ふと、自分の手首を見つめる。
 そこは自分の身体ではないような細さで、こっちを見つめ返してくる。

 いつまでもこのままじゃダメなことはわかってる。
 だけど、私は今の自分の状態を吉羅さんに伝える勇気はなかった。
 大人の男の人が、どういう行動に出るかわからなかったし、怖かった。
 あの優しい目が、初めて出会った頃よりも冷たくなって。
 軽蔑するように見つめられたら、と考えるだけで、背中がすっと寒くなる。

 吉羅さんに伝えたくない一心で、加地くんの言うがままになる自分もイヤだった。
 加地くんは、一言も吉羅さんに伝える、なんてことは言ってないのに。
 なのに、彼の誘いを1度でも断れば、すぐ吉羅さんに知られてしまうんじゃないか、って考えてしまう。

『最後にするから。だから、一緒に小旅行に行こうよ』

 加地くんの言う『最後』が本当なら。
 私はまた、何も悩むことのなかった私に戻れるの?
 吉羅さんに、嫌われることもなく、軽蔑されることもなく。
 なにもかも、以前のとおり。そんな身勝手なことが許してもらえるの?

 私は加地くんのこの誘いに、一も二もなく頷いた。
 
*...*...* Sin 5 *...*...*
「香穂さん、こっちだよ」

 目的の場所に着くと、加地くんはひらひらと手を振りながら、こぼれそうな笑顔でこっちを見た。
 こんな明るい顔を見るのは久しぶりな気がする。
 土曜日、朝7時。
 駅の改札もまだ夜の続きのように静まりかえっている。
 明け方に雨が降ったからだろう。
 街の紅葉は、昨日より色の深みが増している。
 今年もあと2ヶ月で終わり、なんてまだ全然実感が沸かない。
 今頃、吉羅さんは何をしているかな。
 スポーツクラブで泳いでくると言っていたから、そろそろ起き出してシャワーを浴びてる頃かもしれない。

 加地くんは、ジーンズと、ネイビーブルーのTシャツ。その上にグレーっぽいチェックのシャツを羽織っている。
 着てる人がいいからだろう。なんでもない服装なのに、はっと見つめ返してしまうほどカッコいい。

「朝早くごめん。君が承諾してくれてよかった」
「ん……。どこに、行くの?」

 旅行、と言っても、週末を使って行く旅行だもの。
 1泊しかできないし、出かけるとしても、10時くらいからかな。
 そう思っていた私は、加地くんの指定した時間を2回も聞き返したっけ。

「飛行機を予約したんだ。だから君がどうしてももう少しあとの時間がいい、って言ったら、
 もう1便遅いのを、父に無理を言って確保するつもりだったんだよね」
「え? 飛行機?」

 加地くんはあっさりとうなずくと、私の荷物を手に取った。

「そうだよ。君とできるだけ遠くに行きたい、って思ったから。昨日のうちにネットで準備しておいた」
「どこに行くの?」
「それはお楽しみ。君を誘ったのは僕だからね。デートプランは完璧だよ」

 そして、これも用意しておいたのだろう。指定席を指さすと座るように言う。
 私は誘われるままに、その席に座った。

「昨日はなかなか眠れなかったよ。君が本当に承諾してくれるなんて、夢みたいだ、って思ってね」
「その、私……」
「あ、飲み物を買ってあるんだ。紅茶とコーヒー、どっちがいい?」

 加地くんはウキウキと楽しそうに、話し続ける。
 私は、といえば、電車が、自分の知っている街を越え、都内に入ったところでようやく緊張がほどけてきた、らしい。
 加地くんのくれた紅茶を口に含んだ。

『旅行? クラスメイトと一緒に、か』
『はい……』
『まあ、いい。最近の君も少し疲れているようだし、この時期、気分転換もいいだろう。気をつけて行ってきたまえ』

 数日前に、吉羅さんにはこの旅行のことをお話した。
 ウソは言ってないとは思うけど、私の理解と吉羅さんの理解の間には大きな隔たりがある、って知ってる。
 吉羅さんは、私が男のクラスメイトと行く、なんて思ってもいないだろう。後ろめたいことには変わりない。

「その、ちょっと意外だったかな。加地くんが旅行に行きたい、なんて」
「え? どうして?」
「だって、その……」

 あの祝賀会の日から1ヶ月。
 その間何度も、ううん、それこそ教室で毎日のように加地くんとは会っているけど。
 だけど個人的に会うのはいつも、日暮れが過ぎたホテルばかりだった。
 だから、そう。
 こうして日の高い時にお話をするのは、教室を除けば、……そう。一緒にジェラートを食べに行って以来かもしれない。
 加地くんは困ったように微笑むと私の手を取る。
 そして鼻がつきそうなほど近くまで顔を寄せた。

「か、加地くん?」

 加地くんが近づいてくることに身体はまったくと言っていいほど違和感がないのに。
 理性の方が慌ててる。
 ……そう、こうして、加地くんと手を取り合うことが、初めてだ、なんて……。

「……君とは、恋人らしいことをしないうちに、いろいろなことがあったから」
「うん……」

 加地くんは愛おしそうに私の指1本1本に触れていく。
 守るような、さするような優しい指使いに、少しずつ私の気持ちがほぐれていくような気がした。

「君から見ると、僕は君の身体だけに溺れている男に見えたかもしれないけど。……違うよ。
 ちゃんと恋人同士のようなこともしたい、って思ってた。
 だけど、そういうことをしたら、必ず人目に付く。君の大切な人に知られてしまうとも限らない。
 だから、辛抱してた」
「……知らなかったよ、私」

 私、もしかして、加地くんのこと、ひどい勘違いをしてたのかな?
 ずっと思ってた。
 加地くんは、私のことが嫌いなんだ、って。
 自分の高校の理事長と仲良くなって。拙いヴァイオリンを弾いて、いい気になってる私のことが、嫌いなんだ、って。
 そう、思ってたのに。

 胸の中に、言いようがない感情が広がる。
 私、加地くんのことを誤解してたの? 誤解して、冷たい態度を取ってたの……?

 加地くんは私の手をぽんぽんと優しく撫でると首を振った。

「ふふっ。香穂さんは知らなくてもいいんだよ。これは僕の事情なんだから。
 だけど、この2日間は人目を気にしなくていいんだ、って思ったら嬉しくて。
 つい君の手に触れていたくなった」
*...*...*
「わぁ……。ペンギン? すごく可愛い。ほら、歩いてる」
「へぇ。フンボルトペンギン、か。なんだか威張った顔してるねえ。
 『私は選ばれし者である』……なんてね」
「えっと、なんだっけ、それも太宰?」
「いや。これは三島かな。彼もかなり自己愛の強い人だったから」
「うん……。わ、見て見て。あの子、右手と右足、同時に出してる! 可愛い!」

 私は加地くんの言うことを素通りして、目の前の動物たちに夢中になった。
 動物園、ってその、オリの中に入っている動物を、こっちから見てる、ってものだと思っていたし、
 オリに入っている動物からしたら、逆にニンゲンがオリに入っているようにも見えるのかな、って思ってた。

 だけど……。

 加地くんの連れて行ってくれた北海道の動物園は、そんな私の考えを一変させてくれた。
 まさか、飛行機に乗ることも考えてなくて。
 ましてや北海道に行くことも、動物園に行くことも想像してなかった私は、
 動物園につくと同時に、出迎えてくれた動物たちに夢中になった。

 ペンギンの子たちは、ちょこちょこと飼育員さんの後ろを付いていく。
 ちょっと遠くには、アヒルが走ってるのが見える。
 アヒルって走るの? ふっくらした白いしっぽが首と一緒に揺れるのが可愛い。

「ここは、日本の中の動物園の中でもかなり興味深い経営をしてるよね」
「興味深い?」
「そう……。観客一体型、というのかな。某遊園地のようにリピーターを増やそうと頑張っている気がするね。
 動物も危険性のないものについては放し飼いにして、客との触れ合いを楽しんでいる。
 ほら、香穂さん。ペンギンの赤ちゃんがやってきたよ?」
「わあ。可愛い!」

 2羽のペンギンはペタペタと足音を立てながら、こちらに近づいてくる。
 私は入園するときに買った、ペンギンのエサをそっとその子に差し出す。
 その子は一瞬だけ首をかしげた後、私の手からぱくりとそのエサを飲み込んだ。
 人を疑うことも知らない、真ん丸で真っ黒な目には私の笑顔が映っている。

「可愛い。加地くん、食べた、食べたよ、エサ」
「ふふっ。香穂さんはペンギンに夢中だね。ねえ、僕が買ったエサもあげようか?」
「え? いいの?」
「どうぞ。僕は、ペンギンを見るより、君の笑顔を見ていた方がいいから」
「あ……」
「なに? 香穂さん」

 私……。どうしたんだろう。

『最後にするから。だから、一緒に小旅行に行こうよ』

 そう。最後にするから、って約束で、気が進まないのをムリに来た、というのに。
 なのに、加地くんと過ごしているのがこんなに楽しいなんて。

「あの……。ありがとう」

 私は小声でお礼だけ言うと、加地くんはただ黙って、私の頭を撫でるとすぐ後ろのベンチに座った。

 さっき私がエサをあげたペンギンは、今度は兄弟かな? 友だちかな?
 同じような背格好の子を連れて、私の前で首を振る。
 おねだりしているような様子に私の顔は緩みっぱなしになる。

 こういうイベントをあちこちでやっているのか、辺りにはそれほど人は多くない。
 地元より濃く色づいている紅葉が、ペンギンと私の間をすり抜けていく。

 振り返ってベンチを見ると、加地くんは穏やかな顔で微笑んでいた。

 もしかして……。もしかして、私、またすごく子どもっぽいことをしてる?
 だって、ペンギンに触れるなんて、滅多にないんだよ?
 それに、ペンギンにエサをあげられることだって、本当に本当にないんだよ?
 きっと私は標準だもん。加地くんの方が大人っぽいのが問題なんだから。

 私は自分のと加地くんの持っていたエサを全部ペンギンにあげてしまうと、加地くんのいるベンチに戻った。

「ありがとう。すごく楽しかった!」
「君のそんな笑顔を見たのはいつ以来かな……。そうだ、お昼抜け出してジェラート食べに行ったことあったよね」
「ん……。私もさっき思い出してた」

 なんの物思いもなかった、夏の頃。あれは夏休みが終わってすぐだったっけ。
 隣りの席の、優しい男の子。
 同じ弦をやってて。助言をくれて。助けてくれて。
 彼の特有の冗談。『ファン第一号だ』とか『好き』っていう言葉。
 私には、いつからか加地くんの優しさを当然のものとして、受け止めていたんじゃないのかな?


 ──── 加地くんの本当の気持ちに気づかないふりをして。


 加地くんは、私の沈黙を穏やかに受け止めている。
 私は、加地くんとこうなってからずっと考えていたことを口に出した。

「私、よくわからないよ」
「なにが? 香穂さん」
「加地くんなら、どんな女の子だって夢中になるでしょ? どうして? どうして私なの……?」
「香穂さん」
「──── 私、苦しいよ。すごく。……好きな人に、ウソを言うのが苦しい。
 言ったウソを守るために、またウソをついてる」

 今、私と加地くんのことを知ったら、吉羅さんはどんな顔をするだろう。
 怖いけど、本当に怖くてたまらないけれど、怒ってくれた方がいい。
 悲しむ顔を見るくらいなら、なじってくれた方がいい。
 付き合い出してからどんどん優しい表情を見せてくれるようになった吉羅さんを思い出す。
 今のあの人は怒ることをしないような気がする。怒る代わりに、ひどく傷つくような気がする。
 私、あの人を傷つけたくないのに。
 
 堂々巡りの答えが出ない問いを考え続ける。
 ひどい頭痛にこめかみを押さえていると、加地くんは私の腕を取った。

「大丈夫? 顔色が真っ青だよ」
「うん……」
「ちょっと疲れが出たのかもね。早めにホテルに行こうか」
*...*...*
 頭痛の中で、夢を見ていた。
 私がいつものおっちょこちょいで、張ったばかりのE弦を切ってしまった夢。
 1人の男の人は、苦々しく愁眉を潜めて。
 黙って私のヴァイオリンを取り上げると、手際よくペグを巻いていく。
 『君が怪我をしていなければいい』
 と言いながら、ぶっきらぼうにヴァイオリンを突き返してくる。

 もう一人の男の人は、あっけにとられている私を見て笑っている。
 『E弦は切れやすいから、気にしないで? あ、良かったら僕の予備を使う?』
 そして、『一緒に張ろうよ。ね?』と私の背を抱きかかえている。

 同じ男の人とは言っても、こんなに違うんだ。
 吉羅さんに向かい合うときの私は、いつも何か失敗しないか、って心配ばかりするのに。
 加地くんは、明るくて、取っつきやすくて。私が失敗をしても、一緒に笑ってくれるような気がする。

 ──── ああいう始まりじゃなかったら、今とは違う私たちがいたのかな。

「ん……」

 ホテルに着いてから、私は少しだけ眠ったらしい。
 ぎぃ、と椅子に深く腰掛けるような音で目が覚める。
 自分でも気がつかないほど、私も地元では、気を張っていたのだろう。
 北海道に来て、楽しい時間を過ごして、一気に気が緩んだのかもしれない。

「起きた? 香穂さん。調子はどう?」
「ん……。今、何時?」
「夕方の5時。北海道は日暮れも早いのかな。ちょっと薄暗くなってる」

 加地くんは気遣わしげに私の顔を見つめて、そして髪をかき上げ、額に手を当てる。
 それでも心配なのか、さらに頬にも触れ、首筋、鎖骨に手を当てると、ほっと安心したように息を漏らした。

「熱はないみたいだね。良かった」
「……もしかして、ずっと?」
「うん。君が心配だったのもあったけど……。君と過ごす時間がもったいなくて、ずっと君を見てた」
「加地くん……」
「君と同じ空間で、同じ時間を共有できるんだよ? 他のことをしてるヒマなんてないよ。
 ああ、そうだ。香穂さん、お茶でも飲む? 淹れてくるよ」
「……今日はありがとう」

 私は半身を起こすとホテルの部屋を見渡した。
 チェックインしたときは全然気がつかなかったけれど、窓の外には深い色の夕焼けと街の明かりが広がっている。
 コポコポとお茶をカップに注ぐ音がする。部屋中に秋の香りが広がった。

「このホテルは茶葉も揃っているみたいだね。オータムナルで良かった?」

 加地くんは私にティーカップを手渡すと、ベッドの脇に腰掛けた。

「……加地くん、優しいね」
「ふふっ。やだな。今頃気づいたの?」

 甘い味がする、と思ったら、加地くんは紅茶にハチミツを入れてくれていたらしい。
 優しい甘さが口中に広がる。

「ううん。……ごめん。ずっと前から気づいてた。気づいてて、気づいてなかった。加地くんの本当の気持ちに」

 加地くんは黙ってティーカップを持ち上げると、口を付けることなく、またすぐソーサーに戻した。
 話をしてくれるときの加地くんは楽しくて陽気な人なのに。
 沈黙を守る彼は怖い。とたんにどうしていいかわからなくなる。

「あ、あの、美味しかった。ごちそうさま」

 ティーカップを置くためにベッドから出ようと身体の向きを変える。
 すると加地くんは私の手の中のものを取り上げて、自分のと一緒にテーブルに置いた。
 たった今までとは違う、熱を帯びた目で私の顔を睨みつけた。

「香穂さんは残酷な人だね。そんなこと言われたら、僕が君を諦めきれなくなることくらい、わからない?」

 とん、と肩を突かれ、私はあっけなくベッドに張り付けられる。

「加地くん、イヤ……っ」

 言いかけて口をつぐむ。
 今日の小旅行。加地くんの『最後のお願い』というのは、こうして抱かれることも約束の一部なのかもしれない。
 だとしたら、今日は、ちゃんと、ちゃんと抱かれなきゃいけないんだもの。
 なのに、加地くんの手はいつまで待っても服の中には降りてこなかった。
 私の胸の中、彼は幼い男の子のように何度も頭を擦りつけている。

「最後のお願い、なんて話を撤回するよ。僕は君を諦めきれない」
「それは……っ」

 加地くんは私の胸の中、数センチ先で顔を上げた。

「じゃあ、言ってみて。今、僕の目の前で僕のことが嫌いだと。言えるなら言ってみて」
「そんなこと!」

 加地くんの口から飛び出す言葉が悲しくて、私は大きな声で遮った。
 私の指をいたわってくれた加地くん。ペンギン。紅茶を渡してくれた加地くん。
 今日の加地くんがいっぱい浮かんでくる。
 話すとき、私の目をまっすぐに見て話してくれる。包まれるような優しさに甘えたくなる。

 優しい人だって思う。
 ──── そう、多分、私のことを誰よりも大事に考えてくれる人だと思う。
 ……誰よりも?

 私は……。私の1番好きな人は、誰なの?

 加地くんは、私の顔のあちこちに唇を落とす。
 目と言わず、鼻先と言わず、めちゃくちゃに口づけてくる。
 思わず目を閉じると、今度は目尻にもキスされた。

「君のことが好きだよ。もし、君があの人をまだ思い切れない、というなら僕は待つから。いつまでだって待つから」
「うん……」
「ねえ、その返事は、承諾の返事だと思っていい?」



 どうしたんだろう。今は、吉羅さんがすごく遠く見える。
 遠くて。冷たくて。
 私が今、思い浮かべる吉羅さんは、私と顔を合わせることなく細い背中を見せている。

 加地くんは、私の唇を舌先で何度もつつく。そしてゆっくりとした動作で自分のシャツを脱いでいった。





「ああ、そうだ、香穂さん。先に謝っておくね」
「え? 謝るって……?」



「今夜は、いや、今夜も、かな。……今から君に無理をさせるから」
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