吐いた煙がわたしの頬を撫でていく。……これは絶対わざと、だよね。

 目の前のオレンジジュースに目を落とす。
 手つかずのままのオレンジ色は寂しそうに佇んでいる。
 時間が経ったせいで氷が溶け出して綺麗なグラデーションを作っている。
 表面は氷が溶けた透明色。なんだか泣いてるみたいだ。

 ……ダメ。泣いちゃいそう、わたし。

 あのとき、珪くんに一緒に暮らそう、と言われて。
 承諾の返事を返したわたし。

 不安がない、といえば嘘になる。ううん、不安だらけだ。
 言われるまま、請われるまま、一緒に住んで。
 それで何もかも解決するのかな? 珪くんの不安な気持ち、消えるのかな、って。

 何よりもわたしが気にしていたのは、珪くんの仕事関係だった。
 時々、はば学の校門で待ち伏せしている他校の女の子を見かけたり、
 スタジオ隣りのこの店にも、ファンと思われる女の子連れが何時間も待っていたり。
 一緒に歩くだけで、集まる視線。それが憎しみの色に変わったりしたら、と思うだけで身が竦む。

 ううん、わたしのことならまだ平気だ。

 それ以上に、珪くんに何かあったら……?

 春の公園で女の子たちに追いかけられて、ふたりで手を繋いで逃げたこと。
 ビリヤード場で顔見知りの男の人に投げかけられた暴言。
 ── あんな、笑い飛ばせるようなささやかなことを気にして、寂しそうな表情を浮かべてた人、だから。

 わたしは煙を避けるように、窓の外に顔を向けた。
 ずっと心に引っかかってたことがある。
 目を背けようとしていたこと。できれば気づかないまま通り過ぎたいと考えていたこと。


 珪くんに『一緒に暮らそう』言わせたきっかけ。
 それは、わたしの弱さにあるんじゃないか、って。


 (あのとき、わたしが笑って珪くんを迎えていたら……?)

 ほとんど何も身につけていないような女のモデルさんと珪くんの撮影。
 長身で彫りの深い彼女の顔立ちは、純日本人には見えないほど美しかった。
 そして彼女の隣に立つ珪くんも。
 とてもお似合い、で。
 わたしの手は知らないうちにトレーを斜めにしていていた。
 スプーンが数本、床に散らばる。
 耳障りな音に気が付いてかろうじて落ちそうになったカップを押さえた。


 胸が、震える。


 (珪くんが、手の届かないところに、行っちゃう……?)


 行かないで、と。
 行っちゃやだ、と。
 あのときのわたしの心の中は、幼い子が地団駄踏んでわがままをまくし立てているような感じだったんだ。


 動揺が隠しきれないまま、珪くんの家に行って、記憶のない時間が過ぎて。
 それから……。
 わたしはかぶりを振った。

 決めたんだ。

 誰かに強要されたわけではなくて、わたしは、わたし自身の意志で。
 ── あの繊細な人と、一緒にいたい、と。

「お断りします」

 きっぱりと言い放ったわたしをマネージャさんは興味深そうに目で追った。
 ……冷たい。
 というより、むしろ頬を射るほどの痛い視線がわたしを囲む。
 綺麗に形取られた唇は完璧な笑みを浮かべているのに、目は笑っていなかったからだ。

「あなたってもてるでしょう?」

 突然話の方向が変わった。今度はわたしが黙り込む番。
 ……これ以上揚げ足を取られたら、本当に嗚咽が漏れて話どころじゃなくなる。

「なんていうのかしら? あなたって、ちまちまと目鼻がついている感じの地味な顔よね。けどこういうのって男好きするのよ。下品な言い方すれば、ヤりたくなる顔っていうのかしら? 葉月はこういう顔が好みなのね」
「あの、お話がないのなら、もう失礼します」

 どうしてそこまで酷いこと、言われなきゃいけないのかな……。

 わたしの悪いクセがここでも現れる。
 怒りたいのに口に出せない。言い返せない。
 自分の中で何度もこのシーンがリフレインして、あとで自分を苦しめることわかってるのに。
 わたしがしてることと言えば、テーブルの上にある彼女のコーヒーカップを見つめることだけ、で。

 思い切って顔を上げ、彼女の後ろにいるカウンターの中のマスターと目を合わせる。
 もうこの席に着いてから15分。店も混み出す時間だ。
 マスターは素知らぬふりをしながらも全身の注意をわたしに向けてくれてるのがわかる。
 スタッフは黒子なんだよ、って。
 お客さまの会話に口を挟んじゃいけない、って。ルールだって。
 バイト初日に優しく教えてくれたこと、そのままの姿でいてくれる。

 ── ありがとう。マスター。……大好き。

「まあ、あなたの気持ちはわかったわ。少しの間傍観することにする。葉月は若い男の子だし、はけ口も必要よね? ……すぐ飽きるかもしれないし。あなたにね」

 トゲのある言葉。
 それを一気にまくし立てられたことで、わたしは思わずマネージャさんと視線を合わせた。
 彼女の口元がきらきらと輝いている。
 顔の輪郭が二重三重に見えることで、わたしはようやく自分が泣いていることに気づいた。

 ……泣いてちゃ、ダメ。泣かないで、わたし。

 情けないことに、わたしの行為はマネージャさんから見れば、

 『なに? 私の顔、なにかついてる?』

 って行為に見えたかもしれないほどの頼りない反撃だったようだ。
 彼女は婉然と微笑みながら言い捨てた。

「じゃあ一つ条件を出すわ。あの子の身体を傷つけるのは止めて? 肩とか、背中とか。モデルって結構露出の多い商売なの」

 テーブルの上に置かれたわたしの手の先を検査するように見つめている。
 わたしは弾かれたように反射的に爪を掌に隠す。
 珪くんとわたしの恥部を見られたような気恥ずかしさに顔も上げていられない。

「これ、余りは、あなたのお小遣いにしなさいな」

 マネージャさんは気が済んだのか、たたきつけるように一万円札をレシートの上に置いて立ち上がった。

 カツカツと床を蹴る音。
 濃い香水の空気だけ残して、その人は帰っていく。

ちゃん……」

 マスターの声が遠くから聞こえた。
 強く手を握りしめていたからだろう。気が付いたらわたしの手の甲には、くっきりと三日月型の爪の痕が残っていた。
*...*...*
 珪くんの家の門扉の前。わたしは気がついたらずるずるとそこにしゃがみ込む。
 自分が作り出す白い息が、空に上って行くにつれ、薄くなって。真っ黒な空に吸い込まれていく。

 『はけ口』
 『飽きる』

 痛い。……言葉が、こんなにも痛いよ。
 マネージャさんの話は時間が経つほどわたしの身体の奥を抉って、どんどん浸食していった。
 今までにこれほどの悪意を直接受け取ったことはなかった。

 奈津実ちゃんや珠ちゃん。志穂さん。ミズキさん。
 姫条くんに、鈴鹿くん。守村くん。
 友達の顔を思い浮かべてみる。
 学校にいるわたしは頬が痛くなるほど笑い転げてる毎日だ。

 ── 珪くん……。

 その中、一人孤高に、おっちょこちょいなわたしを穏やかに見守ってくれてる、人。
 今まで自分のそんな環境を当たり前のように感じてた。気づいてなかった。
 でもそれはわたしが『恵まれていたから』だったんだね。

 人との出会いは偶然に支えられる。
 わたしは、知らないうちに優しい人たちに守られてたんだな、って気付かされた。

 (珪くん……)

 好き、という気持ちが、抱き合うという行為を通すと、こんな風にゆがんで見えるモノなの?

 珪くん一人しか知らないわたしは、飽きるという感情がよくわからない。
 それはもしかしたら、男の人と女の人の違いなのかな?
 男の人は飽きるモノ、で。
 そして男の人である珪くんも、いつかわたしに飽きちゃうのかな……?

 涙腺が緩む。

 (こんなに珪くんの空気に慣れて)

 もし、『飽き』という変化が彼の元に忍び寄ったら。
 ……彼一人に慣らされた身体を、どうしたらいいのか方法も知らなくて。

「珪くん……」

 今日は、帰ろう。
 のろのろと立ち上がる。手にした荷物を持ち直し、身体の向きを変える。
 自分で立ち上がることもやっとなのに。

 珪くんを、支えること、今日はできない。今のわたしは、珪くんに何もしてあげれない。

 この前偶然見てしまった、女のモデルさんとの絡み。
 それと、昨日のマネージャさんの話。
 どちらがわたしにいっぱいダメージを与えただろう?

「……えへへ。痛いなあ」

 思いを口にして、声を出して笑ってみる。
 ん、そうだね。珪くんに会うのはもう1日ごめんなさいして明日に伸ばそう。
 そのときわたしもわたしをしっかりリセットして、珪くんと笑い話のネタにしちゃうんだ。

 『やっぱりわたしってバカ?』

 って。
 珪くんの声音の『バカ』なら、わたし、元気、もらえるから。

 すっかり冷え切った膝が痛い。屈んでいたせいだ。
 珪くんの自宅前10メートル行ったところ、一番最初の街灯の下を通り過ぎる。
 自分の影が一瞬泣いているかのように大きく震えて、思いがけない長さにまで伸びた。

 その時。

 わたしの影に入ってくるもう一つの影があった。



↑Top
Next→