大人の男女が一夜を共にする。
 そう聞いたなら、多くの人間は、その男女の中に肉体的接触があったと考えるのが普通だろう。
 だけど、オレは急に態度を硬化させたちいねえに戸惑う。
 さっきまでの明るい空気は霧のように消え去って、今、オレとちいねえの間にはピンとした緊張感が漂っている。
 とてもオレとソウイウコトができそうな雰囲気じゃない。

『──── ちいねえ、今夜オレと、一緒に過ごしてくれる?』

 その問いかけに、確かにちいねえは頷いてくれたけど。
 やっぱり、ちいねえにとってみれば、10歳も年下のオレをソウイウ対象として見ること、できないのかな。  
*...*...* 約束 +α2 *...*...*
 オレは郊外まで車を飛ばすと、少し高台にあるシティホテルに向かった。
 行く道々、ちいねえは一言も口を利かなかった。
 いや、話そうと努力はしていたのだろう。
 時折、形の良い唇が何かを言いかけ、そして途方に暮れたかのように動きを止める。

 きっとちいねえの内側にはたくさんの言葉が浮かんでて。
 それがちゃんとした形を成さないまま、消えて行く。
 そしてそんなちいねえを、今のオレはどうすることもできなくて。

 普段のオレなら。
 そして、今、助手席に座っている相手が、ちいねえ以外の誰かなら。
 オレは少しずつ探りを入れては、相手が楽しくなるような言葉を投げかける。
 場を和ませることっていうのは、実はオレの数少ない強みだ、って知っているから。

 ──── だけど。

 今のちいねえと、今のオレじゃ、打つ手がない。  ちいねえの緊張が、見ているオレの方にまでピリピリと伝染してくる。
 今までずっとオレが感じていた年の差が、信じられない。
 まるでオレが15歳の子をムリヤリ襲っているみたいだ。

「着いたよ。どうぞ?」
「うん……」

 オレはちいねえの背を押すと、ゆっくりとフロントに向かう。
 オレの少し前を歩くちいねえの面輪は、食事のとき以上に臈長けて見える。

 さっき、ちいねえは言ってたっけ。
 オレにお礼が言いたくて約束の場所に来た、って。

 少し自虐的だけど、ちいねえはオレのことを好きとか、そういうんじゃないのかもしれない。

 だとしたら、できればもっとちいねえのことを知りたい。もっといえばちいねえを抱きたいと思っているオレと。
 オレの誘いを拒否しきれずに付いてきたちいねえとは、かなり温度差がある。

 どうしたら、いいかな。

「ちいねえ?」
「は、はい!!」
「ははっ。緊張してるの?」

 部屋に入ると、オレは俯いているちいねえの顔を持ち上げて、両の頬を指で摘んだ。
 そして、ウニウニと摘んでいる頬を動かして遊ぶ。

『緊張してるの?』

 なんて、よく言うよ、と自分でも思う。

 だけどさ、こんなときは、オレ、ちいねえの身体のどこかに触れていれば、安心できた。

 ちいねえはオレが5歳のときの夏祭りの話を何度かする。
 ちいねえは、花火を取ってくれと泣くオレや、ヨーヨー釣りの話を楽しそうにするけれど。
 あの夏祭りでオレが1番に思い出すのは、オレが迷子になった記憶だ。
 お袋が張り切って着せた浴衣も、歩きにくさに拍車をかけて。
 はき慣れないゲタを手にオレはベソをかいていた。
 人の良さそうなオバサンが何度か話しかけてきたけれど、オレは口を結んでそっぽを向いてた。
 本当に可愛くない子どもだったと思う。

『……ナオくん! 良かった、見つけた!』
『ちいねえ!!』

 必死にあちこち探してくれたのだろう。
 見上げたちいねえは、息が上がって、浴衣も着崩れたっけ。
 抱き寄せてくれたときの、頬の温かさは今も忘れられない。

 あれって20年も前の話なのに、不思議だよね。
 柔らかなちいねえの頬に触れることで、オレの緊張が溶けていく。

「ナホ、くん? い、いひゃい……」
「あんまりちいねえがおとなしいからさ。オレ、ずっとオレがやりたかったことをやることにしたの」
「へ?」
「よっし。ヘンな顔のちいねえ、その1完成、と。その2は……。どんな顔にしようかな」
「こんなことが、したかったの?」
「こんなことも、だよ。他にもいっぱいあるよ。数え切れないほど、ある」
「ナオくん! えっと、そ、その……。聞きたいの。その、私を……」
「んー。なに? よし、ヘンな顔のちいねえ、その2も、完成、と。次は……」
「その……。わ、私を抱くことも!?」
「は?」

 ちいねえの真剣な目の色に、オレは動かしていた手を止めて目の中をのぞき込む。
 初めて、こんな至近距離でちいねえの目を見る。
 大きくもなく小さくもない、アーモンドのような形の瞳。
 ときどき震えながら風を送るまつげ。
 澄んだ目は、黒というより、優しい鳶色。
 濡れたように輝く瞳には、今、オレだけが映っている。

「そ、その……。ごめん。ナオくんが『ずっとやりたかったこと』って、その、私をその……」
「ふふ。ちいねえ、なんだか言い辛そうだから、オレが言ってあげようか?」
「え?」
「多分……。『オレがずっとやりたかったことの中に、私を抱くことも含まれてるの?』っていう質問だよね。
 だったら、Yesだよ。当たり前でしょ?」

 オレは唯一、俺の手によって形を変えていなかった鼻先に口づけると、そっとちいねえを抱きしめた。

「だけど、いいよ。ムリしなくて」
「ナオくん?」
「言ったでしょ? オレ、ちいねえを抱くこと以外に、ちいねえとやりたいこと、いっぱいあるって。だから、ムリしなくていいよ」
「ごめんなさい! ずっと、言えなくて。わ、私、全然ナオくんの期待に、添えてないの。だから!!」

 ちいねえはようやくそれだけのことを言うと、チカラが一気に抜けたのか、カクンと膝から崩れ落ちた。
*...*...*
「その……。なかなか言い出せなくて。ナオくんが『いっぱい恋愛してきた気がする』って、私のこと。
 10年前、ナオくん言ってたでしょ? 『いっぱい恋愛して、人生勉強しておいて』って。
 全然、そんなこと、ないの。情けないくらい」
「そうだったんだ。……それで?」

 もしかしたら、ちいねえのワンピースにシワが寄るかも? って考えないこともなかったけど、
 オレは急いでスーツの上着だけ脱ぐと、ちいねえと2人、ベッドに横たわった。
 都会の事情なのか、このホテルのベッドはちょっと小さめ?
 だけど、少しでもちいねえと近づいていたいオレにしてみれば、好都合だ。

 オレはちいねえを腕枕しながら、ちいねえの口の動きを見つめる。
 さっきから繰り返していたキスのせいで、今のちいねえの唇には人工的な色味はない。
 ときどき見える白い歯と、柔らかそうな舌は、少しだけオレを落ち着かなくさせたけど、
 それよりも、今のオレは、10年離れていた間のちいねえの話が聞きたかった。

 ちいねえの頬に落ちる髪をかき上げる。
 柔らかな栗色の髪の毛はサラサラと柔らかく、少しだけシャンプーの香りがする。

「ちいねえはそんなことを気にしていたの?」
「うん……。怖い、かな」
「怖い?」
「だって、もうずっとしてないんだよ? 私の方が年上なのに、ナオくんのことリードするなんて絶対できそうにない。それに……」
「それに?」
「ナオくん、ガッカリするかな、って」
「オレが? どうして?」

 ちいねえは髪をもてあそんでいたオレの手を取ると、ふっと片頬に笑みを浮かべた。

「……私、もう、若くないもの」
「ちいねえ」
「今は、私、中学のときのナオくんの気持ちが、少しだけわかる気がする。
 ナオくん、きっとあのとき、10歳の年の差を、想像もつかないほど、大きく感じていたでしょ?
 今は、私がその気持ちを味わってる。想像がつくだけ、余計にね」

 オレはちいねえの手を握り返す。
 そして腕枕をしていた方の腕を、思い切り自分の方へと引き寄せた。

「そんな話を聞いて、オレがこのまま引き下がるとでも思ったの?」
「やっ。な、なに……?」
「そんなちいねえがますます好きになった……。そう言ったら、ちいねえはどうするつもり?」
「ナオ、くん……?」
「大丈夫だよ。オレに任せて。全部」

 オレは背中に付いていたファスナーをゆっくりと降ろすと、ちいねえの素肌に触れる。
 黒いワンピースは、隠していた肩の線を浮かび上がらせる。
 雪のような白い肌は、このまま季節が夏から冬へと変わったら、それこそ透明になってしまうのではないかと思うほど艶めかしい。

 唇から顎を伝って、鎖骨に舌を這わす。
 Sの字にくびれた細い鎖骨は、その下に続く豊かなふくらみをようやく支えている、と言いたげなくらい華奢だった。
 かすかに感じるのは、ちいねえの香り?

 これは……?

 これは、オレが5歳の夏祭りの日、初めてちいねえを1人の女の人として意識した香りだ。

『大事なモノは目には見えないのよ? ナオくんはナオくんの信じる道を行きなさいよ。ほら!』

 大学の頃、親しくなったマサミさんが言ってた言葉を思い出す。
 ──── オレは、ずっと待ち望んでいたモノを今、ようやく手にしようとしている。
 そう思って、いいのかな。

「夢、みたいだよ。ちいねえ。もしかしたら夢なのかな?」
「ううん? 本当、だよ?」
「そう……? 夢の中でもちいねえ、そう言っててくれたからなー。現実かどうか、迷うよ」
「ここに、いる。私、ちゃんといるから」

 胸の頂きを吸い上げると、ちいねえは小さな叫び声を上げる。
 耳が。鼻が。今、目に映る笑顔が、ちいねえがここにいることを伝えてくる。




「……オレ、ちいねえのこと、ずっと待ってたよ。10年間、待ってた」


 ようやくそれだけのことを伝えると、オレはベッドサイドに手を伸ばして部屋の灯りを消した。