*...*...* 約束 1 *...*...*
ちょうど期末考査が終わった週末。運動部のヤツらは水を得た魚みたいに、一目散にグラウンドへ飛び出していく。
バスケ部に所属しているオレも、体育館をシェアしているバレーボール部に負けるもんかと、1番に体育館へと飛び込んだ。
中学生最後の夏。
夏休み開始直後には、3年間の集大成となる大会が待っている。
去年、地区大会優勝を飾った先輩たちのためにも、どの学校にだって優勝旗は渡せないよな。
「はー。やっぱ、1週間身体動かさないと、鈍るのかなー、っと、あれは……」
学校からの帰り道。
オレが滲んだ汗をハタハタと乾かすように、ゆっくりと自転車をこいで家に向かっていると、
ちょうどそこには、オレの家の隣りに住んでいる『ちいねえちゃん』こと、『ちいねえ』が、駅の改札から出てくるところに出くわした。
わ、ちいねえと話せるのって、えっと、どれくらいだ? 3週間ぶり、くらいか?
オレはペダルをこぐ足に思い切り力を入れると、一気にちいねえに近づいた。
「ちいねえちゃん!」
へへ。ちいねえったら、オレの声には気が付いたものの、オレの姿まではわからないみたいだ。
不安そうにあちこち見渡しては、人の顔を目で追ってる。
「ちいねえったら、今、帰り? 早いじゃん」
「あ、ナオくん! 突然声がするんだもの。ビックリしたよ」
ちいねえはオレの姿を認めると、ふわりと小さく微笑んだ。
ええっと……。ちいねえ、って大学を出てから今年で3年目、くらいだったっけ?
最近のギャルメイク、とはほど遠い……。っていうか。
いや、もっと言えば、ホントに化粧してんの? ってくらいのさっぱりとした顔をしている。
これで制服着てたら、高校生だろ、って感じ。
これでホントに、都内のOL?っていうの? 働くこと、できてるのかな?
オレは自転車から飛び降りると、ちいねえの隣りに並んで歩き始めた。
「ナオくん、いつもこんなに帰り、遅いの?」
「オレ? オレ、部活。今日は当番でさ。体育館のカギを閉めてたからちょっと遅くなったんだ」
「そっか−。ナオくん、中3だもんね。もうすぐ大会、かな?」
「そうそう。今日さ、やっと試験が終わったからねー。どこの部も、ギリギリまで練習やってるの」
ちいねえは口元に笑みを残したまま頷くと、駅前の喧噪にちょっと眉をひそめている。
──── そう、最近の、ちいねえは少し変わった、よう、な、気がする。
オレが小さい頃。そしてちいねえがまだ高校生だった頃。
ちいねえは本当によく笑うお姉ちゃんだった気がする。
笑って。笑いが笑いの渦を作るかのように、ちいねえの周りにはいつも笑顔がいっぱいだった。
ちいねえが通れば、ちいねえの家から3軒先の、気むずかしい老犬だって笑う、って、ウチのお袋、言ってたっけ。
なのに……。
最近のちいねえは、ちょっと元気がない。
あー、オレ、なんかの役に立てたらいいのに。
「こんな時に当番なんてツイてないって思ったけど、ちいねえに会えたから帳消しかな」
オレはちいねえの様子に気づかないフリをして話し続ける。
なんてったって、オレがちいねえに、こうして偶然にしろ会えるなんてコト、メッタにないんだから。
──── そう、ちいねえは、ひっそりと暮らしてる。
ここ数年、誰かとはしゃいだり、騒いだり。
週末は仲間とつるんで旅行、なんての、見たことない。
ちいねえが大学に通ってた頃は、こんなんじゃなかった。
毎週のように、ってのは言い過ぎだけど。
月に1回くらいは、何人もの仲間が、えっとなんて言ってたっけ? そうそう、『ゼミ友』、か。
男女問わず、ちいねえの回りには多くの友人が取り囲んでいた。
そんな中、ちいねえはいつも輝くような笑顔を見せてたのに。
今のちいねえは、3年前のあの頃より、幾分やせて儚げだ。
オレはちいねえの顔を見上げると、少しふざけた調子で、ずっと知りたかったことを尋ねた。
「それにしても。会えたのは嬉しいけどさ。金曜日だってのに、こんな時間に帰ってくるってどうなの?
デートの相手もいないなんてさ」
「い、いいの! 社会人は社会人としての生活があるの」
「どうかなあ? 25歳の独身OLならさ、朝帰りとは言わないけど、せめて午前サマくらいじゃなくちゃ」
「午前サマ?」
「ちいねえの上の姉ちゃんは、しょっちゅう夜中に帰ってきてたじゃん?」
ちいねえは2人姉妹。
ちいねえより5つ年上の姉ちゃんは、5年前、学生の頃からの付き合い、っていってた彼と結婚した。
今日も朝帰りだ、と笑うオレに、お袋は、笑って言ったモノだった。
『もう、婚約者さんなんでしょう? 今が1番楽しい時よ。いいんじゃない?』
って。
そう考えると何だ?
上のお姉ちゃんが結婚したとき、姉ちゃんは25歳。
ってことは、今年25歳のちいねえだって、いつ結婚したっておかしくない歳ってことじゃん?
へぇ……。
まだまだオレとつるんで一緒に遊んでくれそうな、ちいねえが、結婚、か。
オレの横をトボトボと歩いている自転車は、キィと、オレに抗議するかのように乾いた音を立てた。
「あ! そうだ。ねえ、ちいねえ。今からオレとデートしようか」
「ナオくんと、デート?」
「そ。これから。可哀相なちいねえのためにさ。一肌脱いでやろうかな、って」
ちいねえは、一瞬オレに釣られるようにして笑う。
それは薄暗がりの雑踏の中、はっとするほど美しく見えた。
「でも……。やっぱり、帰ろう? きっとナオくんのお母さんが心配するよ」
ちいねえはオレの顔を見、そして、手首を返して腕時計を見ながら反対する。
だけど、オレがちいねえと一緒にメシ食える機会ってメッタにないもん。
オレは、ちいねえの言葉を消すくらいの大きな声で言い返した。
「うん? 大丈夫大丈夫。ちいねえと一緒だったって言ったら、絶対お袋、怒ったりしないって」
「そう、かな?」
「ほら、後ろ乗って」
オレは汗ばんだタオルでささっと自転車の荷台を拭くと、強引にちいねえの手を引っ張る。
小さい頃、オレはしょっちゅうこうしてちいねえの手を引いて、近所の公園に行ってた。
こんな季節は、花火を持って。ちいねえは、オレを追いかけるようにして、水の入ったバケツを持って。
でも……。あれ?
ちいねえの手って、こんなに小さかったっけ?
*...*...*
「ふふ、ナオくん、可愛い」「へ?」
「だって、自転車なんだもん」
「なんだよ。すぐそう子ども扱いする」
「ナオくん、いくつになったんだっけ?」
オレはちいねえの腕を自分の腰に回させると、そろりそろりとペダルを踏み始める。
思ってたより、ずっとちいねえは軽い。
って、これって、ちいねえが小さくなったんじゃなくて、オレが大きくなったんだよね。
オレは誇らしい気持ちで、ちいねえの問いかけに答える。
「オレだって、もうすぐ15歳だよ。来年高校!」
「もう、そんなに大きくなったの?」
「そうそう。ってことは、ちいねえはもう25歳ってことだね」
「そんなこと、大声で言わない!」
ちいねえは笑い声を上げると、回していた腕の輪をぎゅっと小さくする。
「わ! ギブ!ギブ!!」
ちいねえの腕が当たってるところが、妙にくすぐったくて、照れくさい。
ちょうどベルトのところに、ちいねえの指がある。
何の色もない透明なマニキュアは、ちいねえの清潔な雰囲気に合っていた。
「25歳かー。そういうのってクリスマス、って言うんだよね」
「あはは。ナオくんって、まだ中学生なのに、どこでそんな言葉を覚えるの?」
デートだ! って決意表明したのはいいけれど、オレの行き先に当てなんてなかった。
駅前の賑わいから少し遠ざかったからかな。
ちいねえはさっきより伸びやかに、くすくすと笑いを浮かべている。
「んー、どこでって。なんか、古いマンガで読んだ」
「そうなんだ」
「オレ、結構読んでるんだよ? 古いマンガとか、古いドラマとか。
こないだ、なんとかっていうドラマも見たよ。なんだっけなー。すっげー人気だったんだって」
「ナオくん、レトロ趣味なの?」
「『レトロ』って?」
「んー。懐古趣味? つまり……。古いのが好きなの?」
「古い、って……。オレはちいねえと共通の話題をさ、作ろうと思って努力してるんだから」
「ふふ。なんだかヘンなの」
ちいねえは、オレの考えなんかに気づく様子もなく、オレの背中で笑っている。
──── ちぇ。ノンキなこと言って。
ちょっとはオレのことだって、考えて欲しいよ。
って仕方ないか。
オレはまだ、15歳で。ちいねえは25歳。いっぱしの大人なんだよな。
だけど……。
気が付くとオレはちいねえの姿を追いかけている。
そう。意味もなく、ちいねえの後をくっついて歩いてた、幼稚園の頃と同じなんだ。
ただ、オレの本当の望みは…。
追いかけたいんじゃない。
ちいねえをオレの……・。
──── オレのモノにできたら、って思ってるのに。
黙り込んだオレのシャツを、ちいねえは心配そうに引っ張る。
「ん? ナオくん、どうかした?」
「べ、別に! なんでも!! あー、それにしても早く夏休み来ないかな。
こんなに暑くて、それでもって、クーラーも入ってない学校じゃ、もう、やってられないよ」
「そっか−。私とは逆だね」
「逆?」
「うん……。会社の空調、ちょっと効き過ぎてて」
ちいねえは、すらりと伸びた細い指をさする。
夏の陽射しとはまったくと言っていいほど相容れない白さが、オレの目を釘付けにした。