背後から影がゆっくりと追いかけてくる。重なりが、濃く、大きくなる。
振り返ることができない。
声の主はわかっている。
── 途切れて伝わってくるその音が、傷ついた色をしていたから。
「……どうして……?」
影がしっかり重なる頃、大きな手が肩に届く。
玄関のベルも鳴らさなかった。門扉も開けなかった。
かすかに降り続く雨の中、周囲は時折通る車の音さえも吸い込んでいく。
わたしの足音も響かなかったはずだ。
声の主は、わたしの前に回り込んだ。
「電話があった。尽から。ねえちゃんとっくに着いてる頃だって」
「あ、あの。えっと、ちょっとコンビニに寄ってて……」
下手すぎる言い訳。
わたし、ちゃんと笑えてるかな? 声、大丈夫? どうしよう。心の準備ができてない。
わたしはおろおろと周囲を見回す。
この暗さならわたしの様子、気づかれないかな? 大好きな人に。
「……マネージャにも電話した」
わたしの言い訳をあっさり聞き流して、珪くんはわたしの顔を覗き込む。
「聞いた。大体のこと」
「珪くん……」
「悪かった。気づいてやれなくて」
抱きかかえるようにして長い腕が伸びた。
珪くん。珪くん。珪くん。
今日ほど、この香りが恋しいと思った日はなかったよ。
口に出して言えたらどんなにいいだろう、と思った。
昨日あったこと、すべて伝えて。
マネージャさんに言えなかったクヤしい気持ち、なにもかも珪くんにさらけ出して。
伝えることで、ふたりでハッピーになれるのならそうしてた。
でも、きっとそうじゃないよね。
迷ってる。自分が。これからどうしたいのかを。
わたしが一緒にいることが珪くんの幸せに繋がらないなら、帰りたい。
……もうこの場所からいなくなりたい。
わたしは無意識に珪くんを押し返した。
「……」
翡翠色の瞳が薄暗がりの中、別の色を纏ってわたしを見つめる。
細い雨がかすかに影を落とす。濡れているような、……泣いているような。
見えない答えが珪くんの瞳に書いてあるような気がして、わたしはその底辺を覗き込んだ。
(……わたし、ずっと珪くんと一緒にいられるかな?)
見上げるだけで口が上手く動かない。
口の端が震える。
そう感じたときは、丸1日張りつめていたものが一気に嗚咽になって流れ出た後だった。
*...*...*
「……落ち着いたか?」「ん……。ごめんね」
「謝るな」
珪くんは、わたしをリビングのソファに落ち着かせると、キッチンで暖かいモノを用意してくれている。
しばらくするとほかほかと湯気を上げたミルクティが出てきた。
「……暖かい」
両手で抱え込むようにしてマグカップを手にする。
ミルクの中には珪くんの優しさが詰まっているようで、また胸が締め付けられる思いがした。
珪くんはいつもそう。
強引で、言葉が足りなくて。
たまにわたしから聞く断片的な珪くんは、奈津実ちゃんから見ればかなりひどいモノ、らしくて。
『アンタ、今からでも遅くないよ? 姫条以外のオトコだったら、どれでもいいからさ、考え直してみたら?』
って笑う。
……けど。
わたしは珪くんが誰よりも優しいの、知ってる。
一緒にいるとわかる。
ううん? 他の人はどうして彼という人を知らないんだろう、と思ったりもする。
見てればわかるの。簡単なことなの。
猫の目のようにくるくるとよく変わる表情も。時々発せられる言葉が、とてもとても暖かいことも。
ミルクティを出してくれたのだって、わたしの好みを優先してくれているからで。
いつも圧倒的な存在感で、わたしのことを包み込む人。
── 珪くんが好き。
人が聞いたら呆れるくらいささやかなこと。
けどそのささやかな優しさを集めて、またわたしは珪くんが好きになる。
珪くんはわたしの隣りに腰を下ろすと、無言でわたしと同じものを口に運んでいる。
「珪くん、わたし、あの……」
両手の間に挟んでいるマグカップを、珪くんはそっと取り上げてテーブルに置いた。
「……俺のそばにいて欲しい」
「珪くん?」
「おまえを傷つける、とわかっていても抑えられない。……飽きられるのは俺の方だな」
震えた声が響く。
珪くんは一瞬顔を覆うと、大きな手をそのまま滑らして亜麻色の髪をかき上げた。
その反動で少し長くなっていた前髪が綺麗な瞳を覆う。表情が見えなくなる。
引き締まった口元。
いつもは笑っててくれる口角が、張り付いたように歪んだままだ。
このとき。
わたしの迷いは、一つの強固なまでの決意になった。
……しっかりしなくちゃ、わたし。
いつも、守ってもらってきた。
大きな身体に似合わない小さな心を持っているこの人に。
ちゃんと、言うんだ。いつも恥ずかしくて、口に出せなかったこと。伝えられなかったこと。
届くように。珪くんの心の奥底に流れ落ちるように。
「珪くん……。愛してる、ずっと。……ずっと」
震える広い肩を抱きしめながら言う。わたしは変わらないよ、って思いを込めて。
最後の言葉は情けないことに鼻声だ。
「明日からずっと一緒、だよ? 珪くんに一番に、おはよ、って言えるね」
「違う。今からずっと一緒、だろ?」
湿った声が耳元でする。声音に嬉しそうな色が混じってるのがわかってわたしは笑った。
「もう、珪くんの食事、心配しなくて済むね。それと、それとね、夜中、寂しい思いしてないかな、って考えないで済むね……」
言っててじんわりと目頭が熱くなる。泣いたり笑ったり忙しい自分に戸惑う。
心に去来する思いは、『責任』、だった。
姉のような、母親のような。もっともっと偉そうな言い方をすれば、神のような。
わたしは守っていけるかな? 目の前にいるこの人を。
『飽きる』かもしれない、という未確定な未来の話より、今。
こうして、珪くんと一緒にいる時間を愛おしんでいきたい。
わたしの腕の中で息づいてきた唇が何かを求めるように鎖骨へと移動してきたのがわかる。
わたしは珪くんを抱きしめていた腕をほどいて立ち上がった。
「?」
「……覚えてて?」
わたしは壁を伝って歩いて、部屋の照明を落とす。
窓の外は雨が降り続いている。
暗くなった部屋の中はすべてのモノが深海の中のように青白くたたずんでいる。
ずっとずっと続くこと。『珪くんと一緒に』と願うこと。
思うことは自由だよね? 願うことも。
でもそれを珪くんに強要することはできない、って。
悲しいほど『冷静』なわたしが『情熱』のわたしに待ったをかける。
人の気持ちや流れを止めることできないんだよ、って。
だから、珪くんに抱かれるとき、わたしはいつも祈るような思いで身に着けているものを落としていくんだ。
── 覚えてて?
今、あなたが抱いているのはわたし。
珪くんの手の中で壊れてるのはだよ、って。
自分の意志で自分から自分の服を剥がしていく。── 珪くんの目の前で。
今までのわたしでは考えられないことだった。
『好き』の度合いが高まれば高まるほど、戸惑った。
これほど好きじゃない相手となら『抱かれる』行為、そのものを楽しむ余裕があるのかな、と考えたこともあった。
泣きたくなるほどの快感と、『好き』という気持ちが生む胸の痛みと。
その両方が得られるのは、目の前にいる人が引き起こしてるのだ、と。
どれだけの回数、身体に教え込まれて、わたしは悟ったんだろう── ?
珪くんは目を見開いて、わたしの肢体を瞠目している。
わたしは焼け付きそうな視線を感じながら、セーターを取り、スカートを落とした。
最低限の布だけを身に付いている状態で、背中についているフックを外そうと手を伸ばす。
そこまできて指が震える。
まるで初めて下着をつけた6年生の時みたいに、小さな2つの金具は言うことを聞いてくれない。
「……あ、あれ?」
外は雨が雪に変わりそうなくらいの冷え込み。なのに背中は恥ずかしさで火照ったままだ。
「続きは?」
「え、っと……。あの、取れなくて……」
「ここまでして焦らすのか?」
珪くんは音もなくソファから立ち上がると、わたしの膝裏に腕を回して抱き上げた。
自分で決めたこと。
抱かれることも、一緒に住むことも。
でも抱かれるという行為の直前は、いつもなにをどうして良いのかわからなくなる。
何をされたワケでもないのに身体が強ばっていくのを感じる。
シンデレラも魔法が解かれる12時頃はこんな感じだったのかな?
「どう、されたい?」
珪くんはリビングのソファをソファベットにすると、労るようにわたしを降ろす。
そして片手をわたしの胸部に滑らせたまま、器用にモスグリーンのセーターを脱いだ。
わたしは横に座っててくれる珪くんに視線を預けた。
……照れないで。恥ずかしがらないで。
わたしたちの最初の夜。最初の記念日。……きちんと、言わなくちゃ。
「……感じさせて? ちゃんとそばにいてくれる、って、身体に教えて?」
「……了解。それ、取ってやる」
大きな手があっけなくわたしの身体をうつぶせにする。
暗がりとはいえ、普段あまり見せたことのない部分をさらけ出すのは、いたたまれないほどの恥ずかしさがある。
珪くんは指を伸ばす。かちりと無機質な音がして急に息が楽になった。
「おまえ、背中も綺麗だな」
「そう、かな……? ……っや……っ」
ちょうど金具のあった場所。
そこから柔らかく湿った珪くんの舌が、背骨を数えるかのように動き始める。
珪くんはすばやく端に置いてあったクッションをわたしの腰の下に滑らせた。
そしてそのまま浮き上がった上半身とソファの間に手を滑り込ませると、たわんだふくらみの下を掌で揉みしだく。
背中のラインと、両方の胸、と。
背中越しの行為は、顔が見えなくて怖い、と以前伝えたことがあった。
安心したい、って。珪くんがいい、って。
「珪、くん……?」
振り返りたくても3カ所の熱い刺激がわたしの動作を緩慢にする。
喉さえも圧迫する。出てきたのは情けないほど小さな声だった。
珪くんは、2本の指で頂きを挟むと揺さぶりを強くした。
「俺しかいないだろ? おまえにこうするの」
舌は音を立てて腰へと滑っていく。
途中、わたしが身につけたままの下着がかすかな段差となって行く手を阻んだ。
まだ全く手つかずのそこは、中心部分が蜜で濡れて透け出してしまっているに違いない。
珪くんは鼻で器用にその障害物を膝の方へと下げた。
「……あ……。んんっ!」
頂きへの刺激はそのまま、突然、むき出しになった下半身にヤケドのような熱が走る。
手の温度とはまるで違う、熱い舌がぬかるみを抉る。
割れ目を舌が往復するたびに、凪ぎだした水面が切なげな音を立てているのがわかる。
あまりに強い刺激に腰が揺れる。
場所が定まらないのか頂きに添えられていた手は離れ、しっかり腰を突き出し固定するために使われ出した。
「……やっ……っ」
高く高く上がった双璧。
まっさらな布地に絵を描くかのように珪くんの舌が動く。指が食い込んでいるのがわかる。
見えないながらも、今、自分の2つの白い肉が、珪くんの指でどんな風に変形してるのかと考えたとき、また水音が大きくなった気がした。
「誘ってるのか?」
「……ち、違う……」
「こんなに濡らして、か?」
蜜で濡れた珪くんの唇が花芯を捕らえた。
それは寸分の隙間もなく張り付いている、と思ったら、ちろちろと小さな突起を突き始める。
泣きたくなるくらいの思いがこみ上げる。── わたしが、弾ける、直前。
溢れるほど流れ落ちる蜜に栓をするかのように、珪くんはいつもの一番長い指を差し入れた。
「……や、珪……。珪、が、いい……っ」
唇も指も。差し出されたら簡単に壊れることを知っている身体。
けど、ダメ。今日だけは……。
勝手に出てきた涙を拭うこともしないで、わたしは狂ったように懇願した。
走り出した身体は止まることを知らない。
わたしは無言でぬるりとぬるりと動く珪くんの柔らかい舌に奔走され続けた。
そしてそれは、最後まで続いて。
高く細い、自分じゃないみたいな女の声が自分の喉から発せられる。
張りつめたわたしの身体が元に戻るまで、珪くんの唇はそこを捕らえたままだった。
*...*...*
珪くんはきらきらと光る口元を手の甲でぬぐい取ると、わたしを抱き寄せた。「珪くんがよかった、のに……」
「これから、だろ?」
限りなく優しい表情で微笑んでいる。
それがふと、細められた、と思ったら、ふいに切なげなヒカリを宿す。
珪くんは身を起こしてわたしの脚を開かせた。
「全部、おまえのだ」
「珪くん?」
「俺の身体も、心も……」
首、肩、腰、と、身体のラインを確かめるように動いていた指が何度か胸の先端を撫でた後、最後の場所を見つけたかのようにわたしの腰を掴む。
……彼の両手で簡単に掴めそうな頼りないわたしの腰。
蜜口が固いもので圧迫される。強烈な痺れが躰を支配していく。
「珪……っ」
教えて?
ふたりの間に『永遠』という言葉があるなら。
恋が、愛に変わるなら、そのとき。
達したばかりの身体は、わたしのなけなしの理性も奪っていく。
でも記憶力、というのも残酷な一面があると知る。
『葉月の身体を、傷つけないで』
新しいマネージャさんの言葉は、わたしと珪くん、ふたりに入り込む余地がないようなこの空間さえも、わたしの意識を異次元の場所へ連れて行く。
わたしは珪くんの首に回していた手をほどくと、近くにあったクッションの端を掴んだ。
あまりに強く握りしめたからか、指の色はなくなって、感覚がなくなっているのがわかる。
珪くんの息も弾んでいる。
珪くんの腰を動きを内股に感じるたび、身体の奥に閉じこめられていた快楽が再び、蜜となって流れ出た。
「珪……? わたし……っ」
好き、だと。
幼いわたしはそれしか知らないみたいに同じセリフを繰り返す。
珪くんはわたしの一番奥を抉りながら、時折、切なそうな息をこぼす。
そしてわたしの身体を二つ折りにすると、軽く腰を引いて焦らすように指の腹で花芯をさすった。
もう少しで達せられそうな身体の中に空白ができる。
珪くんの一番太い部分はわたしの入り口に引っかかったままだ。
「お願い……」
わたしは無意識に珪くんの腰に手を回していた。
口で言えない代わりに、身体は勝手に珪くん自身の進入を請う。
腰が珪くんを受け入れようと持ち上がり、手が珪くんを自分の中に取り入れようと、しなやかな彼の臀部をさまよった。
腰が震える。手は広い彼の背中の上で、所載なげに踊ったままだ。
「ちゃんと口で言えよ。……どうされたい?」
髪の隙間から穏やかな瞳が見える。
こんなに乱れてるのはわたしだけ、なの……?
泣きたくなる気持ちと、どうにかして欲しいという身体の欲求が駆けめぐる。
恥ずかしい、という気持ちも一端を担っている。
「……奥に欲しい。いっぱい、珪くんが欲し……!」
最後まで言う前に、背骨に沿って直線に最奥を思い切り貫かれる。
「あっ、あっ……!」
「もっと啼けよ」
こういう涙なら、どれだけでも嬉しい、と。
律動を激しくして、珪くんは今あるすべての思いを注ぎ込むかのようにわたしを追いつめた。