「……今日は、独りになりたくないんだ」
それが、きっかけ。
この言葉は、珪くんがわたしに見せた一番最初の弱さだったと思う。
わたしのことを、いつも守ってくれる人。
言葉は少ないけど、目で探すといつも近くにいてくれて。
精一杯の表現で、エールを送ってくれる人。
なのに今日は。
── どうして、そんな疲れた、悲しそうな表情をしてるの?
*...*...* Mine (前) *...*...*
「花火が消えたあとみたいだ、って思ったんだ。おまえが家に帰ろうとしたとき」長いキスが終わったあと、わたしは、目と鼻の先にある自宅を背に向けて、導かれるまま少しずつ珪くんの自宅へと歩き始めていた。
思考回路の途中で薄くモヤがかかったかのようにぼんやりとしている。
わたしの手は珪くんの大きな掌に包まれている。
「……消えてしまいそうな気がしたんだ。今度学校で会ったら、おまえは今日のことを忘れてしまってるんじゃないかって」
今は夏休み。学校があるときと違って、どちらかが何らかのアクションを取らない限り、偶然会う、ということは難しい状況だった。
けど、電話とか、メールとか、連絡する方法はいっぱいあるよね?
「忘れないよ? あんなにきれいな花火、一緒に見たんだもん」
夏の夜空に、色鮮やかな花が勢いよく咲いて、散る。
何度も何度も華やかな色を振りまきながら、はばたき市の花火大会は終わった。
わたしは花火を見ながらも、時折照らされる珪くんの横顔に見とれていた。
小さな火の粉が、彼の髪に、肌に降りかかる。
そのたびに彼の瞳も輝きを増すから。
ただ、きれいだ、と。
珪くんの背景も、珪くん自身も。
── どちらも泣きたくなるほど美しくて。
わたしは息を呑んで2つの景色に魅入っていた。
きらきらと火の粉を散らして落ちていく花火が、さらに大きく輪っかを描いてにじんで見える。
……やだな、わたし。
(どうして、きれいなモノを見て泣いちゃうんだろう?)
こんなところ珪くんに見つかったら言い訳できないから、と、わたしはさらに目を見開いて、縁に溜まっている水分を押し込んだ。
珪くんを視界に捕らえながら考える。
わたしがこうなるのは、きっと。
── この人、だから。
こうして出会えたこと。知り合えたこと。
同じモノを見て、同じ想いを持つこと。
同じ空間、同じ時を生きていられること。
周りの雑踏がにぎわしい。
多くの人が、毎年恒例のこの花火大会を楽しみにしている。
遠くに見え隠れする頭。
(こんなにたくさんの人がいるのに)
他の人じゃダメ。珪くんじゃなきゃイヤ。
── 隣にいてくれるこの人が一番なのだ、と。
幼子の慕う不思議さが自分の中で広がっていく。
「きれいだね!」
口を開けば同じことばかり繰り返してるわたしを、珪くんは聞いているよ、という素振りだけ見せて静かに花火を見上げている。
元々無口な珪くんと、わたし。
楽しい時間が流れて、家に帰って。
余韻に浸りながら着ていた洋服を脱ぐとき、いつも、わたしは珪くんと会って、どんなことを話しているのかな、と考えることがある。
『楽しかったね。また行こうね』
って、手を振って別れて。
家に着いた頃には、細かな会話の断片は頭の隅にも残っていなくて。
在るのは、『また会いたい』って気持ちだけだったりする。
たとえ今日のように泣いちゃう日であっても、不思議なことにこの気持ちは変わらなかった。
「おまえを自宅まで送っていくとき、いつも帰したくない、と思うけど……。今日は抑えきれなかった」
長いキスだった、と思う。
もがけばもがくほど、珪くんの細い身体のどこにこんな力が潜んでたのか、と感じるくらい、身体に回された腕は強く身体を締め付けた。
けどそれは決して苦しくはなくて。
お互いの身体の凹凸が、ぴったりと合う。馴染んでいく。それほどまでに暖かくて。
唇が離れたときには、触れあっていることの方が自然とさえ思えた。
わたしの存在や背中を確かめるように辿る指が心地良い。
少しずつ、身体が解きほぐれていく。
初めは固く引き結んでいた唇も、力を失うにつれ、珪くんの舌が進入してくるのを感じた。
ゆっくりとなぞる歯列。
まるで戸惑ってるわたしを宥めるかのように、優しく何度も伝っている。
「……あ」
珪くんの腕の中、脚が震え出したのがわかる。
── キス、って、こんなこともするの……?
「……っ!」
わたしの震えを察したのか、珪くんはわたしの頭を抱え込んだ。
そして、歯列の奥にある舌を引っ張り出すと力強く引き上げる。
まるで脳髄まで溶け出すような感覚。
寒さは感じないのに、身体中が鳥肌立つ。
唇がようやく離れたとき。
わたしは身体を支える骨という骨が、溶けてすべて液体になって、口を経て。なにもかもが珪くんに流れ込んだかのような、強烈な想いに襲われた。
「……おまえ、そんな表情をするんだな」
「そ、それは珪くんが……っ」
必死に両手に力を入れて、顔を見上げると、珪くんは澄ました顔で笑っている。
唇がはれぼったくて上手く話せない。
色を失ったであろう場所を押さえたまま言葉に詰まっていると、珪くんは耳元に口寄せてささやいた。
「……今夜、壊してやる」
*...*...*
「シャワー、使うか? ……これ、着替え。俺ので悪いけど」「う、うん! じゃ、あの、わたし……」
ポンと腕に置かれた柔らかいTシャツの感触に、ぴくりと身体が震える。
……珪くんの、家。
昼間に何度かお邪魔したことはあったけど、こうして深夜に来るのは初めてで。
夜と昼では全く違う顔を見せるリビング。
照明もどこかオレンジがかっていて、真昼の明るさとはほど遠いものだ。
「?」
「あ、はい!」
えっと、えっと……。
シャワーって、言ったよね? わたし、それで、うん、って返事して……。
「い、行ってきます!」
くるりと背を向ける。
わ、行ってきます、なんて、なに言ってるんだろう、わたし……。
「……待ってる」
珪くんの余裕たっぷりな声に押されてリビングを出る。
うう、なんだか、さっきの『独りになりたくない』って言ってた珪くんがウソみたいだ。
(── わたし、からかわれてるのかなあ……?)
わざと音を立てるようにして、お風呂場へ続くドアを閉める。
この展開、って……。
『〜。そういうときっていうのはいつ訪れるかわからないんだよ? ちゃんと準備しておくように!』
なんて冗談交じりで言ってた、奈津実ちゃんの表情が頭の中でぐるぐる、する。
「って、心の準備ができないよう……っ」
ぼんやりと浴衣姿の自分を洗面台の鏡に映す。
耳と頬だけが火照っているのか、妙に赤さが目立っている。
でも何よりも目立っているのは、さっき重ね合って、気持ちを確かめ合った部位。
充血した唇だろう。
(── わたしは、きれい、だろうか?)
好きだと思う。
迷ってない、と自分にも、誓える。
いつか、珪くんと、そうなるのだろうか、と考えたこともあった。
けど、わたしは、どうして好きになることで、今着ている服を脱ぎ合わなければならないのかがわからなかったのだ。
(今、この状況に陥っても、まだ、わからないなんて……)
心とは裏腹に、手は何かに支配されてるかのようにゆっくりと文庫結びに手をかける。
ゆるゆると赤い帯が布摺れの音を立てて床に付く。
糊のきいた木綿の浴衣が肩から落ちた。
アップにしていた髪をゆっくりとほどくと、夕方ちょっと背伸びをしてつけた香水の香りが立ちこめた。
「……?」
かすかに人の気配がした、と思ったら、ドア越しにノックする音がする。
どうやらかなり時間が過ぎたにも関わらず、シャワーの音が聞こえないので心配になったらしい。
「わ、入らないで! い、今から、なの!」
我ながらどもるところが情けない。
結局わたしは珪くんのノックの音に背を押されるようにしてバスルームに入った。
シャワーを思い切り、頭からかぶる。
滴がひとつひとつ流れていくことで、不安も全部流れればいいなんて勝手なことを思う。
── 不安。
「……そうだったんだ……」
今、わたしがわたしでいることの不安。
それは、わたしの全部を見せることで、大好きな人に嫌われるんじゃないか、という不安だったんだ。
滑るようにして白い泡が二の腕から流れていく。
その後にはいつもわたしが見慣れている肌が現れる。
この首、胸、腰。
一年中日に当たったことのない膨らみの影は、白いのを通り越して血管が透けて見える。
── 恐い。
いつもは制服で隠しているところを晒すことで、珪くんにわたしへの違和感が生まれたら……?
ちゃんと、好き、でこうなった。
自分の意志で、こうしたい、と思った。
けど、こんなに怖いのはどうしてだろう?
未知だから、怖いのか。
痛みに対する恐怖なのか?
── 珪くんに嫌われるかもしれない、という恐れなのか……。
不意に目頭が熱くなる。
「……嫌われるの、やだな……」
好き、という気持ちの登り坂。
ゴールはまだまだ見えないのに。
それが、目前で底なし沼がありました、ってエンディングになったら……。
(……泣きそう)
わたしは頭を振る。
熱めのシャワーが何もなかったかのように流れ続けている。
*...*...*
「ありがとう。……えへへ、ちょっとブカブカだね」珪くんから借りたパジャマは、縦も横も大きくて、わたしは大人の服を着た子どものようだった。
パジャマの上着を羽織っただけで、わたしの膝上までの長さになる。
この調子でズボンをはいたら、きっとどれだけ折り曲げても足首が出てこないような気がして、わたしはズボンを畳んだまま腕に掛け、そのままリビングへと向かった。
珪くんはわたしを認めると、一瞬目を見開いて。
何かを思い定めたかのように、すっと、鋭く目を細めた。
「珪、くん?」
その視線を受けて、心の奥底に潜めていた不安がまた顔を出す。
身体が萎縮する。
こんな珪くんの目の色を見るのは初めてだったからだ。
深い深い森の色。
── 男の人の、色。
「こっち、来いよ」
ソファに座った珪くんは、低い声でわたしを誘う。
喉が、渇く。
言いたいことはすべて声帯の壁に引っかかって、出てこない。
わたしは、どうしていいのかわからなくて、わざとソファの一番端っこに腰掛けた。
……顔、合わせられない。
「……緊張、してるみたいだな」
珪くんはペリエを口に含みながら、わたしを見て小さく笑った。
「……う、うん……」
してないはずがない。
女の子なら、きっと誰だって、そう。
だけどね。けど、ね。
わたしは思い切って顔を上げ、珪くんの視線を受け止める。
この手を伸ばして。珪くんに進んで。
目には見えない、抑えきれない、感情の力でわたしはここまで来たのだから。
珪くんは静かにグラスをテーブルに置いて、わたしを直視した。
「こうしたいと思ってた。ずっと前から……」
(珪、くん……?)
珪くんは、わたしを見ているようで見ていない。
視線はわたしのずっと後ろ。
わたしを通した、わたしじゃないわたしを愛おしんでいるかのように切なくて。
「ずっと前から?」
「そう。……どれだけ待ってたか、きっとおまえにはわからないだろうな」
珪くんのいう『ずっと』は、とてもとても長く感じる。
1年前、というだけじゃない。もっと……。そう、珪くん自身の半生のような。
── どうして、だろう……?
「えっと、じゃあ、入学式の頃から……、かな?」
ワケがわからなくなって問いかけると珪くんは苦笑した。
「……もっと昔」
思考がまとまらないうちに、珪くんはわたしの身体を抱きかかえて、2階へと連れて行く。
わたしはとっさに、珪くんの首へと腕を回す。
ギシギシとかすかに軋む階段。
その奥の、珪くんの部屋。
いつもなら数歩の距離の廊下が、たとえようもなく長く、遠く感じる。
どうしたらいいんだろう。
……本当に何も分からない。抱くことも抱かれることも。
怖い。
……きれいじゃない、って思われたら?
……もう、いい、って言われたら?
誰でもが、一歩先の殻を破るのには、とてつもない勇気がいるのだろうか?
わたしが、お母さんの身体から生まれるときはどうだったのだろう?
覚えていないだけで、こんな切ない思いをしたのだろうか?
この部屋に入ったら。
もう出てくる頃には、今までとは違う二人になるの?
一歩先に出ることで、わたしたちは、一歩前の友達同士に戻れなくなるのかな?
たった今、シャワーを浴びたはずなのに、もう指先が冷たい。
珪くんは、わたしをベットの上に横たわらせると、静かにドアを閉めた。
「。……俺だけを見てろ」