*...*...* Sin 4 *...*...*
「おはよう、香穂さん」
「……おはよう」

 僕は毎朝、隣りの席に着く香穂さんに今までどおり、声をかける。
 香穂さんは、びくっと肩をふるわせて。だけど、無視する冷たさも持ち合わせていないのだろう。
 僕に小さな返事を返すと、カバンの中から教科書を出していく。

 夏よりも華奢になった肩。
 肩下の髪は無邪気にふわふわと跳ねている。

 香穂さんは、祝賀会から続く僕の関係を、当然のことながら誰かに告げるということはしていないし、僕自身も、沈黙を通している。
 さらに2人で会うときには、別々に目的地に行き、ホテルの部屋で落ち合う。
 だから目撃者を気にする必要もなく、僕たちの関係に気づかれる心配もない。

 確か、秘め事は大人の印、なんて太宰は言っていたっけ。
 僕は何度か秘め事を所有する楽しみを知っていて、それは、ちょっとしたゲームのような興奮を与えてくれたけど。
 今回の秘め事は今までとは違う。
 興奮のすぐ近くに、歓喜のような高鳴りがある。
 そして、その高鳴りの背中を切なさが押してくる。

 ──── わかってるんだ。
 僕が香穂さんの身体をどんなに自由にしたって、心は全然僕の言うとおりにはならないってことを。

 僕の、完全な片思い。

 滑稽だよね。
 男の性、って、Sexをすることで1つの終着点を迎える、って聞いたことがあったのに。
 抱いてもなお、いや、抱くことでなおさら、ますます香穂さんに惹かれるのはどうしてなんだろう。

「よう、香穂。ああ、加地もいるのか。ちょうどいい。今朝はまだ早いだろ。ちょっとお前から話が聞きたくて」
「おはよう、土浦。どうしたの、こんなところまで」
「土浦くん、おはよう!」

 転科して半年。
 すっかり音楽科の制服が板についた土浦は、自分の教室に寄ることなく、まっすぐ楓館にやってきたのだろう。
 軽く息を弾ませると、僕と香穂さんの間に立った。
 香穂さんは、ぱっとを表情を明るくすると土浦を見上げている。
 ……そうだ。ほんの1ヶ月前まで、香穂さんは僕にもこんな笑顔を向けてくれてたんだ。

「香穂、お前留学するんだってな」
「え? どうしてそんな話になってるの? 留学?」

 突然の問いかけに香穂さんは目を大きく見開いている。
 澄んだ瞳は冴え冴えと美しくて、僕は最近、彼女のそんな表情を見たことがないことに気づかされる。
 土浦は、香穂さんの反応に二の句が告げられないのか、何度も前髪をかき上げた。

「ってお前、この前のヴァイオリンコン、優勝したんだろ? 結構なスカラシップが付いてたって話じゃねえか」
「あ、そのことだったんだ。えーっと、そうだね、まだスカラシップへの返事はしてないけど、私、多分留学はしないよ?」

 香穂さんは土浦の声の大きさを気にしているか、少し恥ずかしそうに返事をする。
 そうだった。彼女がこの教室で音楽のことについて話すことはほとんどない。
 内田とコネクションがある上条さんはともかく、東雲さんだって香穂さんのコンクールの話は、1度きり。
 天羽さんの号外が出たとき、ちょっと話したくらいだ、と思う。
 土浦は信じられないとでもいうかのように、背を仰け反らせた。

「おい、お前、あの条件のスカラシップ、蹴るつもりか?
 授業料だけじゃない、寮の手配もしてくれて、講師陣も万全で。いわば身一つで飛び込める環境だろ?」
「んー。それはそうなんだけど、私は日本で頑張りたいなあ、って思ってて……」

 香穂さんの穏やかな様子に、土浦は徐々に冷静さを取り戻したらしい。
 ようやくいつもの声の調子に戻ると、僕の方に顔を向けた。

「まあな。俺も月森が留学する、って聞いたときは頭が熱くなっちまって、
 音楽は、ヨーロッパに行かないとできねえのかよ、なんて啖呵切ったことはあったが……。
 そうか。香穂は日本で頑張るのか。加地はこいつの選択をどう思うんだ?」
「ああ、僕? 僕は香穂さんが近くにいてくれたらそれでオッケー。だから、彼女の選択も最良のものだと思うよ」

 香穂さんは、僕の本音にさっと顔を強ばらせている。
 僕は彼女を安心させるために軽く頷く。……大丈夫だよ。僕に任せて。

「はぁ? マジかよ」
「当然。僕は彼女のファン第1号なんだから」
「って、お前に聞いたのが俺の間違いか? まあ、いい。また今度、3人で音、合わせようぜ?」

 いつもの僕の冗談が始まったと思ったのだろう。
 土浦は、からりと大声で笑うと、教室の時計を見て慌ててドアを飛び出していった。
*...*...*
 あの日から、僕は何度も彼女の身体に触れた。
 彼女は、彼女の作る音そのものの、素直な女の子なのだろう。
 いや、もっと有り体に言えば、狡猾な知恵が回る女性以前の、少女なのだろう。
 家族に愛されて。周囲に大事にされて。この世は善で、明るくて、迷いが無くて。
 頑張れば才能は、後からでもついてくる、なんて信じて疑ってないみたいだ。
 ──── 本当は、違うのにね。
 才能というのは、ごく一部の限られた人間にしか与えられていない。
 どんなに切望したって手に入らないものなのだと、彼女は知らないんだ。

 敢えて彼女の短所を述べよ、と言われたら。
 人を疑うだとか、陥れる、とか。
 人生の暗いところや、どろどろした部分に思いを馳せることができない素直さなのかもしれない、と僕は思う。

 ……なんて。
 彼女といるといつも、自分がいかに汚れているかを思い知ることになる。

「香穂さんに触れていると、ホント、きりがないよね。たった4日触れなかっただけなのに、すごく君が欲しくなる」

 この日の放課後、僕はメールで香穂さんを呼び出して、今こうしてベッドの上で抱き合っている。
 自堕落な秋の夕方。
 高校生の男女の背を、あっという間に夜は隠してくれる。
 僕は駅前のラブホテルに滑り込むと、母親に飢えた子犬のように香穂さんの身体にむしゃぶりついた。

「……もう誘わないで、って言ってるのに」

 最初のときは、タオルで香穂さんの自由をむりやり奪ったけれど。
 今は、罪の意識が、香穂さんをがんじがらめにしているのだろう。
 目を潤ませながら、力ない声で抗議をしてくる。

「じゃあどうして? どうして君は僕の誘いに乗ってくるの? 僕は、このことを人に告げるなんて、一言も言ってないでしょう?」
「じゃあ、その……。秘密にしててくれる?」
「今まではね。だけど、これからはどうしようかな……」
「そんな言い方、ひどいよ」

 罪に罪を重ねる。
 だけど、その罪は僕にとっては好都合だ。
 だって、僕と触れあう時間が長ければ長いほど、僕は香穂さんに僕の良いところを見せることができるから。
 2度、3度と香穂さんの身体を抱くにつれ、知り始めた彼女の弱いところ。
 香穂さんは今日も僕を柔らかく受け入れると、小さな声で喘ぎ始めた。

「可愛いよ。香穂さん。君の気持ちいいところをもっともっと探したいよ」
「ダメ、そこは……っ」
「君の感じるところを、君の大事な人以上に探し当てたら、君は僕の近くにいてくれるかな、なんて思って」

 本当に……。
 抱けば抱くほど蕩けそうに柔らかくなる身体、っていうのは、男泣かせだ。
 そして、女の子にとっての2人目になれる男というのは、得な役回りだ。
 甘い香穂さんを抱くという行為は、ちょうど熟し始めた果実を苦労なしに手にして、蜜を吸い取るような行為にも似ている。

「いや……っ。もう、許して」

 香穂さんは羞恥に戸惑いながらも、腕の中で切ない声を上げる。
 彼女の身体には無数の薄紫色の花びらが散っている。
 ……これは、僕がつけた痕じゃない。
 少し色褪せているところを見ると2日前、くらい、ということか。
 僕は頭の中でカレンダーをめくる。
 彼との行為は週末、ということになるのかな。

 そう。香穂さんの身体は僕1人のものじゃない。……僕1人のものにできない。
 むしろ、僕が部外者。
 惹かれ合っていた2人の間に土足で入り込み、壊し、彼女をこんなにも悲しませている。

 僕の下で涙を浮かべながら抱かれている、愛しい人を見つめる。
 僕は一体、何をしているんだろう。こんなに香穂さんを悲しませて、何がしたいの?

 浮かんでくる感情を振り払うようにかぶりを振ると、僕は再び香穂さんを攻め続けた。

「君の身体に自由に傷をつけることができる彼が羨ましいな。僕には絶対そんなことはできないよね」
「あ……っ」
「そうだ。僕も今日はつけてみようかな。そうしたら君の大事な人も気づいてくれるかもしれない」
「いや。怖い……っ」

 僕はそう言いながらも、新たな場所ではなく、彼女の大切な人がつけた、色あせた場所に、僕の印を上書きする。
 これが僕の理性の最後の砦。

「……同じ場所につけておくから。聞かれたらちゃんと言い訳するんだよ? この前のがまだ残ってるんです、って」

 同じ部位なら、もし彼女がこの痕を彼に責められてもなんとかなる。
 いやむしろ、何日経っても消えずに残っている自分のモノである印に、大人の男は相好を崩し、
 ますます彼女への愛情は深くなるに違いない。

 僕の気持ちが強すぎるから?
 わからない。それともただ、純粋に僕と香穂さんの身体がめったにない素晴らしい取り合わせだったから?
 僕は香穂さんの身体に溺れきっている。
 吸い付くような内側は、1度達するだけでは満足できず、中に入れたまま、また僕を元気にさせた。

「そうだ。今日は教えてくれる?」

 僕はゆっくりと腰を前後に揺らしながら尋ねる。

「君の大事な人はどんな風に君を抱くの?」
「やめて……」
「あのポーカーフェースの理事長が、君にはどんな言葉をささやくの? ──── すごく興奮する」
「どうしてそんな、意地悪言うの?」
「気になるんだ。ねえ、教えて?」

 2人の身体が絡み合ってるのを想像するだけで頭が熱くなる。
 本当に、僕はおかしい。香穂さんに狂ってる。
 最初は、触れられたらいい、って思ってただけなのに。
 1度抱いたら、もう諦めるつもりだったのに。
 なのに、僕はもう、香穂さんと数え切れないほどこんな行為を繰り返している。
 香穂さんの泣く顔が愛しくて。
 悩みながら僕を受け入れてしまう彼女の優しさが、たとえようもなく可愛い。



 3つの大きな波を越えたあと、僕は香穂さんを抱きかかえながら口を開いた。

「ねえ。君に最後のお願いがある。聞いてくれるなら、もう今後こういうことは君にしない。辛いけど、君を諦める努力をする」
「なあに? 加地くん」

 最後、という言葉が利いたのか、香穂さんは今日初めて目を合わせてくれた。

「……君と最後に小旅行がしたいな、って。
 時計を気にしながらこんな風に1日数時間の逢瀬を楽しむより、1日中、全部香穂さんを僕のモノにしたいんだ」
 ──── そうしたら、僕は君を諦めるから」
「本当?」

 香穂さんの顔に、信じられないというような表情が浮かぶ。
 それが少しだけ喜びに満ちていることを僕はやりきれない思いで見つめた。



 そうだ。……僕が、諦めるべきなんだ。僕が後から入った闖入者なんだから。
 僕が、諦めれば、それで。
 ──── 彼女が、幸せなら、それで。
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