*...*...*  約束 2 *...*...*
 私は、ナオくんがこぐ自転車の後ろに乗りながら、遠くなる駅前の明かりを目で追っていた。
 歩くよりはずっと早くて。だけど、車よりもずっとゆっくりと景色は流れていく。
 ……自転車、か。
 私、もうずいぶん長いこと、乗ってない気がする。

 白いカッターシャツを膨らませて、ナオくんは楽しそうに話し続ける。

「別にオレ、懐古趣味ってワケじゃないよ。ちいねえに歩み寄ってるだけ」
「へ? 私?」
「だってさ、ちいねえってば、新しいゲームとかドラマに全然疎いんだもん。
 こうしてオレは日々、ちいねえと共通の話題を見つけるために努力してるの」

 社会人になってから、3年。
 会社の同僚とのお昼休みは、ほとんどが前日のドラマの話題に終始していた。
 アイドルグループの誰それが素敵だ。ファンクラブに入った。週末はコンサートに行くの。そうなの? アタシもよ。
 テレビは次々と新しいアイドルを作り出す。
 視聴者は夢中になることに何の責任を感じる必要もない。

 ナオくんは、先月私と話していたことを覚えていたのだろう。
 不思議そうに私を振り返った。

「だけどこんな早く帰ってくるのに、ちいねえってばロクにテレビも見ないんでしょう?
 どんな生活してるの? そんなんで、友だちとの話題に困らないの?」
「うーん。大丈夫。私、聞き役専門だから」
「ホント? 1人でポツンとしてたり、しない? 『引きこもり』って言われたり、してない??」

 ナオくんは、幼いときそのままの真っ直ぐな目で私を見つめる。

 確か、ナオくんが私の家の隣りに引っ越してきたのは、10年前。
 ナオくんが幼稚園、私が中3の春だった。
 お姉ちゃんと2人姉妹で。
 ずっと弟か妹が欲しかった私は、人なつっこいナオくんにせがまれて、近くの公園によく行ってたっけ。

 ……あれ? なんだか、今、聞き捨てならない言葉を聞いたような……?
 引き、こもり? それって私のこと、を言ってるんだよね?

「ちょっと待って? 私、引きこもりじゃないよ?」
「だって事実じゃん。土日だって結構家にいるし」
「それは……っ。なによ、ナオくん、ずっと見てるの?」
「ちいねえ?」
「監視、だ。ナオくん、監視してる」

 ふてくされたように低い声で言い返すと、途端に慌てた声がする。
 ふふ。こういうところ、幼いときから変わらない。
 私が、ダメだよ、って言っても聞かないとき。やんちゃなとき。
 『どうして、言うこと聞いてくれないの?』
 って口を尖らせると、必ずナオくん、オロオロして、私の言うこと聞いてたっけ。

 案の定、ナオくんは饒舌になって言い訳を始めた。

「やだなあ。監視なんてしてないよ。オレの部屋の窓からちいねえの玄関が丸見えだから……。
 誰かが出かけたり、客が来たりするとすぐ分かるんだ。そ、それだけだよ!」
「ふぅん」
「試験前だとか1日中勉強してると、つーか、とりあえず机に向かってると見えるわけ!」
「1日中、勉強?」
「そう、勉強だよ! 勉強に決まってるじゃん。っと、そ、それで……。そう、勉強してるとちいねえのことがわかるわけ。
 今日はちいねえ、1度も出かけなかったなあ、とか。出かけたけど、あの格好じゃ、そこらのスーパーまでかな、とか」
「はい?」
「今日はメガネっ子だったなあ、とか。あれ? 今日は2つ結びだったなあ、とか」
「わーーー! 恥ずかしいから、もう、言わないで!!」

 その他にも、私が着ていたジャージの色や靴下。
 ナオくんは、私の機嫌を取ろうとしてか、恥ずかしすぎることまで話し続けている。
 そしてひとしきり私をからかったあと、ポツリとつぶやいた。

「……やっぱ、ちいねえは笑ってた方がいいよ」
*...*...*
 私は昔から、こういう性格、というワケじゃなかった。
 昔は……。そう、あのことがある前までは、今思えば、なんの悩みも持たない平凡な女の子だった、と思う。
 それを、目の前のナオくんは知らない。
 3年前、私に起こった事実は、私の中を少しずつ浸食している。
 そして、見えない薬の副作用みたいに、今も私を苦しめている。

 笑わないことで苦しくなる。
 笑うことで、自分だけが幸せになることに苦しさを感じる。
 自分と、周りの人との関係が、紙切れみたいに薄っぺらくさえ思える。
 そんな日々のどんよりした気持ちが、ナオくんといることで少しだけ軽くなった気がした。

 私は顔を上げて辺りを見回す。
 ここ、どこを走ってるんだろう。
 もう、15分くらいは、走ってるはず。だけど、景色は、あまり変わっていない。
 家から遠くなることも、近くなることもない。
 ってことは、ナオくんは同じ道をずっとグルグル回り続けているのかな?
 すっきりとした襟足が汗ばんでいる。

(……もしかして、気を遣ってくれてる……?)

 私は、ナオくんの腰に回していた腕をほどいた。
 ずっと年下だ、って思ってた、まだ中学生の男の子に、こんな気を遣わせちゃ、悪い、よね。

「ちいねえ……。どうか、した?」
「ううん? なんでもない。あ、そうだ、せっかくだから、なにか一緒にご飯でも食べていく?」

 気づかないうちに泣き顔になってたのを隠すように、私は片頬に手を当てると思い切り笑顔を作る。
 ──── そう。私は今、笑うことができるんだもの。だから、平気なんだもの。

 ナオくんは、ぱっと顔を明るくすると勢いよく自転車から飛び降りた。

「わ! 危ないよ」
「大丈夫だってば。ねえねえ、それより、晩ご飯、本当にいいの? オレ、腹ペコだから、すっげー食うよ?」
「いいよ〜。今週、給料日だったの。任せて」
「やった! どこどこ? どこでおごってくれるの?」
「牛丼」

 とたんにナオくんは、思い切り不満そうな顔する。
 私の目線より少し下にあるナオくんの顔は、その瞬間、私の後ろをちょこちょこついて回っていたナオくんに戻るんだ。

「え? 牛丼? やだよ。そんなの。ちょっとムリすれば小遣いでも食えるもん」
「おごってもらうのに、文句言わないの」
「せめてファミレスでお願いします。このとおり!」

 目の前で神様でも拝むように、ナオくんは私にパンパンと柏手を打っている。

「あはは。しょうがないなあ」
「ここからだったら、ほら、国道沿いのファミレス! ちいねえ、あそこでもいい?」
「うん。私はどこでもオッケーだよ?」
「よし。決定! メシ要らないってお袋に電話しよ!」


 ナオくんは私の気が変わるのが心配なのか、慌ててポケットからケータイを取り出した。
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