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 納屋で2回。そして神学校のゲストルームに戻ってから、3回、ぼくはユーリと交わった。
 男同士の愛し方にどんな規律があるのかをぼくは知らなかったし、正解はなにかなんて知る由もなかった。 だけど、知識だけ詰め込んだ頭よりも、身体の方がずっと大胆で雄弁だった。 ぼくたちは生まれる前から決まっていたことのように、何度も身体を繋げ、キスをした。 最後に聞いたユーリの声が、今もぼくの耳朶に残っていることが少しだけぼくを安心させる。
 だけど、わからないことがある。
 ──── ユーリは、いったいどんなつもりでぼくに抱かれたのか。  
*...*...* ずっと先の未来に (4/4) *...*...*
 昨日と同様、学校の食堂にはぼくたちの朝食が用意してあったが、 ユーリは、ぼくの出発の時間があるから、と早々にキャンセルをしたらしい。 ぼくにもまったく異論がなかった。 ぼくたちにとって特別な意味を持つ朝に、他の野放図な輩を視界に入れる気はなかったからだ。
 アイントップ(スープ)とカイザーメンデル(パン)。ソーセージと、コーヒーをユーリは食堂から運ぶと、手際よく並べている。 彼の後ろ姿を見つめながら、ぼくは、昨日は無理をさせたことを自嘲的に思い出していた。
 ユーリは最後に一つ残ったカイザーメンデルをぼくに手渡す。 ぼくはそれを半分に割ると、大きい方をユーリに返した。

「ねえ、ユーリ。ぼくはきみとこんな風に過ごせてよかったと思っている。……きみを混乱させたことだけを謝るよ」
「オスカー……」
「ぼくね、わかったことがあるんだ。それはね、きみには誰よりも幸せになる権利があるってこと」
「……きみは、いきなりなにを言うかと思えば」
「ぼくが、今、決めたんだよ。だから、もう、これは、決定事項」

 わざとはしゃいだ声を上げてぼくは笑う。 それに釣られるようにしてユーリはようやく口端に笑みを浮かべた。
 
「オスカー。口では上手く言えないけれど、きみに感謝しているんだ」
「こっちこそ。昨日のきみはすごく素敵だった。 今日、もう一度昨日をやり直せと言われても、ぼくは同じことをするだろうね。 賭けてもいいくらいだ」
「……今は、すまない。少し混乱している」
「ユーリ……?」

 彼はそう言うとそっとぼくの手を握る。 かすかに伝わってくるぬくもりがユーリが誠意のような気がして、ぼくは改めて彼の目を覗きこむ。 雨に濡れた黒曜石のような瞳の中に、途方に暮れたような顔をしたぼくがいる。

「……きみとあんな風になった自分が、信じられないんだ。自分の身体の変化を受け止められない。 ぼくはトーマが好きなのに。トーマの死の上に今のぼくがあると思っているのに。 何度も、……何度も、昨日のぼくはきみを求めた。きみを感じられることが幸せだった。 どうしてなんだ? ぼくはトーマが好きなのに」
「……そして、『オスカー、きみのことは、ちっとも好きじゃないのに』って続くのかな?」
「オスカー……」

 本来なら、痛みを伴うであろうユーリの言葉に、どうしてだか、ぼくの心はちっとも傷つかない。 なんの痛みも感じない。彼の誠実さこそがぼくの求めているものだからだ。 ぼくは今日、ここボンをあとにする。あと数時間でぼくとユーリはまた離ればなれの生活になる。 あと数時間を取り繕うことなんて簡単だ。なのにユーリはそうしない。 その誠実さこそが、ぼくがユーリをとりこにしている。
 ぼくは彼の指に指を這わす。白い甲の先、すんなりと形のいい指が続いている。先端には短く切りそろえられた爪。 この指が、昨日は幾度もぼくを求めた。言葉より雄弁にぼくを欲しいと言ってくれた。

「じゃあ、別の質問をしよう、ユーリ。きみは、ぼくとはもう会いたくない?」
「そうは言ってない」
「……いいんだよ、それで。そんなきみだから、またぼくはきみを好きになる。 ……ねえ、ユーリ、こっちにおいでよ」

 ぼくはユーリを手招きすると、自分の膝を指さす。 ユーリは一瞬ためらいを見せたあと、ふっと小さく息をついてぼくの中に収まった。 朝から降り続く雨は、ぼくたちの周りの音をすべて消す。 ぼくは彼の髪を弄びながら話し続けた。

「きみに一つ、助言していいかい?」

 ユーリは聞いているよ、と目で続きを促す。

「校長であり父であるミュラーは、ぼくのことを『柔らかすぎる』と評していたけれど、 ユーリ、きみは、ほんの少しだけ、ぼくみたいに柔らかくなってもいいと思う」
「……そうなのかな」
「そうだよ。人の気持ちなんて数字みたいに割り切れるものじゃない。 割り切れなかったら分数でいい。おおよそでいいんだ。 1個のりんごしか入らない袋に、2個のりんごを入れたっていい。 空が青くて綺麗で。湖も鏡みたいに綺麗で。 そんな状態のとき、2つのものを好きになるのは当然で、別に恥じることでも悔やむことでもない。そうだろう?  2つを同時に愛して、どうしていけない?」
「……でも、それじゃ、ぼくはたいそうきみに対して不誠実だ」
「きみが、トーマを好きで、ぼくのことも好き、っていうならそれでいいんだ。ぼくはまったく気にしない。 ユーリ、きみはぼくのことが嫌い?」
「そんなこと、あるわけないだろう」
「じゃあ、好き?」
「……それは……、オスカー」
「……ふふ。ごめん。今の発言は意地悪だったな」

 それきり、ぼくとユーリは黙ってお互いの身体の線を確かめていた。
 ユーリはおとなしくぼくのされるがままになっていた。
*...*...*
 午後になって、ぼくは帰り支度を始めた。手荷物をまとめるのに時間がかかるふりをして、 ユーリといる時間を引き延ばそうかと考えたけれど無駄だった。 グスタフと1年間旅をしていたころを境に、ぼくは手荷物の準備をするのがすごく早くなったからだ。 準備が遅いと、グスタフに置いていかれる。いい子じゃなきゃ、捨てられる。 無意識下のうちにぼくは人の機微を読むのが得意になった。
 ユーリは特段口を開くこともなく、黙ってぼくの様子を見ていたが、ふと不思議そうに首をかしげた。

「オスカー。きみは何時までにボーデンに着けばいいの?」
「別に特に決まってない。今日中に着けばいいんだ」

 雨上がりの空を、ヒバリが大きな弧を描いて飛んでいく。 ぼくはしばらく黙って同じ方向の空を眺めていたが、意を決して立ち上がる。そして自問する。 ぼくは、ここに来てよかったのかな。ユーリを抱きしめて、よかったのか。 ぼくは彼に困惑を与えるだけの人間だったのかな。
 答えは出ない。まだ、出したくない。──── 彼の存在をすぐ隣りに感じられる今は、まだ。

「じゃあ、列車の時間もあるしそろそろいくよ。いろいろありがとう。ユーリ」
「……駅まで送るよ」

 ユーリに関することで、エーリクが知っていてぼくが知らないことの一つに、 ユーリを取り巻く家庭環境があった。 おばあさまとお母さまと妹君。女ばかりの家族に囲まれたユーリは、 週に一度の手紙は欠かさないものの、あまり自分から家庭の話をすることはなかったからだ。

『とにかくさ、すっげーイヤミなババアなの!  なのに、ユーリは『すみません』って、そのババアに謝るんだよ』
『ふーん。ユーリらしい、っていえばそうかもね』

 冷静を気取って誘導すれば、案の定エーリクはぼくの言葉に腹を立てたらしい。 さらに細かいことを教えてくれた。 南国の特徴を持ったユーリの父親は、妻の母であるユーリの祖母から、アラブ人と蔑まれていたこと。 その父親に似たユーリが気に入らないこと。ユーリの行動すべてを色眼鏡で見ていたこと。

『ぼくがユーリだったらさぁ、間違いなくグレちゃうね。賭けてもいい。あんな家には帰らない!』
『まあまあ、エーリク。落ち着いて』
『なのにユーリは、あんなババアに借金を全部返すって。そんなの気にすることないのに。 ユーリが借金返すころ、とっくに死んでるよ!』
『……なに? 借金って』

 『借金』という言葉に引っかかりを感じて、ぼくはエーリクを問い詰めた。

『なんかねー。ユーリの父さん、事業に失敗して、借金を負ったみたい。それを返すんだ、って言ってた。 お父さんみたいな完璧な人間になるんだ、って。 ねえ、オスカー。ぼく、わかんなくなっちゃったよ。完璧ってなんなんだろう。 完璧ってなにがいいのさ?』
『ふふ。なにがいいんだと思う?』
『よく考えてみれば、おかしいよ。完璧って。 完璧ってことは、すべての人間がみんな同じ能力を持っちゃう、ってことだろう?  みんな同じでなにがいいの? 同じになっちゃったら、できることもできないことも同じになっちゃうじゃない。 ブッシュ先生とホーマン先生が同じことしか教えられなくなっちゃったら、意味がないよね』

 賢しいユーリのことだ。多分、彼は神学校を出たあとの進路に対しても熟考を重ねているに違いない。
 神への造詣を深めて、自分の屈託に終止符を打てるころ、 彼は亡くなった父親の残した借財のために、新たな事業を興す準備を始めるのだろう。 律儀すぎるほど律儀な彼が、その手のことを考えていないはずがない。
 ぼくもぼくの目指す道がある。 あと数年、勉学に励む。高等学校の進学も視野に入れる。 子どもから大人になるときに、南アメリカに行き、父の足跡を探す。 たとえミュラーが悲しむとしても、これだけは我が儘を通す。 きっとミュラーはぼくを止めないだろう。止めないどころか、笑顔で送り出すだろう。 そしてぼくを送り出したあと、聖堂の前で祈るんだ。 父・グスタフへの愛。母・ヘラへの愛。そして、息子・ぼくへの愛について神に祈るのだろう。
 だからぼくは戻ってきたら、ミュラーに対して精一杯の孝行をする。
 ぼくの母・ヘラをぼくの父・グスタフに殺させる原因になった男。 ぼくの通う学校、シュロッター・ベッツの校長でもある男、ミュラー。 シュロッター・ベッツに来てから、陰ひなたにぼくを見ていてくれた、本当の父親。 彼がいなかったら確実に今のぼくは存在していない。 彼の、ぼくへの愛はいつも穏やかで誠実だった。 嫌いになれないことに苦しんだ自分もいた。それも今はなにもかもありのままを受け止められる自分がいる。

「ユーリ、ありがとう。もうここでいいよ」

 神学校から駅までは歩いて15分。 たくさんの言葉が必要な気もするし、なにも言葉は必要ないような気もする。 手さえ繋いでいない空間が、なによりも愛しく感じられた、大切な時間。 きっとどれだけ年を取っても、ぼくは今のこの時間を忘れない。
 ぼくは、軽い調子でユーリに笑いかけた。

「じゃあ、元気で。ユーリ」
「……うん。オスカー、きみも」

 約束のない未来。ぼくたちの進む道は交差しない。 だけどそれがなんだというのだろう。 目の前にいるユーリに笑いかける。穏やかでやさしげな瞳がぼくを見返してくる。
 ──── ぼくたちの関係はこのままでは終われない。
 愛しい存在を引き寄せる。 ユーリは一瞬身体をこわばらせたが、ぼくのハグが、2日前ここに来たときと同じ、 親愛の情を示すものだとわかったのだろう。柔らかく受け止めるとぼくの腕の中でじっとしている。
 ぼくはユーリの顔を持ち上げた。
 
「ねえ、ユーリ。いつか……。いつか、ぼくたちがこの世に生を受けてきたことに対する義務をすべて果たして、 多くのしがらみから自由になったとき。……またこうして2人会えたらいいね」
「オスカー。ぼくは……」
「なにも言わなくていい。きみの気持ちも、背景もわかってる」

 人少なな駅の改札で、ぼくはユーリに微笑んだ。──── 上手く、上手く、ぼくは笑えてるだろうか。 今、ぼくが浮かべている笑顔が、彼の一番最初に取り出される記憶のぼくになれるだろうか? ぼくがきみを誇りに思っているように、ぼくはきみの誇りになれるだろうか?

「オスカー、きみは、それでいいの? こんな考え方しかできないぼくでも?」

 口よりも雄弁な目元は、すでにほどけて涙色の光を放つ。

「ユーリ。……ぼくはきみになに一つ求めないよ」
「でも、それでは」
「昨日のぼくたちの行為は、ぼくたちのこれからの人生で意味があったかもしれないし、なかったかもしれない。 でもそれでいいんだ。ぼくたちは2日間、同じときを過ごしたんだ。 ぼくときみの間に、一緒にいたという記憶が残ればそれでいい」
「オスカー……」
「もちろん、きみがぼくに会いたいと言ってくれるのなら、ぼくはいつでもきみに会いに行く。 心配することなんてなにもありゃしないさ」
「オスカー!」
 
 ユーリの顔が怒ったように紅くなる。力のこもった眼光は美しさとともに彼の内側を伝えてくる。

「それでは、ぼくはきみにしてもらうばかりだ。ぼくに今、なにができる? きみに、なにができる!?」
「──── ただ、元気でいてほしい。ぼくは、また、きみに会いたい」

 夕焼けが濃くボンの街一帯をオレンジ色の飛沫に染める。 ぼくは改札を通り抜けるとユーリがこっちを見ていることを背中に感じながら、ユーリの方を振り返らずに手を振る。


 ふと気がつけば、自分の頬が濡れている。
 ぼくはユーリが泣いてないことを祈りながら、ボーデン行きの列車に飛び乗った。
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