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 ──── あれから。
 自分の部屋に戻ると言い張るユーリをなだめすかして、ぼくは彼と一つのベッドで眠った。  
*...*...* ずっと先の未来に (3/4) *...*...*
 苦しそうに幾度も寝返りを打っていたユーリは、明け方になってようやくまどろみ始めたのだろう。 ぼくは穏やかな寝息を立てる彼の横顔を、飽くことなく見つめていた。 聖堂の絵のよう、と評される端正な目鼻。朝の淡い光のなか、濃いまつげは長い影を落とし、 鼻梁の周りを彩っている。 柔らかく結ばれた唇。その中にある蜜の味をぼくはもう知っている。
 どうしてぼくはこれほどまでにユーリに心惹かれるのだろう。 彼の髪を耳の後ろに流しながら、ぼくはあてどもないことを考える。ぼくがユーリについて考えること。 その時間はいつもぼくを幸せにしてくれた。
 ぼくに好意を寄せる人間は少なからずいる。そして、ぼくがその相手のことを憎からず思っていることも多い。
 なのに、どうして、ぼくはわかりやすい愛情を示してくれる彼らよりも、 むしろそっけないばかりのユーリから目が離せないのか。
 正義感で、親切で、思慮深くて。
相手の悪いこともすべて引き受けて、だけど、そのことを相手に告げることなく努力する男。 ──── 心、惹かれる。
 ぼくは、ただ、待つだけで、ユーリを明るい世界に引っ張りあげることはできなかったけれど、 それでもぼくがきみを思う気持ちは負けないつもりだったのに。 迂闊だった。不覚だった。

『悪魔は一人じゃなかったんだよ』

 ユーリの告白に、我もなく動揺する自分がいた。 それは、ぼく自身が大切にしているものを踏みにじられたという悔しさと、それ以上に、 どうして気づいてやれてなかったんだという自分への腹立たしさもあった。
 
(……グスタフ)

 5年もの間、連絡のない父を思う。別れるとき、頼んだアフリカの色切手のついた葉書は、ついに来ることはなかった。 そしてこれからも来ることはないだろう。
 母に瓜二つと言われる容姿。立ち振る舞い。ぼくの意志で止めることができないいろいろな事象を、 彼はどんな思いで見ていたのかな。今のぼくみたいに腹が立って仕方ないときがあったよね。 ねえ、グスタフはぼくが嫌いだった? 憎んでた?  グスタフは母さんのことがすごく好きだったんだよね。だから、結婚、したんだよね。 なのに生まれたぼくはグスタフとは血がつながらなくて。いやだったよね。大切なものを踏みにじられたような思い、したよね。
 もしグスタフが以前のユーリとぼくみたいに、ぼくのクラスメイトとして存在していたら、 ぼくは彼の苦しみを理解することができたかな。絶望の端っこで苦しんでるグスタフを、 こっちの世界に引っ張り上げることができたかな。
 ぼくが、ただただ欲しいと願うもの。祈るもの。 持っているものと持っていないもの。持つことの叶わないもの。 人生にはいろいろな取捨選択があるけれど、ぼくの一番欲しいものはこれからも手に入らないのかな。
 窓の外に映る木々を見る。昨日までと寸分変わらない景色は、ぼくを少しだけ冷静な世界に戻してくれた。

「ん……」
「おはよう、ユーリ。よく眠れた? ……とは聞かないけれど、調子はどう?」
「ああ、オスカー。昨日は……」

 ユーリの、赤く腫れあがったまぶたがちょっと痛々しい。 でも、痛々しくはあるけれど、その様子はどこか愛らしくて、 ぼくはユーリが小さな子どもになったような気がして密かにご機嫌になる。 でも泣いていたことを気づかれるのはユーリにとっては辛いだろう。ぼくは強引に話を変えた。

「ぼくさ、ヒッチハイクであちこち旅行するのが好きなんだけど、どういうわけかボンだけは来たことがなかったんだ。 だから、朝食をすませたら行きたいところがあるんだけど、付き合ってくれるかい?」
「それはかまわないけれど、きみは疲れてない? 大丈夫?」
「全然。ほら、地図も持ってきた。一緒に見よう」

 ぼくはテーブルいっぱいにドイツ西部の地図を広げる。ヴェストファーレン州、ライン川沿い。 愛国心? というのかな。ぼくの国ドイツは、どの地方をどんな風に切り取っても美しい。世界一だって思う。
ライン川はワインの川だ。つまり肥沃な土を運んでくるライン川に沿って、豊かな葡萄畑が広がっていることを示す言葉だが、 たしかにライン川のうねる様を見るのは楽しい。ときおり透けて見える川底に、小さな魚が群れをなして泳いでいるのも美しい。

「オスカー、きみは音楽には関心があるのだろうか?」
「音楽?」
「ボンはベートーヴェン生誕の街と言われていて、すぐ近くに彼の生家がある。今は博物館になっているはずだ」
「昔は一応ヴァイオリンをやっていたけれど、今はご無沙汰だな……。あ、ここだ。ぼくの行きたい場所」

 最初は少しだけ身構えるものがあったのだろう。 わざとごく普通の会話を重ねることで、ユーリの表情から少しずつ緊張の膜が溶けていく。 そしてぼくが指さすままに、ペンでグルグルと囲まれた場所に目を向けた。

「ラインアウエ公園?」
「そう! 以前来たときは時間の関係もあって通り抜けてしまったけれど、あの公園は、木々の葉っぱの色が違うんだよ」

 ライン川が織りなす肥沃さと、寒暖の差のある気候。それにやや低めの湿度。 ここボンの初夏は美しく、ひんやりと香る風は気持ちいい。 ぼくには見えないだけで、もしかしたらすべての風には特別な色がついているんじゃないかと思えるくらいだ。
 ユーリはぼくの言葉に思い当たる節があったのだろう。わかった、と言いたげに2度うなずいた。

「そういえば、あの公園の木々の色は、オスカー、きみの目の色に似ている」
「そう?」
「──── 優しげで、どんなことも受け止めてくれそうな瑞々しい色だ」

 ユーリはそう告げると、そっとぼくに近づいてくる。 そしてちょっと背伸びをすると、自分の頬をぼくのそれにすり寄せた。 その仕草は、自分の存在を口内中に押しつけるような濃厚な口づけよりも強くぼくに訴えてくる。

(ぼくは、ユーリが、好きだ)

 ずっと好きだった。今でも好きだ。ユーリがぼくを振り返ることがなくても好きだった。 あの夜のことがあっても。きみがトーマを好きでも。それでも、ぼくは君が好きだった。
 
「ねえ、ユーリ。昨晩の続きみたいに、ソファできみにキスしていい?  今度は途中で止めない。最後までする、っていうのはどう?」

 半分の本音を半分の冗談で包んで言ってみる。 案の定、ユーリは優等生然とした表情でぼくの提案を受け流した。

「ここからラインアウエ公園は少し距離があるから。早く準備しないとね」
*...*...*
「ユーリ、ユーリ! やっぱり素敵なところだね!」

 初夏の風に吹かれて、木々はさらさらと音を立てる。公園中央の大きな湖水は、ちょっと古い鏡のように、 空と木々を映す。
 のどかな芝生が広がる公園は田園風の作りを意識しているのか、あちこちに小さな納屋が配置されていて、 そのわきを合鴨の一家がのんびり歩いている。 総勢10羽くらいか。どっしりと構える父親と、あちこち列を乱す子どもを叱る母親。 子どもたちはそれでも好奇心が止まらないのか、散り散りに興味のある方向へ歩いて行く。
 水色の天使が悪戯しているんじゃないかと思うほどの、素敵な風は、ぼくたちの頬をひと撫でしていく。 ユーリはその心地よさに目を細めている。
 
「気持ちのよいところなんだな。きみに言われるまで知らなかった」
「そうなの? 週末はきみ、なにしてるの?」
「シュロッター・ベッツにいたときとあまり変わらない。本を読んで、ときどき、みんなと議論して。神の御前でトーマを思って」
「……そう」
「オスカー、きみは?」
「ぼく? 相変わらずだよ。 レポートを書いたり、バッカスと一緒に議論したり。エーリクの子守でたまには街に繰り出したりする」
「きみのことだ。商業高校の女の子と仲良くデートしているのかと思った」
「ははっ。まあ、それもあるかな。女の子はみんな可愛いから」
 
 ぼくたちは木陰にあるベンチに座ると、駅の売店で買ったミートパイを食べ、ビン入りのキルシュを交互に飲んだ。
 
「ねえ、ユーリ。ぼくたちの暮らす国、ドイツはこんなにも美しいんだ。 きみの日々の暮らしを変えろとはいわない。そもそもそんなことをいう権利はぼくにはない。 ただ、週に一度でもいい、きみがまだ経験したことのない新しい体験をしてみるのもいいと、ぼくは思う。 些細なことでいいんだ。歩いたことのない道を歩く。入ったことのない店に入る。話したことのない人間と話してみる」
「……なるほど」
「それで得るものもあるし、なにも得るものがないかもしれない。 すぐに役立つかもしれないし、役に立たないかもしれない。ひょっこり30年後に役立つかもしれない。 でも、それでいいんだ。人生の遊びの部分、というのかな。誰しもそういう部分も必要だと思う。きみは、特に」
「……新しい本を読むのはだめ?」
「Nein(だめ)! 机上の空論は却下」
「やっぱり」

 ぼくの答えを予想していたのだろう。ユーリは声を上げて笑った。
 ──── そう。ぼくは、そうだ。
 ぼくは、きみの助けになりたかった。 5年前、シュロッター・ベッツに来たばかりのぼくをきみが励ましてくれたように。 6人部屋で騒いだ4年。 目標に向かい、目的に向かい、きみの顔はたえす日の当たる方向へ向かっていた。 人との関わりを楽しんでいた。静かに笑うきみが好きだった。 そんなきみにまた会いたいとぼくは思ったんだ。
 ぼくの手で、元の明るいきみを取り戻せるなんて思っていない。 だけど、きみの人生の岐路にぼくを立たせておいてほしいんだ。

「ん……? なんだ?」

 ふいに、幹の穴にいたリスがひょっこりを顔を出すと、木の上にいた仲間に声をかけたらしい。 一瞬のうちに数匹のリスが、吸い込まれるように穴に飛び込むと不安げに、ぼくたちと空の色を見比べている。
 
「オスカー、いけない。雷だ」
「どうして? まだ空はあんなに青いのに?」
「カールスルーエからほんの少し北に来ただけなのに、ここボンはちょっと気候が違うんだ。 初夏はスコールみたいな雨が降る。 オスカー、こっちだ。雨はともかく雷は避けきれないから」

 みるみるうちに空の大半が濃いグレーの雲に覆われていく。 さっきまで芝生の上で戯れていた合鴨たちが、いっせいに葉陰の奥に逃げ込んでいく。
 ぼくはユーリに手を引かれるまま、一番近くの納屋に飛び込んだ。 展示用なのだろう。そこには昔風の農家の住居が再現されていた。
 
「すまない。少し濡れてしまったね」
 
 ユーリは、きちんとプレスされたハンカチをぼくに手渡す。
 
「きみは?」
「ぼくはあとからでいい。一枚しかないから、きみに」
 
 ユーリはそう言うと、端正な横顔を見せて窓の外に目をやった。 髪の毛の先から滴る滴は、首筋を伝い、白いシャツを透明に染めていく。 うっすらと見える背骨は華奢で、この身体の一体どこに、彼の芯の強さや意志の固さが 織り込まれているのだろうと不思議になる。 すんなりとした鼻梁を伝って、滴が落ちる。形のよいあごからも滴が伝う。 ときおり光る稲妻が、彼の美しさを伝えてくる。ぼくは背後からユーリを抱きかかえた。
 ユーリは、ぼくの行動を受け入れるでもなく、拒むのでもなく。ただ優しくぼくの腕に手を添える。

「オスカー……。昨日も言っただろう? ぼくは4人の悪魔に」
「だから? だからなんだっていうの? ユーリ」
「だから、ぼくはきみを受け入れられない」
「どうして?」
「……汚れているぼくを抱いたら、きみまでも汚れてしまう」
「……ユーリ、きみ……」
 
 賢いくせに、本当にきみって馬鹿だよな。なんて茶化そうとして胸に詰まる。 一体きみはどこまで傷つけば、自分自身を許せるのだろう。 トーマのこともそうだ。きみはあのころ人の好意を受け入れる余裕がなかった。 でもそれはきみのせいでは断じて、ない。 でも、それでも、きみは一生トーマの死を背負って生きていくのだろう。

『そうしてぼくはずっと生きている。彼の目の上に』 ──── 彼の言葉、どおりに。

 ぼくは背中越しにユーリの耳に口付ける。 神様っていうのは、彼のことを特別熱心にお作りになったらしい。 ユーリの耳は銀細工の貝のようにひっそりと美しかった。

「いったいなにを言うかと思えば……。 ねえ、ユーリ。だいたいきみは汚れてない。だから、ぼくも汚れるわけがないだろ?」
「だけど」
「……ぼくは今のきみが抱きたい。あの夜を越えて、トーマの死を受け入れて。 今、立ち上がろうとしているきみを抱きたい」

 呪文のように何度も同じ言葉を繰り返す。 これはぼくのエゴ? ぼくが今まで積み上げてきたもの。ユーリを見守っていた時間。 そんな今まで温めてきたものを、すべて放り出していいのか。 ぼくの我儘を押し通すことで、ぼくはユーリとの間に作ってきた信頼を 壊してしまう? いろいろな葛藤がぼくの中でせめぎ合う。 だけど今、腕の中にいるユーリをぼくから手放すことができない。
 小半時が過ぎたころ、ぼくの思いに押し切られたかのように、小さな声でつぶやいた。

「きみさえよければ……。こんなぼくでも、きみが望んでくれるなら」
*...*...*
 ぼくはユーリの上半身をソファにうつぶせにさせると、濡れているシャツを脱がせていく。 胸の傷と同様に、背中の傷も人目にさらすことに抵抗があるのだろう。 一瞬ユーリは背中を捩る。そして小刻みに身体が震えている。

「大丈夫。ユーリ、ぼくだよ」
「オスカー……」
「どうすれば、ぼくだってわかる?」

 4人の悪魔たちはユーリにこんなことをしたのだろうか? 暴力で、彼の理性を踏みつけたのだろうか?
 羞恥からだろうか。彼の背中の傷は血を注いだように紅くなる。ぼくは丹念にその傷をなめ続けた。

「……オスカー。いいから、続けて」
「ユーリ?」
「……きみだ、ってわかってる。だから、平気だ」
「ユーリ……」

 背後からの行為。いくら優しくしたって、ユーリからしてみれば、ぼくと悪魔に違いはないだろう。 優しくしても限界がある。 これはもしかしてユーリのぼくに対する優しさ?  浮かんだ不安は、波紋のようにぼくの中に広がっていく。するとユーリは、ぼくの手を握り小さく笑う。

「オスカー……。きみの声がする。きみの匂いがする。だから」
「──── もう、知らないからな」


 ぼくは捨てゼリフを吐くと、無我夢中でユーリの中に押し入った。 彼の中は、想像よりも遙かに熱く、そして淫らだった。
 彼のものを手で優しく愛撫しながら、ぼくは腰を前後に揺らす。ユーリの声が少しずつ甘くなっていく。

「まだ、あいつらのことを思い出す?」
「……オスカー……」
「思い出すの?」
「……ときどき」

 抱き合っても、身体を繋げ合っても。人間は肩の上にある罪を降ろすことはできないのだろうか。 ではなんのために神様は人という生き物を作ったのだろう。 苦しむため? イブが食べたリンゴは一生消えることのない罪なのかな。
 ぼくは繋がったまま、背中越しにユーリを抱きしめる。 ──── きみはもう、十分苦しんだし、十分償った。もう、いいんだ。自分を赦してもいいんだ。
 少しずつ律動を早くする。快楽の中できみが自分を見失うように。 本来の、本当のきみと話すために。
 
「悪魔のことを思い出したら、これからはぼくとのことを思い出して? いいね?」
「ん……っ」
「今、きみの中に入っているのは誰? 言ってみて」
「だめだ。強くしないで」
「強くなんかしてない。きみが喜ぶ姿が見たいだけ。ねえ、きみの中にいるのは誰?」

 シュールな絵のように、背中に紅い線が浮かび上がる。 白すぎる肌の上のその線は、痛々しいというよりもただ、美しい。 ぼくはうっすらと汗の膜が張ったユーリの背中を舐め続けた。



 2度の大きなうねりと、静寂と。雨はその間も密やかに降り続く。
 ぼくはユーリの目を手で覆うと、そのまま自分も目を閉じた。

「雨の音を聞いていなよ。疲れたなら、眠ってていいから」
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