留守電に2回、メッセージが入っていた。
 『吉羅さん』の名前が点滅する画面を、震えながら見つめる。

(私、取り返しのつかないことを……)

 入っていた用件は淡々と短く、ただ、連絡が欲しい、とだけあった。  
*...*...* Sin 3 *...*...*
 あれから私は、下半身に倦怠感を覚えながら、逃げるように部屋を飛び出した。
 加地くんは、私を気遣うようにそっと後をついてくる。

「近づかないで! 加地くん、お願い。もう、放っておいて」
「ねえ、香穂さん。こういうときは感情的にならない方が得策だよ。このままカップルを装って今夜は会場から抜け出そう」
「そんなこと……。私、そんなこと、できないよ」

 加地くんは私の意見に構うことなく、自分のジャケットを脱ぐと私の身体を包む。
 そして私の肩に腕をかけると、周囲の視線を避けるようにしてタクシーを呼んだ。

『紹介する人間はようやく半分終わった、というところだ。君もあと少し頑張りたまえ』

 ホテルの人に呼び出されて吉羅さんが席を外したとき、吉羅さんが私にささやいた言葉を思い出す。

 あの言葉が本当なら、吉羅さんが私に引き合わせたい人はまだ数人はいる、ってことで。
 あまり詳しいことはわからないけれど、祝賀会に来ている人は、吉羅さんが直接依頼した、という古い恩師の方もいたはず。
 私がこのまま帰ってしまったら、それは吉羅さんの顔をつぶしてしまうことになる。
 そんなのは、イヤだ。

 ともすれば止まりがちになる歩みを、加地くんは半ば強引に進める。

「ねえ、香穂さん。考えてみて? 今の君を、あの人に見られてもいいの?」

 自分の中に浮かんだ思いそのままを告げられて、私は途方に暮れる。
 ──── 吉羅さんなら、わかってしまう? 私がこんな状態になっていること。
 私、今までどおりの自分でいられるのかな?
 歩き方もなんだかぎこちない。まだ、加地くんが私の中に入ってる気がする。

「大丈夫。君の身体はちゃんと濡れていたし、中も外も傷はついてないと思うけど」
「な……っ」

 思わず、かっとなって加地くんの頬を叩こうとして、あっさり私の手は加地くんの手に収まった。

「ダメだよ。君の手はそんなことする手じゃない。君にしか奏でられない音楽を作るためのものだ。
 君の大事な人も、同じことを思っているはずだよ」

 今、気づいた。
 加地くんは、絶対、吉羅さんの名前を口にしない。『あの人』だとか、『君の大事な人』だとか。『理事長』とか。
 クラスメイトで、友だちで。同じ弦の仲間で。
 私、ずっと、加地くんのこと、友だちだと思ってた。
 なのに、加地くんの目は、大人以上の狡さとしたたかさを備えた鋭い光を放っている。

 ──── 怖い。私、この人が怖い。

 そういえば、さっき、私はどうして急に眠くなっちゃったんだろう。
 初対面の人ばかりに囲まれて疲れた、というのは本当だけど。
 いくら疲れてたとはいえ、まだ顔合わせの続きがあることはわかってたんだもの。
 緊張でいっぱいで、眠れるワケ、ないのに。

 まさか……。

 祝賀会に来て、私は、食べ物も飲み物も一切摂ってなかったはず。

『立食のマナーとして、とりあえず、グラスだけは持っているように。そう、グラスの脚に指を添えるんだ。
 間違っても、グラス本体に手を当ててはいけない』

 私は吉羅さんの言うとおりにグラスを持っていたけれど。
 次々と来る初対面の方との挨拶で、グラスの中の水は口も付けないまますっかりぬるくなっていた。
 だと、したら、急に眠くなった理由は、……加地くんが持ってきてくれたお水のせい?

「どうしたの? 香穂さん。そんな怯えた顔をして」

 加地くんが目の前で微笑む。
 教室で隣りにいるときと、同じ顔。
 さわやかで、人当たりがよくて。いつも私のヴァイオリンを聴いてくれて、助言をくれて。

 ──── なのに、こんなにも怖い。

「加地くん……。どうして……?」
「香穂さん、明日は日曜日だね。なんでも秋晴れの気持ち良い日らしいよ。
 『ヴィオロンのため息の身にしみて……』か、まさにそんな気分だよ」

 返事のしようがなくて黙っていると、加地くんは通りを走っているタクシーを呼び止めて、私と一緒に乗り込んできた。

「今日はとりあえずゆっくり休んで。また僕から連絡するから」
「……ううん。連絡は、もう、いい」

 暗い車内の中、街の明かりは途切れることなく続いている。
 白いドレスが、私を責めるように光を放つ。
 初めてこのドレスに手を通したときは少し、緊張した。
 今日、初めて着ている姿を吉羅さんに見せたら、喜んでくれたっけ。

『幼いなりに、よく似合う』

 ……ヘンなの。褒めてるのか、褒めてないのかわからない。
 だけど、私はそんな皮肉っぽい優しさを見せてくれる吉羅さんが好きだったのに。
 今、このドレスを見るのは辛い。
 布にも、私の身体にも加地くんの匂いが染みついてる気がする。

「香穂さん」

 ずっと正面を見たまま返事をしない私の手を加地くんは、優しく持ち上げる。
 タクシーの運転手さんは、私たちの空気を不審に感じたのだろう。
 軽い咳をすると、無線に向けて何度も業務連絡のようなことをつぶやいている。

「香穂さんの僕に対する評価は地に落ちてる、と思ってる。わかってるんだ。
 だけど、こうすることでしか顕せなかった僕の気持ちもわかってほしい。それに、こうなった以上、僕にも権利があるはずだ」
「……権利?」
「僕が君と付き合う権利。
 僕と、君の大事な人は、君の身体を知っているという一点においては、今、同じスタートラインに立っているんだ。
 だから、君も、僕のことを真剣に考えて」

 家に着くと、加地くんは手に軽く口づけて、いつでも電話を待っているから、と熱っぽい目で告げた。
*...*...*
「それにしても、だ」

 祝賀会の翌日の日曜日。
 端正な横顔はまっすぐに中央ラインを見据えると、ギアをどんどん入れ替えていく。

 吉羅さんが企業人として優秀な人なのかはよくわからなかったけれど、
 今まで2人で会う、という日程は、だいたいその日の1週間前には決まっていた。

『企業人には目標設定が必要なんだよ。Plan/Do/Check/Action。この4つが回転して初めて益を成すことができる』

 なのに、今日の待ち合わせはいつもの吉羅さんとは違う、唐突で強引な誘いだった。
 朝の電話で約束をして、1時間後の今、こうして2人で会っている。

 日曜日の午前中の高速、というのは、平日と違って、どこかみんな暢気だ。
 ファミリーカーはのんびりと走り続け、スポーツカーは助手席の彼女を思いやるようにゆったりと進む。
 なのに、吉羅さんの車は強引に車線を替えて駆け抜けていく。
 車内は尖ったナイフがあちこちに忍ばせてあるんじゃないかと思うほど、ぴりぴりした空気に包まれている。
 吉羅さんは今日は完全にオフの日なのだろう。
 ネクタイはつけてない。濃いエンジ色のラフなポロシャツにベージュのデニムを身につけていた。

「昨日は突然帰ったと言われて、私も焦った」
「ごめんなさい……」
「周囲の人間には適当に取り繕ったがね。却って、君の株が上がってしまったよ」
「そう、なんですか?」
「人は希少性の高いものに心惹かれる存在だ。
 わざと生産量を減らして売り切れを装い、人の飢餓感を煽る企業さえ、ある。
 君がそれほど小賢しい知恵の回る人間だとは思ってないが、ある意味君の戦略は功を奏した、ということだ」
「あ、あの! 昨日は本当にごめんなさい。急に気分が悪くなって、私……」

 小さい頃、小さなウソをついたことがある。
 だけど、その小さなウソを守るために、さらにウソをついて。
 気がついた頃には、自分では手に負えないほどの大きなウソになっていたことがあった。
 いつもは笑って取りなしてくれるお姉ちゃんもお母さんも、ひどく怒って。
 それ以来かな。私はウソをつくのが本当に苦手になった。
 今も、声が震えてるのがわかる。すっと指先が演奏前のように冷たくなった。

 『急に気分が悪くなって』っていうのは真実だけど。
 どうして気分が悪くなったのか、その理由を問われたら、私、なんて言えばいいんだろう。
 私、吉羅さんに理詰めで敵うわけ、ない。

 吉羅さんの車は、10分もしないうちに高速を降りて、するするとシティホテルに吸い込まれていった。
 秋の太陽が、これから天頂に近づこうとしているこんな時間に。
 ──── どうしよう。怖い。
 吉羅さんならきっと気づいてしまう。ううん、抱く前から気づいてしまう。
 私の身体の変化に。
 どうしよう……。

「……行こう」

 吉羅さんはカードキーを手に、私の背を押す。
 昨日見た部屋とは違う。鋭角的でモダンな造りに目を見張っていると、吉羅さんは腕の中に私を抱きかかえた。
 吉羅さんの顔をまともに見ることができない。
 頑なに俯く私のあごを持ち上げると、吉羅さんは巧みなキスを繰り返した。

「ん……っ」

 触れられることで、気づいてしまう。
 その恐怖が私の身体の中に固い膜を作っていたのに。
 吉羅さんはそれをなんなく壊すと、口内をゆっくりと可愛がる。
 舌を引っ張り、歯列を舐める。
 彼の口からの甘い蜜を何度か飲み込んだ後、吉羅さんはようやく唇を離した。

「……すまなかった。君にあまり無理をさせたつもりはなかったのだが。
 私も、香穂子の体調を考慮しないで強引なスケジュールを立てていたと思う」
「ううん、その、謝らないで? 私……」
「年甲斐もなく心配したよ。私は」

 恐怖? それとも、昨日の私の馬鹿な痴態が見つからなかったことへの安心?
 それとも……。
 この大好きな人を裏切ったという後悔なの?
 私はこの日初めて、吉羅さんの目の色を覗き込んだ。
 穏やかな、優しい目。私の身体を本当に気遣っている、温かい色で見つめ返される。

 ──── 私は、なんてひどいことをしたんだろう。
 私は、こんなにも気遣ってくれる、優しい人を裏切ったの?
 昨日、なんとかして逃げ出す方法はなかったの?
 どうして、私、加地くんの差し出したお水を飲んだの?
 近くで見つめている吉羅さんの顔が大きく歪む。

「香穂子。なにを泣くことがある?」
「吉羅さん」
「……君の未来が大きく開けたことに不安を感じているのだろうか?
 なにも心配することはない。私がついている」

 吉羅さんはベッドの上で私を抱きかかえると、安心させるかのように私の背中を何度も撫でる。
 大きな手。広い手のひらの先は、筋張ったしなやかな指に続いている。
 清潔な形の爪は、初めて快感を知った私の身体が最初に覚えた部位だった。

「吉羅さん……」

 背を這う手が気持ちよくて、私は吉羅さんの胸に頭を預けた。
 涙で吉羅さんのシャツが汚れないようにと少し離れると、吉羅さんは私の後頭部を支えるように手を当てる。
 困る。……今日、今、優しいのは困る。
 吉羅さんは私の白いシャツの上から、胸のふくらみを持ち上げた。

「昨日から、ずいぶんとまた女性らしくなったものだ」
「……え? き、昨日?」
「ああ。ドレスを着た君の姿は、いつもにまして妖艶だった。
 不思議だな。白いドレスがあれほど悩ましげに映るのは君くらいかもしれない」

 『昨日』という言葉にどきりと胸が痛くなる。バカ、私、反応しすぎだ。
 だけど、さっき私が気づいてないかも、って思っていたのは勘違いなのかな?
 どうしよう……、どうしたら、いいの?

「こんなに胸を高鳴らせて。……君も私を欲している、と思っていいのだろうか?」

 吉羅さんは脚の付け根に指を当てると、眉を上げた。

「あ……っ」
「……溢れている」
「いや……っ」
「このままでは辛いだろう? 少し楽にしてあげよう。素直に声を出すんだ。いいね」

 吉羅さんは私の下着を取り去ると、蜜の溢れている場所に指を差し入れた。
 何かを咀嚼するようなだらしない音が下半身から聞こえる。
 彼の指を食べているみたいで恥ずかしい。
 吉羅さんの指は浅く深くの挿入を繰り返しながら、着実に私を追い詰めていく。

「あ、……だめ……っ」
「熱い。──── 君は一気に大人びたな」

 吉羅さんは腫れ上がって外に飛び出した赤い実を親指で潰すと、ゆっくりと回し始めた。
 そして、柔らかな下腹部や脚の付け根に次々と花びらを散らしていく。

「私……っ、もう……!!」
「見せてごらん。君がイクところを」
「吉羅さん……っ。ダメ、私……っ」

 身体が一気に頂点に突き抜けていく。

「ここも呼吸をしているみたいだ。何度も私の指を締め付けてくる」

 吉羅さんは秘部に指を当てたまま、身につけていたポロシャツを脱ぐ。
 滑らかな筋肉が上半身を彩っているのを見て、私は欲情したんだと思う。


 吉羅さんに抱かれながら、壊れてしまいたい、って。
 ──── 昨日の記憶も、これからの不安も、何もかも無くなればいい。


「吉羅さん……」
「香穂子?」
「……抱いて、ください」
「香穂子……」

 吉羅さんは喉の奥で小さく呻くと、射るような目で私と見つめた。








「……君が望んだことだ。容赦はしない」
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