『私ね……、泣かないって決めたんです』
 
 ふとした折りに、意志を持った目でそう呟いた神子の顔が浮かんでくる。
 
 ときに非情なまでの強さで襲いかかってくる、人の心を亡くした怨霊たち。
 神子は戦いの最中、細い身体のどこからこんな力を出すのか、と思うほどの勢いで、彼らを打ち負かしていく。
 その、勇ましいまでの後ろ姿と。
 時折見せる、心細げな表情。
 胸に抱きかかえたときに感じた、細い肩。
 
 ──── 僕は、どちらが真実の彼女だと思えばいいのだろう。  
*...*...* 篤実 1 *...*...*
 都落ちした平家の軍を叩くため、僕たち源氏は三草山の頂上まで来ていた。
 数年来、都人になったと遊び呆けていた咎が己の身に降りかかったのだろう。
 鎧を着けるのにも数刻を必要とする平家の陣は、源氏にあっけなく打ち負かされていく。
 
「弁慶、やったな。これで兄上の都入りも近づいた。礼を言う」
「ふふ。なにを言うかと思えば。九郎、まだ戦いは続きます。気を緩めてはいけません」
「相変わらずお前は手厳しいな」
「……念には念を、ですよ」
 
 僕は少しの間目を閉じて、苦い記憶をやりすごす。
 まだ二年と経っていないその思い出は、ときに僕を奮い立たせ、失望させてきた。
 
『──── この我に勝とうとは、十年早いわ、弁慶!』
 
 この世を我が世の春と捉え、奔放に生きたあの人は、人ではない姿となってまだ現世に存在している。
 このような下っ端の平家を片付けたからといって、あの人への道のりはほんの一里塚に過ぎないんだ。
 
「あら、望美。疲れたのかしら? 大丈夫?」
「ううん? 私は大丈夫」
「今回の戦い、望美にとっては初陣も同じよね。少しずつ疲れが出てくる頃だと思うから、無理しないで」
 
 女人の声がする、と思ったら、それは朔殿。
 どうやら、休息のため木の根元に座り込んだ神子に声を掛けているらしい。
 僕の視線に気づいたのだろう。
 神子は小さく笑うと、何でもないといった風に首を振った。
 
「ありがと。私は平気だよ。朔は? 疲れてない?」
「ええ、ありがとう。私は戦には慣れているのよ。幸い、今回の戦はずっと晴天に恵まれていたのもよかったわ」
「うん。雨だと疲れが倍増するよね。……あ」
「なあに? 望美」
「う、ううん。……その、雨だと、多分、疲れるよね……?」
「ふふ、どうしたの? 望美ったら、同じことを言い直したりして」
 
 神子はかぶりを振ると視線を避けるかのように、履き物の紐を結び直している。
 
『私は戦には慣れているのよ』
 
 確かにそうだ。朔殿は先の木曽との合戦の際にも、その前にも徒(かち)で源氏軍の後を付いてきた。
 怨霊を鎮める力は神子より弱いものの、何度か封印を行ったこともある。
 何しろ、鎌倉で生まれながらにして日常の中に戦のあった人だ。
 朔殿は確かに、戦慣れしている。
 
 一方で、この白龍の神子は?
 神子の世界には戦は存在しなかったと聞いたことがあるし。
 時空を超えて以降は、ずっと僕たちと行動を共にしている。
 多生の封印は行ったことはあるが、今回の戦が初陣なのは間違いない。
 
 なのに、おかしい。
 彼女は、雨天を引き合いにして笑っている。
 ──── 彼女の方が朔殿よりも遙かに戦慣れしている。
 
 三草山の山頂では、闇にまぎれてふくろうが我が物顔に啼いた。
*...*...*
「……おや、これは……。九郎? 近くにいますか?」
 
 ふいに、ぱちんと木の幹がはぜる音がして我に返る。
 夜目の中、火の矢が緩やかな弧を描き山肌に突き刺さる。
 
「弁慶! まずいぞ。敵襲か……。平家か? その辺りの山賊か。……それとも味方だった落人か」
 
 苦々しげな九郎の声が耳元でする。
 
 『味方の落人』
 完全に鎮圧したとはいえ、朝日将軍と呼ばれた木曽殿の死を悼む人間も多い。
 八方敵ばかりの九郎の思いを、頼朝殿はご存じといえるのか。
 晴天続きでからからに乾いた木の枝は、瞬く間に火と仲良くなったらしい。
 勢いを増した炎はあっという間に僕たちを包んでいく。
 
「火のついた枝は切り落とせ。下生えには土をかけろ。少しでも火の勢いを落として炎を突破するんだ」
「駄目です。後続の部隊が完全に火に囲まれてしまいました。う、うわぁ!!」
 
 神子は暗闇に目を凝らすと、後続の陣へ足を向ける。
 
「大変! 早く助けにいかなきゃ!」
「……いいえ。君はそれには及びませんよ?」
「弁慶さん? ど、どうして?」
 
 僕は身体で神子の行方を制すと、九郎の方に身体を向けた。
 
「九郎。ここは先に進みましょう」
「なに!? この状態で前に進むというのか?」
「そうです。幸い先鋒の精鋭は完全に火に囲まれていません。この部隊だけで敵の本陣を叩きましょう」
 
 九郎は、今までも源氏の総大将として多くの戦に参戦してきたというのに。
 彼はどうも味方を……、それも僕に言わせればいわゆる『小兵』を大切にする癖がある。
 もっともそれは悪いことではなく、彼の評判を高めているのも事実だけれど。
 人間というのは、価値のある人間とそうでない人間に分別されて。
 価値のない人間は、切り捨てていった方が吉と出ることも多いというのに。
 
「ね、ねえ、弁慶? 叩くって言ってもさ。これだけの軍勢で攻めたって返り討ちに遭うだけじゃないの」
 
 九郎の沈黙を取りなすように景時が口を挟む。
 状況を見て、これは九郎の味方をしたした方が得策だと考えたか。
 ……それとも、事前に鎌倉殿から指示があったか。
 
「う、うわっ!! 弁慶殿。かなりの勢いで火が回ってきました!」
 
 僕は陣を取りまとめている者の声に頷くと、再び九郎に目を向けた。
 
「ここに残っているほうが危険ですよ。今攻められてみなさい。
 仲間の救出と敵からの防衛。我々だけでその両方はできません。間違いなく全滅させられるでしょう」
「弁慶、お前……」
「今できることは、前に進んで敵を打つことだけです。さあ、九郎、早く決断を」
「ちょっと待って、それは……、火に包まれた仲間を見捨てるってことなの?」
 
 九郎が口を開く前に、朔殿は黙っていられない、という様子で僕と九郎の間に割って入る。
 
「ええ。そういうことになりますね」
「ちょっと弁慶さん、待ってください。今まで一緒に働いてきた味方を、そんなに簡単に切り捨てていいんですか?
 俺は……。きっと、先輩も、納得できません! 春日先輩、そうですよね!?」
 
 譲くんは神経質そうに『めがね』を鼻の間に押し上げると、頬をそそけ立たせている神子を覗き込む。
 
(神子……)
 
 あちこち一斉に火を噴き出した森の中では、みな、火傷をしているかのような赤ら顔をしているというのに。
 そんな中、彼女の顔だけは一人、雪のように白い。
 
 ──── 僕は、彼女にこんな顔をさせたいわけではないのに。
 
 と考えて我に返る。
 
 彼女の考えがどうであろうと、僕には関係ない。
 僕は僕の決めた道を行く。
 1年でも半年でも早く、僕が滅した応龍を復活させる。
 そして荒廃しきっているこの京に再び幸いをもたらす。
 
 古来の書物にあるように、神子はやがて、元の世界へ戻っていくだろう。
 そのときまで、僕は偽善を装って、神子を源氏軍に引きつけておく。
 
「弁慶さん。……それしか方法がないんですよね?」
「ええ。違う方法があれば僕もそれを選びたい」
「……わかりました」
 
 僕の視線に一瞬たじろいたように目をそらせた神子は、再び僕を見つめると微かに首を縦に振った。
 神子の様子に、譲くんも、朔殿も。朔殿に釣られて景時も、しぶしぶといった様子で頷く。
 僕は九郎を振り返ると、真っ直ぐ前方の山を指差した。
 
 
 
 
 
「九郎。急ぎますよ? 一瞬の気の迷いが、取り返しのつかない失敗に繋がりかねません」
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