「ちいねえ?」
「はい?」
「──── ゆっくり話せるところに行こう? 2人きりで話せるとこ」
*...*...* 約束 +α1 *...*...*
車内にはミントの香りが満ちている。小さい頃から、ナオくんはチョコみたいな甘いお菓子は苦手で、よくミント味のガムをかんでいたっけ。
今もそのクセが残っているのかな。
私の唇の上にも、優しい甘さが残っている。
唇を離して呼吸を整えていると、今度はナオくんの手のひらが頬を覆った。
「ねえ、なにか美味しいモノ、食べよっか。それで、いっぱい話をしよう?」
「話?」
「そう。10年前の今日から、今までの話。ちいねえの10年分と、オレの10年分。2人あわせたら、20年必要かもね」
「20年かー。いいよ? 受けて立つ」
「ははっ。……ちいねえ、なんだかオレの知ってるころのちいねえに戻ったね」
ナオくんはパッと灯りがともされたように笑う。
それは10年前に見たナオくんそのままで、今のナオくんに馴染めなかった自分を少しだけ、元気づけた。
──── 本当に、本物のナオくんなんだ……。
「あの! 10年前のこと、本当にごめんね。
私、あのとき余裕がなくて。落ち込んでばっかりで。ナオくんが心配してくれてるなんて想像してもいなくて!」
「全然? 10年前のオレは、オレが勝手に心配していただけでしょ? ちいねえが謝る必要はないよ」
ナオくんは私の額に口づけると、再びギアを入れ直してアクセルを踏む。
そして、独り言のような小さな声でごめん、と言うと、私の手をギアに乗せ、その上に自分の手を重ねた。
「……オレ、もっとちいねえのこと、よく見たい。こんな暗いところじゃなくて。
車って今まで便利なモノ、っていう考えしかなかったけど、ちいねえが乗ってると不便なこともあるって今、分かったよ」
「はい? 不便?」
「うん。だって、ちいねえの顔を真正面から見ることができないでしょ?」
「私、全然変わってないよ……?」
言いかけて、口をつぐむ。
私が『変わってない』っていうのは、主観的な、そして希望的な思いであって事実じゃない。
ナオくんが、15歳から25歳になったように。
平等な時間は私の上にも流れていて、私は、25歳から35歳になった。
人の精神年齢というのは一体何歳で成熟期を迎えるのかはわからないけれど。
そして、『私』という人格は、10年前となにも変わってない、って思っているのに。
『年齢』というラベルは、毎年のように私の入れ物を貼り替える。
私は……?
ナオくんから見たら、10歳年上の今の私はどんな風に見えるんだろう。
ナオくんは私たちの街の郊外にあるレストランに車を停めた。
レンガ造りの建物は、壁を覆うツタが厳かな風格を見せている。
「お袋からのクチコミ。結構美味しいモノ揃ってるって」
「ありがとう……。こんなお店があるなんて知らなかったよ」
「ちいねえも? オレも。高校を卒業して以来、ずっとこの離れていたから」
ナオくんは幼いときのままにさりげなく私の手を取ると歩き出した。
いつもちょこちょこと私の後ろを付いてきて。
振り返れば、私の顔のずっと下にナオくんの顔があって。
なのに、今は、全部逆になってる。
私の手を引くナオくん。
見上げるのは私の方だ。
「2名様ですね。こちらへどうぞ」
想像よりずっと格式が高そうなお店の雰囲気に、私はウェイターさんにイスを引いてもらうことさえギグシャクしてしまう。
どうしよう……。
ナオくんにお礼が言えたら、いい。
ううん、もっと言えば、私、ナオくんと会えるなんて、ほとんど考えてなかった。
自分の着ている服を見下ろす。
飛行機の中でも身体が楽なように。そう思って選んだモノは、黒のワンピースだった。
どうしよう。……アクセサリーとか、何1つ付けてない。
私の中で唯一光る場所と言ったら、2日前につけたベージュのマニキュアだけだ。
真っ直ぐ見つめることが恥ずかしくて、私は伏せ目がちにナオくんを見る。
テーブルの上には、清潔そうな手と、ベージュとエンジのストライプのネクタイが見える。
ナオくんはメニューに目を落とすと、1番最初のページに書かれていたコースを2人分頼んでいる。
そして2人きりになると改めてじっと私に目を当てた。
「ちいねえ。……ほら、もっと、顔見せて?」
「ね、ねえ。ナオくんは恥ずかしくないの?」
「恥ずかしい? どうして? ……わからないな。ちいねえの顔を見るのが恥ずかしいことなの?」
「その……。ナオくんが恥ずかしくなくても、私は恥ずかしいの!
そう、そのね、そうだ、私は、ナオくんみたいに器用じゃないもん」
ようやく私の気持ちが伝わったのか、ナオくんは耐えきれなくなったかのように吹き出した。
「ナオくん、そこで笑わない! わ、私、真剣なんだから!」
「……了解。じゃあ、ゆっくりオレに慣れていって? そんなちいねえを見ながら、オレも楽しませてもらうから」
ウェイターさんが、前菜から始まって、サラダ、スープとテーブルにサーヴする。
心なしか、口元が笑っているように見えるのは、わ、私が、オロオロしすぎてるから??
私は前菜の皿を手前に寄せると、今日初めてナオくんの顔を明るいところで見つめた。
その途端、ナオくんの視線にぶつかって、また視線を落とす。
どうして……?
どうして、ナオくんはそんな優しい目で私を見ることができるんだろう。
私はエイっと、アボガド色のテリーヌをフォークに載せた。
「そうだ、私の仕事の話……。転職の話とかドイツの話、聞いてもらったから、今度はナオくんの話、聞かせて?」
「オレの?」
「うん。この10年ね、ナオくんにとってこの10年はどうだったかなあ、って。聞きたいな」
「……言ったでしょ? オレのこの10年はすべてちいねえに向かってた、って。
いや、ちいねえの分身がオレの中にいた、って言えばいいのかな」
「分身?」
「そうだね」
ナオくんは相づちを打ちながら話し続ける。
「以前、『中庸』って言葉、教えてくれたでしょ? あのとき思ったんだ。人にわかりやすく伝えるってすごく大事だな、って。
ちいねえがオレにいろいろ教えてくれたように、今度ちいねえに会ったら、オレ、
どんなこともちゃんと自分の言葉で説明できるようになりたいって思ったんだよ」
「そうなの?」
「うん。これって、勉強する上ですごく有効な考え方だった。自分の内側の理解が深まるからね」
ウェイターさんが気を利かせて、金色のワインを私とナオくんに注ぐ。
ナオくんは気持ちの良い笑顔でウェイターさんに車で来たことを告げている。
ゆったりとした手の動き。ウェイターさんに対する目配せまで。
ナオくんは態度はとても大人びていて、ふと私が10歳も年上だ、ってことを忘れてしまいそうになる。
「えーっと、ちいねえと離れてた10年か。
高校3年。大学4年。これで、えっと、7年でしょう? それに、社会人になって3年。こんな感じだよ?」
「そ、そうだ。その……。その、付き合った人、とか」
「いたよ。それなりにね。今はフリーだけど」
「そ、っか」
「ねえ、オレのことより、ちいねえだよ! ちいねえは? いっぱい恋愛した?」
ナオくんは持ち上げたグラスを再びテーブルに戻すと、目を輝かせて聞いてくる。
その様子が、まるで昨日のドラマのあらすじを聞くような、からっと明るい尋ね方で、
私はなんだか、急に肩の強ばりが溶けたような気がした。
「さっきもオレ、言ったと思うけど、ちいねえ、すっごくいい女になってるから、いい恋愛もしてた、って気がする。なんかちょっとクヤしいけど」
「そう? ……ありがとう」
私はそっとフォークをテーブルに置くと、曖昧に笑う。
ナオくんと『約束』をしてから10年。
この10年は私にとってどんな時間だったんだろう。
ナオくんと会った10年前のあの日が、私にとって転機になったのは確かだと思う。
年下の、小さな男の子。
25歳のOLと、15歳の中学生。
そんな年下の幼馴染みに、心配をかけるのはイヤだ。そう思った。
勉強。転職。それに続く海外での暮らし。
私が深く付き合ったのは、あの亡くなった彼だけで。
『いい恋愛もしてた、って気がする』
っていうナオくんの期待とは全然違う生き方をしている。
ふと見ると、ナオくんは出された料理に手を付けないで、水ばかり飲んでいる。
「あれ? ナオくん、料理食べないの?」
「まあ、ね」
「美味しいよ、鯛、かな? マリネになってる。ナオくん、マリネ、好きだったでしょ?」
子どもの頃からやや大人っぽい味が好きだったナオくんは、お酒のツマミのようなおかずを好んで食べてた。
皿の上、小さなバラの花が点在しているようなマリネは芸術の域だと思う。
隠し味のブラックペッパーが利いてて、ナオくん、好きそうだと思うのに。
ナオくんはグラスの水を飲み干すと、照れたように笑った。
「これでも、ちいねえを前にして一応緊張してるの」
「ナオくんが? 意外だ」
飲みやすいワインのせいか、いつもより唇が滑らかに動く。
ナオくんは一瞬目を細めたあと、私の手を取って言った。
「──── ちいねえ、今夜オレと、一緒に過ごしてくれる?」