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 夏休み初日。朝10時。ぼくは小さな手荷物を片手に校長先生の部屋のドアをノックした。

「おはようございます。ミュラー校長」
「おお、おはよう。オスカー」

 ベッドの上の彼は、一時のことを思えばずいぶん顔色も良い。 夏休み明けは今までどおりミサにも参列するというアルツト(学校医)の見立ても、この調子なら大丈夫だろう。

「ミュラー校長。ぼく、しばらくの間、旅に出ます」
「ほう……?」

 礼儀正しく挨拶したつもりなのに、彼の眉間は一瞬苦しげに歪む。
 そしてそれをぼくに気づかれないようにとわざと大きく目を見開いて、窓の外に目をやった。 校長室から見える杜の木々は、昼間でも大きな木陰を作るほどうっそうと茂っている。 ぼくは深夜の杜を想像する。この世のなにもかもが動きを止める真夜中、 妖精たちは笑いながら木の枝先を引っ張っている。 その夜、一番たくさん枝を伸ばすことができた者は勝者として名誉と祝杯を受け取るんだ。

「そうかね」

 ミュラーは小さく頷くと、再びぼくに目を向ける。彼の微かな揺らぎのようなもの。感情の起伏。 それらにぼくはいつまで気づかないふりをし続けるのか。 ──── いつかぼくは彼のことを『父』と呼べる日が来るのだろうか。
 ぼくは内側の声を振り切るように軽くかぶりを振ると、まっすぐに彼を見つめて言った。

「ボンとボーデンに行ってこようと思うんです」

 彼は行き先を聞いただけで、瞬時に多くのことを察したのだろう。 何度も自身を納得させるかのように頷くと、弱々しい微笑をぼくに向けた。

「ユーリ。……ユリスモール・バイハン。……誰よりも一番、まっすぐな道を歩いて欲しいと 願っていた生徒の一人だ。 どうぞよろしく伝えてくれたまえ」

 ぼくは軽く一礼すると、来たとき同様、静かにドアを閉める。 ヴィースバーデンからICE(特急)を乗り継いでボンまでは6時間。乗り継ぎが上手く行けば、なんとか夕食の時間に間に合うだろうか。
 ──── ねえ。ユーリ。きみに会えなくなって、2ヶ月と少し。 会えない時間は、ずっとぼくが会いたいと願っていた時間だったよ。  
*...*...* ずっと先の未来に (1/4) *...*...*
「やれやれ。やっと到着か。ヒッチハイクの方が早かったかもしれないな」

 ぼくは腕を肩上に突き上げて大きく一回伸びをする。待ち合わせの時間から30分の遅刻だ。 最近は燃料不足、ということもあって、カールスルーエに到着したときから多少列車の遅れは出ていたけれど、 なにも今日という日に遅れることもないだろうに。ぼくは列車から飛び降りるとユーリとの待ち合わせ場所へと走った。 8レーン。改札の柱時計前に19時。 律儀なユーリのことだ。遅れるなんてことはありえない。
 きみがボンの神学校に行ってから2ヶ月。この時間は、彼の上にどんな変化を与えただろう。
 ぼくはそわそわと周囲を見渡す。夕方の雑踏は、通勤帰りの人たちでごった返している。 彼はそんなに大柄じゃない。物静かで穏やかだ。だけど、彼の立ち姿は誰よりも清潔感があるはずだ。

(あれは……?)

 待ち合わせ場所には、すんなりとした立ち姿の男が立っている。 小さな襟のついたクリーム色のシャツに、マントのような黒い上着を羽織っている人が一人。ユーリなのか? 黒い髪。俯いていてもわかる端正な目鼻立ち。
 ぼくの駆け出す足音に、彼は書物から顔を上げると、ぼくの顔を認めて笑った。

「オスカー!」
「ユーリ。……やっと。……やっと会えたね」
「ああ。きみは、元気そうだ」

 軽いハグを交えて改めて彼を見つめる。
 初めて出会ったときと変わらない、優しげなまなざし。笑みをたたえた口元に、 ぼくが感じていた不安が瞬時に溶けていく。
 ともすれば火花が散りそうな鋭さも、人を射るような鋭い視線も今は無い。
 彼はぼくの手荷物を持ち上げると、こっちだよ、と、木立のそびえ立つ一角を指さした。 夕闇が迫る中、ユーリの指さす先の屋根には銀色の十字架が光っている。

「どう? 神学校は。新しい環境に少しは慣れた?」
 
 この数ヶ月の間の手紙のやりとりで、ユーリが学んでいる神学校の様子はいくつか聞くことができた。 その中で一番ぼくが気がかりだったのは、ユーリを取り巻く人間関係だったといってもいい。 庇護欲なのか? それとも独占欲? どちらもしっくりこない。 ただユーリをユーリが傷つくあらゆることから守りたいだけ。 いろんな言葉がぼくの中を駆け巡ったけれど、どの理由もぼく自身が納得できるものではなかった。
 別にユーリはぼくの庇護が要るほど弱い人間じゃあない。 ほかの男が言い寄ったとしても自分の意志で、はねのけることだってできるだろう。
 ただ、ぼくは、トーマの死後、エーリクと出会って、変わった彼を見てきた。
 神に懺悔し、神に仕え。自己の内側の屈託を昇華した彼は、どんなに魅力的に映るか、想像に難くない。 自分自身がそんな存在であることを知らない彼を、男ばかりが集う場所に入れたら、どんなことになるのか。 ぼくは、ぼくと一緒にいた日々がユーリの中で、過去の色あせた写真のようになってしまうのが怖かった。

「エーリクは、どうしてる?」
「シドと一緒にボーデン」
「きみも誘われたの?」
「ああ、まあね。きみとゆっくり過ごしたあと、ボーデンに招待されている。 でもね、今は、ユーリ、きみのことが聞きたい。神学校はどんな感じ?」

 もともとユーリはサイフリートの一件がある前は、委員長という立場にふさわしい人間だった。 勤勉で誠実で。誰もがユーリを慕い、またユーリもその信頼に応えていた。
 サイフリートとの夜。トーマの死。そして、無邪気な、トーマそっくりのエーリクの愛を経て、 ユーリは少しずつ本来のユーリに戻ろうとしている。  そんな彼なら。今の彼なら、人の好意を素直に受け入れる土壌ができていると思えたからだ。
 多分……。ぼくは想像する。
 新しい環境で、彼は新しい校友を作っている。それもかなり親しい友人だ。 その事実は嬉しい事実であると同時に、ぼくを少しだけ落ち着かなくさせた。
 ユーリは少しの間ぼくの質問について考えたあと、神学校の大まかな生活形式について話し始めた。

「この神学校の授業体系は、大体シュロッター・ベッツと変わらない。 生徒全体を5つの学年に分けて、神に関わる勉強に励んでいる。 もっとも、一旦職に就いてから、神学校を目指す人もいるから、 年齢層は幅がある。今は、僕が一番下で、一番上は29才、だったかな。 神の御名の下に、みな勉学に励んでいる」

 彼は自分の部屋を案内してくれた。4人部屋の一角。東南の位置にユーリの場所があった。 本棚。クローゼット。その上にベッドが配置されている彼の場所は、 几帳面な性格を反映して、いろいろなものが心地よく配置されていた。

「今は、こんなことを勉強している」

 ユーリはぼくの方に時間割を向けて話を続ける。

「なるほどね。宗教史、文学史、経済論に、古代ラテン語、か」
「シュロッター・ベッツで学んでいたことのうち、文系の学問を深く、理系の学問を浅く、と言ったらわかるだろうか?」
「ああ、まあね。それにしてもきみと実験の準備をしていたころが懐かしいよ」

 ぼくが知っている限り、優等生のユーリには苦手な教科というものが存在しなかった。 苦手という言葉は彼に一番似つかわしくなかった。 もし仮に彼の人生の中に苦手という存在が生まれたのなら、 彼は自分でも無意識のうちにその苦手を克服するだろうし、 克服できないとわかったなら、そのときは静かにその存在を土の中に葬るだろうと思えたからだ。

「きみのことだから、きっと成績も良いのだろうね」

 優秀で、勤勉で、努力家。元々備わった資質に、努力するというさらなる資質を持った希有な生徒。 それがぼくの思うユーリそのものだった。 その背景に加えて、今は、気に病んでいた事象が取り払われたのだ。 彼の成績がよくない、といえる根拠が一つも無い。

「もう、前期の成績はついたんだろ? 見せろよ」
「あ、オスカー!」

 ぼくは机の上に置かれていた細長い紙に見当をつけて手を伸ばす。そしてその内容を見て絶句した

「って、委員長。きみ、まだここに来て2ヶ月だろう? これじゃいくらなんでも……」
「範囲が決まっている試験というものは、たいして難しいものではないからね」

 ユーリはぼくからその紙を取り上げるのをあきらめたのか、肩をすくめて笑った。 すべての教科において、彼は一番の成績を修めていた。
*...*...*
「この寄宿舎の奥にゲストルームがある。そこを2日間予約したよ。簡単に食事もできる。行こう」

 20時を少し過ぎた初夏のボンは、少し肌寒さを感じる。廊下越しに見る空は、降るような星空だ。

「って、ユーリ。これ、きみが用意してくれたの?」

 L字型にゆったりと配置されたソファ。 真ん中にあるテーブルの上には燈台と2本の蝋燭。 窓から見える夜景を配慮してのことだろう。ゲストルーム全体は薄い闇が覆っている。
 西の空に張りついている銀色の三日月が、ぼくたち2人の影を作っている。
 テーブルの上には、この地方独特のブルーチーズ。それにサラミ。クラッカー。 ボイルしたウィンナーと粒マスタードは、ぼくの好物だった。

「そうそう。これ、ちょっと前にミュラー校長からもらったんだ」

 ぼくは鞄の中、一番場所を占領していたあるものを取り出すと、テーブルの上に置く。

「ワイン?」
「ベーレンアウスレーゼ。きみのバースイヤーの逸品モノらしいよ」
「校長先生が?」
「意外だろ? 彼もきみを恋しがっていたよ。 ──── 誰よりも一番、まっすぐな道を歩いて欲しいと願っていた生徒だ、ってさ」

 心臓を病んだミュラーは、ここ半年でずいぶんと年老いた。 アルツトはこれはぼくのせいではないし、誰のせいでもない。 強いていえば彼自身のせいなのだ、と何度もぼくに告げたが、 日々、ぼくの中の残り時間が短くなっていくような焦りのような不安があるや

「校長先生には結局最後は会えずじまいだったけど、調子はどう?」

 心配そうに眉を落として言うユーリに懐かしさを覚えながら、ぼくは目の前のグラスに金色の液体を注いだ。 ユーリは考え込むようにしてグラスとぼくを見比べている。

「ああ。彼の容態はまあまあ、というところかな。なにしろぼくが優等生になったから」
「オスカー、本当に? 冗談ではなくて?」

 ぼくの言葉にユーリはあどけない笑顔を向ける。

(……不意打ちだよな)

 ずいぶん見ていなかった、そのなんの不安もない笑い方に、ぼくはこみ上げてくる喉の奥の塊を無理矢理飲み込んで笑顔を作る。
 やっと……。やっと。
 きみは、そんな風に笑うことができるようになったんだね。 ぼくは、きみの力にはなれなかったんだ。 きみに、気づいて欲しい。ずっとそう思っていたけれど、 きみを救ったのは、きみのことなんてなにも知らなかったトーマで。エーリクで。 きみのことを一番よく知っていたぼくは、きみの助けにはならなかったんだね。
 ワイングラスを持ち上げたぼくに、ユーリは四角四面な反応を見せる。

「オスカー。ぼくは、今は神に仕えるための勉学に励んでいる身なんだ。アルコホル類を飲んではいけない、という規律があるわけじゃないけれど」
「かまやしないさ。そんな規律なんて、友人との再会を理由に反故にできる。再会に、乾杯」

 ぼくはユーリに微笑み返すと、強引に彼にグラスを持たせて交差させた。薄いワイングラスは乾いた硬質な音がする。
 ──── いいんだ。これで、いい。ぼくは、これでいいんだ。
 薫り高い金色のワインと、ユーリとぼくの穏やかな時間。 なによりもユーリの穏やかに微笑む頬を見ていられることがなによりのごちそうだ。
 ユーリは初めて出会ったころの彼と少し似ていた。一度枯れたように痩せて細くなった身体は、今度はふたたび成熟という肉をまとったように、見ている者を安心させた。
 ぼくの顔を見て屈託なく笑う。エーリクの話をしてもその態度に変化はない。 でもぼくはいくつかの地雷を踏まないように慎重に話を進める。トーマのこと。サイフリートのこと。
 聞きたいと、思った。ぼくはぼくの想像の中で、苦しむユーリを見たくないと思った。 エーリクからの伝聞じゃない、ユーリの口から真実が知りたいと思った。だけど、事実を話すことでまた同じ苦しみを味わうであろうユーリを見たくないとも思った。

(結局ぼくは、待つことしかできない)

 甘みが強いこのワインはユーリの口に合ったのだろう。ぼくに進められるままにグラスを空けたユーリの目元が薄赤くなっている。

「ぼくは……。その、感謝しているんだ。オスカー、きみがここまで来てくれたことについて。そうは見えないかもしれないけれど」
「きみが気にすることはないよ。ぼくがわかっていればいいんだから」

 ユーリは一瞬目を見開いたあと、またふっと視線を膝に落とした。ぼくは彼が口を開くのを待つ。
 彼が発する一つの言葉。そのうしろには30の声にならない言葉があって。そのうしろには300の感情がある。だから、ぼくは待つ。きみがすべて吐き出してしまえる日まで待つ。
 目の前の料理の皿はあらかた無くなっている。皿に残った粒マスタードが手持ちぶさたにこっちを見ている。
 ユーリは意志を持った目でぼくを見上げた。
 
「──── あの夜。校長先生が倒れて、きみと一緒の時間を過ごした夜、きみは 『待ってた』って言ってくれたね。その言葉は今も有効?」
「ユーリ?」
「その、ぼくは、きみの望むことをしたい。きみの聞きたい、と思うことを話したい」
「それって……」
「あのときは、何よりも早く神の御前で告白したいと思っていた。告白しなければ、自分の周りの空気がなくなりそうだとも思っていた。決心をしてから1日後にはシュロッター・ベッツを出た。 やんちゃなエーリクには少しだけ話す時間が取れたけれども、きみとは話す時間もなかった」
「ねえ、ユーリ。ぼく、きみの隣りに行っても?」

 L字型に離れて座っている今は、彼の言葉は届いても、彼の温度は届かない。 でもぎりぎりのところで自制する。彼がうなずくまでの時間が、どれほど長く感じられただろう。
 ぼくは少しずつユーリとの距離を縮める。そして、薄赤く色づいている頬に口づけた。

「親愛の情のキス」
「き、きみは……」
「ああ、柔らかすぎると言いたいのだろう? きみは逆に堅すぎる。 神学校とはいえ、十代の男ばかりが集うんだ。きみだってキスの1つや2つ、経験しているのだろう?」

 ぼくの問いかけに、ユーリは薄闇の中でもわかるほどに かっと頬を赤らめた。
 聖堂の絵のようだと言われるユーリ。端正な顔がほのぼのと染まっていくさまは、ただただ美しくて、 ぼくは、ユーリが別の男の下に組みしだかれていることを想像して嫉妬する。 自分の妄想を口にした自分をなじりたくなる。ぼくはユーリの手を取った。

「トーマのことや、あの夜あったこと……。エーリクにはいくつかのことを話したけれど、 ぼくは最後まできみに話をすることがなかったね。 でも、きみがもし聞いてくれるというのなら、聞きたい、と言ってくれるのなら、ぼくは……」
「方法は、あったんだ」
「オスカー?」
「きみ、エーリクにはトーマやサイフリートのことを話したんだろう?  だから、ぼくはエーリクからきみのことを聞き出すってこともできたんだ。 でもぼくはそうしなかった。そうしたくない、と思ってた」

 サイフリートという言葉を聞くやいなや、ユーリの瞳が追い詰められたような兎のように熱く潤んでいく。

「ぼくはきみの口から聞きたいって思ってた。一生聞く機会がないのなら、 それはそれで仕方ないって思ってた。 聞かなかったからといって、ぼくのきみへの思いが変わるわけでもないしね」
「オスカー、きみは……」

 ぼくの手の中、握りしめた彼の手がぴくりと震えている。
 あのときあった真実を、知りたいというのは事実だ。 だけど、知りたいと思う以上に、ユーリを苦しめたくない。 未来へ一歩踏み出したきみを、過去に引き戻すようなことはしたくない。
 手の震えは続いている。ぼくはユーリを抱きかかえると、耳元に口づける。 南国の花のような、一度知ったら誰しも逃れられないであろうユーリの香りが鼻孔をくすぐる。


「……ねえ、ユーリ。どんな話を聞いてもぼくの気持ちは変わらない。 話してくれるというのなら話してほしい。トーマについて。それと、あの夜あったことについて」
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