ユーリはまるで福音書を朗読するかのように、穏やかに、流れるようにそう言うと、ふっと小さく息を吐く。
そしてぼくに断りを入れると、フロックコートのような黒い上着を脱いで真っ白なシャツ1枚とスラックスという姿になった。
静謐、という言葉がぴったりのたたずまいで、ぼくは瞬きも忘れて彼の背を目で追う。
「ユーリ。一つだけ、約束」
ぼくはユーリの目を覗きこんだ。
「なに?」
「無理はしないこと。ぼくはいつでも、いつまででも待っている。きみが話したいと思うときに話せばいい。 話すことできみが傷つくのならぼくは聞きたくない」
「……約束。耳障りの良い言葉だね」
「ユーリ?」
「ねえ、オスカー。人はこれから先どれだけの約束があれば、生きていくことを許されるのかな」
*...*...* ずっと先の未来に (2/4) *...*...*
ぼくの肩に頭を預けるようにして、ユーリは少しずつ話を始めた。。
彼の呼吸は一息ごとにぼくを肩口を濡らし、心の中も溶かしていく。肌の触れ合いというのは、もしかしたら千の言葉にも勝るのだろうか。
9才の冬。旅先で車が故障して冬の海沿いを1時間近く歩いたことを思い出す。 寒いというぼくをグスタフは自分の膝の上で温めてくれたっけ。
あの行為は寒さだけじゃない。不安も。恐怖も、ともすれば世界中から取り残されそうになる気持ちを、 なにもかもを明るい方向に変えてくれた。 ぼくはグスタフといれば大丈夫。なにも怖くない。彼はぼくの数少ない良いところを引き出してくれる。 ここにいてもいい、って言ってくれている。そんな風に強く思ったんだ。
「トーマについて。……ぼくはトーマが好きだった」
「……そう」
「いくつかの季節を過ぎて思う。ぼくの一部は確実に彼で、彼はぼくそのものなんだ。 彼の思考がぼくの行動を指示してくれることもある」
「……どんなとき?」
いつも冷静で。沈着で。誠実という言葉が制服を着ているんじゃないかとさえ揶揄されたユーリ。 計算し尽くされた発言が99パーセントを占めていたユーリ。 そんなきみを、ときに痛ましく、ときに詰りたいほど腹立たしく感じていたこともあった。 唯一きみが、饒舌に言葉をつなぐときは、人をかばうとき。守るときだけだった。
それなのに、今のユーリはたくさんの言葉を選びながら、少しずつ自分のことを話している。 ……それだけでぼくはボンまで来た甲斐があったと思える。
「どんなとき……? そうだね。人を信じるとき。ぼくがこの人は信じるに足る人物か、って考えているとき、言ってくれる。 『まず最初は信じてみたら』って言ってくれる」
ユーリは、小さな子どものように素直に答えを返す。 そして、きみも知っているだろうけれど、と前置きしたあと話を続けた。
「あの夜のことがあってから……。ぼくはあらゆる事象とぼくとの間に、 ある一定の距離を保つように努力していた。 離れすぎないように、近づきすぎないように。 ぼくはすでに羽ばたくための翼を無くしてしまっていたし、愛される資格など持ち合わせていなかったから」
「……うん。それで?」
『愛される資格』。誰だってそんな資格は持ち合わせてる。もちろんきみも持ち合わせてるに決まってる。 反論したくなる唇を噛みながら、ぼくはユーリの話に聞き入った。
「ぼくには翼がないことをエーリクに告げたら、彼が言ったんだ。 『翼をあげる。ぼくは要らない』って。 そのとき初めて気づいた。トーマは、あの夜のことは知らない。 だけど、ぼくが誰からも心を閉ざし、死んだように生きていたことを知っていたんだと」
ぼくはユーリの背をそっと撫でながら彼の話を聞き続けた。 トーマに対して浮かんでくる嫉妬のような苦みは、どうしたらやり過ごすことができるのだろう。 ぼくもトーマみたいに自殺すればユーリの『永遠』になれたのかな? 答えは断じて否だ。 サイフリートのことで強い痛みを感じていた彼に、これ以上の重荷を与えたいとは思わない。 すっかり落ち着きを取り戻したように見える今となってもだ。
ただ……。ただ、そう。ぼくはユーリを見守るしかできなかった。
じゃあ、ぼくがユーリにとってエーリクのような存在になれたかと問われたら、それも断じて否だった。 邪気もなくユーリの胸に飛び込むには、ぼくはあまりに多くのことを知りすぎていた。 ぼくの思いを打ち明けることで彼の負担を増やしたくなかった。
今も昔も、ぼくが彼に望むこと。それは、彼が笑ってくれること。それだけだった。 ぼくはただ、ユーリを待つことしかできない。
「シュロッター・ベッツにいたころは、トーマのひたむきさを恐れて、ときには煙草の火を押しつける夢を見ていた。 彼の寂しそうな顔、泣きそうな顔ばかり浮かんでいた。 だけど最近は、ようやく夢の中でも、トーマが笑ってくれるようになった」
「……羨ましいな、トーマのことが。生者は死者には追いつけない」
「ごめん。そんなつもりじゃ」
「いいんだよ。こっちこそごめん。話を聞く、っていったのはぼくの方なのに」
生と死が取り巻く関係において、ぼくは母・ヘラの存在を避けては語れない。
父・グスタフに撃たれて亡くなった母は死の直前、なにを思ったのだろう。 ぼくのこと? グスタフのこと? それともミュラー? 道の端っこで死んでいた仔猫のこと? ぼくはそれこそ際限なく考え続けた。そしてある日、閃くように悟った。 母は、まだ自分が死んだことにも気づいてないんじゃないか、って。
ヘラは幸せになりたかった。グスタフも幸せになりたかった。二人はそのために手を尽くしたんだ。 ただ、お互いの方向性が東と西、右と左みたいに反対の方向を向いていただけで。 そしてその方向性の原点が、ぼくだったというだけで。
ゆっくりとユーリの呼吸に合わせて背を撫でる。 さっき飲んだワインと穏やかなときの流れは、ユーリの口を軽くする。 ぼくは彼が口を開くのを待ち続けた。
「おかしなものだ。再び翼を手に入れたぼくが一番最初に気づいたものはなんだったと思う?」
「さぁね。……エーリクの愛とか? あの子はきみに夢中だったから。そういえば言ったっけ? 今、エーリクはアンテと仲良くなっている。ステディの関係、ってわけではないけれど」
「そうなの?」
「アンテ。あいつ悪いやつじゃないんだよ。ただ、ちょっと短絡的っていうだけで」
ぼくがユーリを介抱していたことをみんなに吹聴したアンテのせいで、 ぼくはユーリと同室である権利を奪われた。 それはすなわちユーリの見張りを止めることとイコールであったわけだけれど、 結果として、ぼくの代わりにユーリと同室になった、鉄砲玉のようなきかん気の少年エーリクは、 彼を絶望から掬い上げ、明るい世界へと背中を押し、彼をここまで立ち直らせたのだ。
エーリクの母親が亡くなってから、ユーリとエーリクはある一定の距離を持った関係から、 より1歩踏み込んだかのように見えた。それが素直に羨ましかった。 どうしたって、ぼくはエーリクとエーリクの向こうにいるトーマに勝てないのだと思った。
ユーリは懐かしそうな声を上げた。
「エーリクのことは好きだよ。エーリクは姿形だけじゃない、話し方までトーマに似てる」
「じゃあ、きみは今はエーリクが好きなの?」
今、腕の中に抱え込んでいるこの存在は、やはりどうしたってぼくのものにはならないのかな。 軽い失望と、やっぱりそうなのかというあきらめと、 もともとぼくはこういう結論になることを知っていたんじゃないか、という自分への哀みと。
母親のマリエが亡くなって、学校を飛び出したエーリク。連れ戻しに行ったユーリ。
あの日を境にユーリの表情は柔らかくなっていた。1歩1歩確実に、ユーリは人の世界に踏み込んでくるようになった。 ……なるほどね。ぼくは認めたくない事実を認められなくて、現実を先延ばしにしてきただけなのかもしれない。
ぼくの背中に回っていたユーリの指が、遠慮がちにぼくの頬に触れる。 ぼくを形作る線を遠慮がちに確かめたあと、ユーリはぽつりと口を開いた。
「トーマ。エーリク……。ぼくにとっては辛い時間が過ぎて、真っ先に浮かんだのはオスカー、きみの顔だったんだ」
告白にも似た熱を持った言葉に、今度はぼくの頬が熱くなった。
*...*...*
どれだけの夜、彼を思って眠っただろう。元気で居るだろうか。傷ついてないだろうか。
また今日もきみは頑なにシャツのボタンを留めるのだろうか。神学校に行く少し前、同室で一緒にいたときのことも思い出す。
何度きみに告げようと思ったか。ぼくはすべてを知っている。忘れてしまえ。壮絶なリンチを受けたことなど忘れてしまえ。忘れるのが無理なのなら、ぼくに話せ。自分の中にため込むな。吐き出してしまえ、と。
あらゆるものと距離を置いて、しかも傷をそのままにして。いつかその傷に耐えきれなくなったとき、きみはどうなる? ぼくの父親グスタフみたいに、自分を取り巻くすべての者を切り捨てるのか? 自ら生命を捨てるのか?
改めてぼくは、まばたきのときに生まれる風さえも感じる距離にいるユーリを見つめる。さっきのユーリの言葉の意味を考える。
一度キスしたことがあるとはいえ、あれは、ユーリが発作を起こしたときの特例だ。
ユーリの言葉は裏がない。まっすぐで誠実だ。その彼が真っ先にぼくの顔が浮かんだと言ってくれたのだ。 今、3インチ先にある、彼の唇に自分のそれを押しつけることなんて、いとも簡単なことなのに。
「ねえ、ユーリ。ぼくの勘違いじゃなかったら……。きみの思いと、ぼくが今思っていることが同じ方向に指しているなら、きみから行動を起こして?」
「オスカー?」
「きみのことをもうずっと待ち続けたからかな。自分から行動を起こすのが、ちょっと不安なんだ」
おどけて笑うと、ようやくユーリの表情が和らいだ。
「まったく、オスカー、きみは……」
やれやれと言った風に、ユーリの顔が近づいてくる。軽く重なり合う。 それはぼくが想像していたよりも遙かに儚げな口づけで、 翌朝になったら、朝靄(あさもや)と一緒に消えてなくなりそうな優しい行為だった。
ユーリの気持ちがわかったことで、ぼくは心底ホッとしたのだろう。 ぼくはユーリの身体をソファに押しつけると、彼の唇に自分のそれを押し当てた。 ユーリの確かな弾力が伝わってくる。 ときおり漏れる吐息は甘くて、これではどんな男もこの漆黒の髪を持つ彼に夢中になるだろうと思えた。
「きみがトーマの影におびえていたときに、こんなことをしただろう?」
「ああ、あのときは迷惑をかけた」
「全然迷惑なんかじゃなかったけど?」
彼は恥ずかしそうに微苦笑を浮かべている。
一緒にいたころよりも心持ち鋭くなった頬の線。ぼくたちは子ども界から確実に大人の世界に足を踏み入れている。
手触りのいい、漆黒の髪。白い肌に匂わんばかりの薄紅色の頬。 心持ち開かれた唇からは真っ白な歯列が見え隠れしている。 舌を差し込んだ唇からは、清潔な香りだけが残った。
「……いつからか、ぼくはきみの気持ちに気づいてた。胸の傷を気遣ってくれていたことも知っている。級友の目からさりげなく隠しててくれたことも」
「……ユーリ。胸を見せて?」
「な……、どうして?」
「いいから」
シュロッター・ベッツにいたときと同様、きっちりと一番上まで止めてあるボタンをぼくは一つ、 また一つと敬虔な思いを込めて外していく。 ユーリを苦しめた源。罪の刻印のような火傷の跡が顔を覗かせる。
「……ユーリ。ここは今も、誰にも見せてないの?」
「もちろん」
「でもぼくには見せてくれるんだ」
「オスカー……」
深く引き攣れた火傷の痕は色こそ薄くなったものの、撫でるとそこだけ不自然な窪みがある。 ぼくはその窪みに沿うようにそっと舌を這わしていく。 蝋燭のあかりの中、窪みにぼくの蜜が映るのを見て、自分の内が痛くなる。 まるで窪みの深さが、ユーリの心の傷の深さに思えてくる。 ユーリは恥ずかしさの内側に優しさを秘めてぼくの髪を撫でていた。
「これで忘れてしまえ、とは言わない。言えることじゃないことくらいわかってる。 だけど、ユーリ。今度、煙草を押しつけられる夢を見たら、ぼくのことを思い出せ。いいな」
傷がついたところは元々肌が薄くなっているのだろう。 わずかな舌の動き一つで、ユーリは敏感に反応を示す。 それが愛しくてぼくはいつのまにか歯止めを失っていたらしい。 白いシャツを脱がせ、ズボンも脱がせ。気がつけば、ユーリはほとんどなにも身につけていなかった。
「ユーリ。きみが嫌ならこれ以上のことはしない。きみが近くにいてくれる。 それだけでぼくは満足しているから」
痛みのような切なさが喉元にやってくるのを、ぼくは無理矢理飲み込んだ。
正面で向き合う状態の今では、ユーリの背中の傷はわからなかったけれど、ときおり指から伝わる凹凸に、 ぼくはまたやりきれなくなる。
──── ぼくが触れるたび、ユーリの傷すべてが薄くなればいい。無くなればいいのに。
弾む息を押さえて、再び胸の窪みに口づける。 乾いていたたぼくの唾液がふたたび湿り気を持ち、匂い始める。
自分の匂いがユーリからする。それだけで、ユーリはぼくのものになったような気する。 有頂天になる。
ユーリはそんなぼくの髪を撫で、泣き出しそうな目でぼくを見ていた。
「あの夜のこと。……ぼくはきみに告白しなくてはいけないことがある」
「……別に無理して話すことはないぜ。ぼくはきみが目の前にいればそれでいい」
「違う」
「違わない。今、きみはここにいるじゃないか。ぼくの手の届くところにいてくれるじゃないか」
「……そうじゃないんだよ。オスカー……」
「……なに?」
ぼくはある種の胸騒ぎを覚えて、ユーリを見上げた。彼の口端が震えている。悔しそうにゆがむ眉根はこれから発せられる彼の言葉の重さを語っている。
「……きみは、どこまで知っているの? ぼくとサイフリートのこと」
「……イースターの日。きみはシュロッター・ベッツに残った。サイフリートたち4人も残った」
「それから?」
「きみが、リンチに、遭った。胸の火傷。背中の傷」
ユーリの苦しみを最小限に留めたくて、ぼくは最低限のことだけ言う。 だけど、これがぼくの知っているすべてでもあった。
「……それから?」
「アルツトがきみを入院させる必要があると言った。 ……サイフリートたちは退学処分になった」
ユーリは苦しげに大きく息をつく。いつの間にかぼくの髪を撫でていた手も止まっている。
「ごめん。ユーリ。ぼくはぼくの知っていることを繋げただけなんだ。 間違いがあったら言ってほしい。 もちろん言いたくないというなら言わなくていいんだ」
「──── ぼくはもう汚れている、きみを受け入れられる身体じゃないんだ」
彼の影が、大きく肩を落とした。
「何度も……。何度も。ぼくをうつぶせにして、彼らはぼくの中に入ってきた」
「……は? 彼ら、って、ユーリ、きみ……」
ぼくは少なからず動揺した。そしてその瞬間動揺したことを激しく悔やんだ。
ユーリはこの世のすべてのものを諦めたような寂しげな目で笑った。
「ぼくの身体は汚れていてね。……しかも悪魔は一人じゃなかったんだよ」