「わわ、って、ちいねえ、それ、砂糖じゃなくて、塩! 塩だから」
「え? あ、ごめん! 間違えた」
「ははっ。塩味のアップルパイか−。オレ、初めて食べるかも」
*...*...* Pie 1 *...*...*
ちいねえが日本に戻ってきてから2週間。オレは自分のアパートにちいねえを誘うと、2人して、アップルパイを作っている。
これは先月ヴァレンタインだと言って、空港便で送られてきたチョコレートのお礼。
初めてのホワイトディだ、ということで、オレはいろいろなプランをちいねえに伝えたけれど。
ちいねえの1番のリクエストは『2人で過ごすこと』。
もちろんオレに異論はなかった。
ちいねえは、今まであまりお菓子作りには興味がなかったらしい。
オレの言われるままに、ボールに卵を割り、丁寧にかき混ぜ、皿を洗い、リンゴをバターで炒めている。
レーズンと、レモンの酸味、それに、ラム酒の香りが部屋中に広がる。
約束から10年目の夏、オレたちは再会した。
だけど、再会できたから、すべてがオールオッケイ、というワケではなかった。
なにしろちいねえは、この約束のために帰国してきただけだったし、その後オレとどうする、ということまで考えが及んでなかったらしい。
オレはと言えば、会社には家の都合で3日休む、と言っていただけだったから、どうしたって職場に戻らなければいけなかった。
ちいねえと一緒に暮らすために、職場を捨てて、日本を飛び出す。
そんな無鉄砲な計画を実行に移すには、今のオレはいろいろなことを知りすぎていた。
『オレとちいねえが近くにいるためには、オレは何をしたらいいかな?』
『ナオくん、本当に? 本当に、私たち、その……、付き合うの?』
『もちろん。オレはそのためにできる限り手は尽くすし、ちいねえも覚悟を決めてくれると嬉しいな』
『覚悟?』
『そう。……オレと付き合う覚悟。そうだ、年上だとか、若くないとか言いっこナシだよ? そんなの、もうずっと前から知ってることだし』
ちいねえを初めて抱いた夜。
ベッドの上、オレは再びちいねえの上に乗ると、剥き出しになったままの肩を甘噛みした。
最初の彼と別れる前、ちいねえはオレにとって、ふっくらとした身体と、はちきれそうな笑顔を持った憧れのお姉さんだった。
オレの目線はちょうどちいねえの胸の位置。
どうしたって視界に入るふくらみは、ある夜、オレをひどく息苦しくさせ、オレ自身の熱を解き放った。
あのときのふくらみが、今、オレの手の中に収まる。
指の間、堅さを増した朱色の先端が見え隠れしている。
オレはツンと腫れ上がった先端を、すっぽりと唇で包むと舌でころころと転がした。
おかしいの。
ちいねえと居ると、オレ、本当に今まで考えたこともなかったことを思いつく。
こんなとき、オレの口が2つあればいいのに、なんてさ。
2つあれば、ちいねえの左右の先端を交互じゃなくて、同時に可愛がることができるのに、って。
生物学上、遺伝子上、人間の進化の過程の中で、『口が2つ』必要なんていうシチュエーションはなかった。
そう考えるのが妥当だろう。だから、人間には当たり前のように1つの口が顔にある。
だけど、ほんの少しでも、真剣に女を愛したことのある男なら、1度くらいは思ったことあるんじゃないかな。
手が2本あるのが当たり前のように、彼女を愛する唇がもう1つあればいいのに、って。
『んっ。やだ、私……っ』
『ふふ、こんなに背中、しならせておいて、イヤなの? ちいねえ』
『だって、また、シーツが』
『濡れるのが、心配?』
これ以上なく顔を赤らめて、ちいねえは頷く。
そっか、さっき、頑なにオレが横になる場所を気にしてたのはそのせいか。
『そっかー。……じゃあ、ふさげばいいの?』
『はい? ふさぐって……?』
『それとも……。全部、オレが舐めちゃえば、いい?』
オレはちいねえの脚の間に身体を滑らせると、彼女の膝裏をオレの肩に載せる。
とたんにちいねえの身体がこわばる。
甘い匂いのする秘部が、目の前に広がる。
淡いピンク色の朝顔の上に朝露が載ったような光景に、オレは自分のしようと思っていた行為も忘れて、ただ、見入った。
小さい頃から。離れていた10年間もずっと。
生まれたままの姿のちいねえはどんな風だろう、と想像したことはあったけど。
想像よりも、儚げで、美しくて。
オレの身体に、こんなにもしっくり馴染む身体を持ってるなんて、ちいねえはズルい。
『ナオくん、もう、やだ……っ』
身体をよじろうにもよじれない状態に、ちいねえは悲鳴を上げる。
『やだ? どうして?』
『は、恥ずかしいから!』
『へぇ……。まだ恥ずかしいって思う余裕あるんだ?』
オレは鼻先でちいねえの感じる突起を覆っている扉を開くと、ぺろりと尖端を舌でつついた。
『ちいねえは、感じることだけ、考えて?』
「……ナオくん? ……ナオくん!!」
「……あ、ごめんごめん。ぼーっとしてた。あ、ちいねえ、もう、アップルパイのフィリング、できたの?」
「うん! バッチリだよ。ナオくんは? パイ生地、できた?」
「うん……」
「どうしたの? ぼーっとした顔してるよ?」
ちいねえはパイに入れるフィリングが上手に出来たのが嬉しかったのだろう。
少しだけ皿に盛りつけ、『味見、して?』と寄ってくる。
ちょっと柔らかめのように見えるけど、これは冷めたら、ある程度固まるから問題はない、か。
ちいねえは、ちょっとオレを見上げた後、ふとオレの額に手を当てた。
「ナオくん、熱はないよね?」
オレはちいねえの持っている皿をテーブルの上に置くと、そのままオレの腕に抱え込んだ。
8ヶ月前、少女のようなおかっぱだった髪は少し伸びて、今は肩下を覆っている。
ちいねえだったら、どんな髪型でも似合うと思うけど、オレは、今みたいな少し長めの髪がいい、って思う。
髪が長い分、ちいねえの香りもたくさん感じられる。
「ごめん。オレ、この前の夏、ちいねえを抱いたときのこと思い出してた」
「は、はい!?」
「あのときのちいねえ、可愛かったなあって。……今日もいっぱい抱きたいなあって」
「わーーー。な、なし! 今、言いっこ、なし!!」
必死になって反論するちいねえの唇を、親指で塞ぐ。
キスしてもよかったけど、それだと今のちいねえの表情がしっかり見えないからね。
「──── これから先、ちいねえはオレの近くにいてくれるんだよね?」
「……うん」
「オレの近くで、仕事見つけてくれたんだよね」
オレはずっとちいねえのことを思ってきたし。
ちいねえがかまわないなら……。そして、ちいねえのお父さんとお母さんも、賛成してくれるなら。
オレは、一気に結婚という形を取ってもいいと思っていたけど。
ちいねえは、8ヶ月前の夏に約束してたとおり、ドイツでの仕事を切り上げ、こうして新たにオレの近くで仕事を見つけた。
与えられたこと以上の業績を上げた優秀な社員だったのだろう。
ちいねえを手放すことを惜しんだ社長が、今度の就職先にもいろいろ骨を折ってくれたらしい。
この不景気に、あっさり仕事を見つけるちいねえは、さすがって思ってしまう。
「ちいねえ……」
ずっと待ち望んでいた身体がオレの腕の中に収まる。
うー。ちいねえに触ってたら、どうにも抱きたくなってきた。
だけど、パイ生地っていうのはちょっとした貴婦人みたいにひどく機嫌に気を遣う。
パイ生地に遠慮して、せわしなくちいねえを抱くのはイヤだ。
ちいねえにも思い切り気持ちよくなってもらいたいし、オレもたっぷりちいねえを感じたい。
ここは、手際よく貴婦人をオーブンに入れてしまえ、って感じだ。
オレはちいねえの額に口づけると、ちいねえから自分の身体を引きはがす。
「よっし、じゃあ先にアップルパイ、作っちゃおうか。フィリングもちょうど冷め頃だし」
「うん! ナオくん、お菓子作り、趣味だったの? すごく手際がいいよね」
「んー。まあ、ね」
会話の端々に出る、オレたちが離れていた時間の話。
ちいねえの知らないことを知って、嬉しいと思うオレがいるように。
ちいねえが、オレのことを尋ねてくれるってことは、ちいねえもオレのことを知って、嬉しいって感じてくれているのかな。
だったら、いいけど。
「学生の頃っていろんなバイトがあるでしょう? ちいねえもバイト、してた?」
「え? うん……。家庭教師を何人か、やったかな」
「オレもいろんなバイトしてたんだ。時間もあったし、欲しいモノもあった。オカネも欲しかった。
それに、将来の職業を決めるのに、いい経験になるかな、っていうのもあった」
「うん……。それで?」
ちいねえはオレの話に引き込まれるように手を止めて、オレの顔を見上げる。
オレはルーラーで、1.5センチ幅に生地を切ると、キレイに取れた部分をそっと脇に取り分ける。
これは仕上げに使う中央部分。
残念だったところは、縁の飾りに使い回す。
焼き上がったときに塗るジャムは、アプリコットがメジャーだけど、意外にもベリー系のジャムも美味しかったりする。
あとでどっちがいいか、ちいねえに聞いてみよう。
「オレの大学の近くに、喫茶店があったの。たいしたことない、偏屈屋の親父がやってる、普通の喫茶店だよ。
近くにチェーン店がどんどん出来て、そうだなー。今日は客、入ってるのかな、って心配したくなるような喫茶店」
そこを通りかかったある日。
俺の父親より年を取った親父さんが、よくありがちな三角形のショートケーキを1個1個ゴミ箱に押し込んでいた。
今にも泣きそうな、それでいて、厳しそうな、そして寂しそうな。
オレはあんなに複雑な表情を浮かべた人間を見たのは初めてだったと思う。
視線を感じたのか、親父さんはノロノロとオレの方に顔を向けた。
『……なんだ?』
『す、すみません! 見てて、すみません。なにをやっていらっしゃるのかなあ、って。ごめんなさい』
『別に気にするなよ。お前は関係ない』
親父さんはオレに気遣うように口元だけに笑みを浮かべながらゴミ箱のフタを閉めた。
それからというもの、その店が気になってオレは何度かふらりとその店に立ち寄った。
いつ行っても、親父さんは手持ちぶさたにカウンターの奥に引っ込んでたし、客らしい客もなかった。
だけど、ドアを開けた瞬間に感じる強いコーヒーの香りは、燻された室内の雰囲気に似合っていた。
「何回目の時だったかな……。店に行ったら、親父さんが言うの。
『兄ちゃん、ケーキ作ってみるか?』って。驚いたよ〜。だってさ、お菓子なんてそのときまで作ったことなかったから」
ケーキ屋の親父さんとオレとの奇妙なレッスンは、かれこれ1年以上続いた。
細々と経営しているとはいえ、昔からの馴染みの客もあったのだろう。
店は潰れることなく、親父さんは朝になると丁寧に看板を拭き、外に出し。
昨日のうちに仕入れておいたコーヒー豆を丁寧に挽いた。
大学を卒業するとき、この場所を離れること、しばらくは会えそうもないことを告げると、
親父さんは棚の奥から、このパイ皿とパイカッターを取り出した。
『今まで、ありがとさん。ナオ。これ、餞別。こいつらもお前のそばがいいってさ』
『親父さん……』
『またいつでも来いや。頑張って店、続けてるからさ』
オレが就職して3年、か。
だとすると、もう3年、親父さんとは会ってないことになる。
そうだ。今度、ちいねえを連れてあの店に行ってみようか。
……不思議だな。今まで、誰も連れて行きたい、って思ったことはなかったのに。
ちいねえだけは、違う。
今までオレに良くしてくれた人たちに引き合わせて、自慢したい気がするんだ。
オレ、まだ25年しか生きてないけど、こんないい人たちに会えてたんだ、って。
そしてそんな恩人のような人たちに、ちいねえのことも自慢したい。
オレの、ずっと好きだった人だ、って。10年ぶりに会って、もっと好きになった人だ、って。
「よし、できた、っと。あとはオーブンに入れて、35分、と。温度も、オッケイ、っと」
「ナオくんすごい……。こんな上手にできるなんて。お店に並んでいる商品みたい!」
ちいねえは胸の前でパチパチと手を叩いている。
白いシンプルなシャツ。ほっそりとした腰に巻き付いている、ベージュのカフェエプロン。
あんなに大きい、って思ってたちいねえが、自分の目線の下でちょこちょこと動き回っている様子は、見ていて可愛い。
……35分か。
アップルパイは冷めても美味しいお菓子だけど、やっぱり焼きたては焼きたての価値がある。
今、ここでちいねえをベッドに誘ったら、とても35分で終わる気がしない。
だとしたら、今のオレは辛抱の時、なのかな。
「あ、あれ? 電話? ごめんね、ナオくん。ちょっと待ってて」
どこかで低い呼び出し音がする、と思ったら、それは部屋の隅に置いてあるちいねえのカバンから。
ちいねえは慌ててカバンに駆け寄ると、白い携帯を取り出した。