携帯から漏れてくる桐也の声が、物憂く響く。

「暁彦さん、悪い。俺、やっぱり余計なこと言ったかも、か?」
「いや? 全く。お前は何も気にすることはない」
「そう? ……だといいんだけどね」
「おやおや。年下のお前に心配してもらうとは、私もずいぶん落ちぶれたものだ」

 頭の芯が、聞いたことを咀嚼できない。
 私は、今、ちゃんとした演技ができているだろうか?
 お前の話はくだらない。私と香穂子の関係をお前が気にすることはない。
 そう桐也に伝えているだろうか。

「っていうかさ、暁彦さんがあいつのこと大事にしてるのを知ってるから、ちょっと心配になっただけ。
 こんなの、当人同士が話せば一気に解決だよな。俺も、なに余計なお節介をしてるんだか。じゃあ、俺、もう寝るよ」
「ああ、そうするといい。明日からまた1週間が始まる」

 頭の中で小さな羽虫が鳴いている。

 深夜0時。月曜は朝からやっかいな会議が2つ入っている。
 私は明日のスケジュールを頭の橋に追いやると、目的もなく自宅を出る。
 そして愛車に乗り込むと、夜中の高速を一気に加速した。

 香穂子が、週末、男と一緒に過ごしていた。

『ってかさ。オレがヴァイオリン教室で一緒だった男が、見たらしいよ。香穂子と葵さんが一緒にいるところ』
『……あの年頃のカップルなどたくさんいるだろう。彼らが彼らであるという根拠もないだろうに』
『今や香穂子は、ヴァイオリン界の有名人だぜ? 顔は割れてるだろ?』
『詳細は彼女から聞いている。週末はクラスメイトと旅行だと』
『クラスメイト、ね。……ま、ウソはついてない、ってことか』

 ふと、車を走らせていると助手席に香穂子がいないことに違和感を覚える。
 慣れというのはおかしなものだ。  
*...*...* Sin 6 *...*...*
 週明け、すぐにでも香穂子を誘おうかとも思ったが、この週は間の悪いことにやっかいな仕事が立て込んでいて、
 ようやく自由な時間が確保できたのは週末という有様だった。

 星奏学院の理事に就任して、2年目の秋。
 年間スケジュールの流れを把握し、私もようやく周囲を見渡す余裕が出てきた、と思ったら、
 逆に今年は、去年まで見えていなかったいろいろなところが目に付くようになった。

 歳を重ねるごとに、背負う事象が増えてくる。
 それが社会人としての報酬の対価でもあり、しがらみのある大人の世界、ともいえるのだろう。

 頭の古い人間たちは、いかに支出を抑えるかなどという守りに徹した経営をしたがるものだが、私は違う。
 より質の高い教授陣。より生徒にとって魅力的な学校経営。
 攻めともいえる投資をすることで、来年以降の生徒数を確保する。
 そして、石の中から輝く原石を探す。
 母数が多いほど、原石を見つける確率が増えるのは、小学生でも分かる論理だ。
 そのための予算なら、たとえ会計士が渋い顔をしたとしても組むべきだと考える。

 自分がさほど経理に詳しい人間だとは考えていなかったが、数字を追いかける時間というのは悪くはない。
 私自身、今は、夢中になれる対象があるのなら、なんでもいい。それに没頭したかった。

(香穂子……)

 日曜の夜、桐也の言っていたことは本当なのだろうか?

 確かにクラスメイトと旅行に行くとは言っていた。
 だが、そのクラスメイトが男だとは想定外で。
 しかも2人きりだとは、まるで考えていなかったのも事実だ。

 だが、自分の中で、妙に冷静に納得している部分もある。

 夏の喧噪が消え、風が透明になった頃、香穂子が急に大人びた、とは思っていた。
 祝賀会、突然いなくなったこと。
 その後の香穂子の沈んだ様子。

 それに……。あの身体。
 以前にもまして柔らかく、感じやすくなったのには、私以外の男の力があった、ということだろうか。
 もし正しいのなら、私もとんだ道化だ。

 仮に桐也の言っていることが事実で。そして香穂子も彼の元に行きたいと思っているのなら。
 私はあの若者に香穂子を譲っても、いい。

 ──── とはいえ……。
 彼が、私が香穂子に描いているような未来まで、確実に香穂子を導くとは思えない。
 それに、ようやく少女から女の実りを見せてきた香穂子をみすみす渡すのも、残念な気もする。

 閉塞感のある理事長室は、経理の計算をするのにはもってこいだが、今回の答えの出ないような考え事には不向きだ。
 授業中のひととき、私は人気の少なそうな森の広場に足を向ける。
 学生時代、金澤さんはよく授業を抜け出しては、こうして森の広場で時間を潰していたことを思い出す。

『暁彦。金澤くん見なかった?』
『姉さんは人が良すぎますよ。あんな人、放っておけばいいんです』
『そんなこと言わないで。金澤くん、今度のレポート出さないと、本当にマズいことになるって』
『ならば、マズいことになればいいじゃないですか。姉さんが気にすることはない』
『ふふ、暁彦ったら』

 いきり立てる私に姉さんはいつも優しかった。

 ──── 姉は、短い人生の中で幸せだったのだろうか。

 折に触れ考える。特に、秋から冬。姉さんの病が重くなっていった季節は、かなりの頻度で考え続ける。
 私が思い出す姉さんの顔はいつも笑顔だ。
 私が学院に赴任してからは、密かに私の進路を喜んでいるのか、さらに笑顔が増えてきたようにも思う。

 まあ、金澤さんも教師になった今なら、授業を抜け出す、ということはない、か。
 ……と思っていたのだが。
 私は紅葉の美しい木々の中で、寒そうに はためいている白衣を見つけ溜息をついた。
 白い布は、これ以上なく小さくうずくまって、足元にいる何かに話しかけている。

「やれやれ。どうしてこんな時間に、金澤先生はここにおられるんですか?」
「って、吉羅か。ははは、今は俺の空き時間。堂々と休んでいたって文句は言われないハズだぜ?」

 金澤さんの大きな手の下には、作り物のような子猫が2匹、じゃれ合っていた。
 その様子はさほど動物が好きではない私でさえ、目を細めるほど愛らしい。

「とはいえ、いい年した男が猫の餌付け、ですか」
「んー? なんだ? お前さん、難しそうな顔して。いったいどうしたってんだ? 大丈夫か?」
「金澤さん。……ええ、現状何1つ問題はないですよ」

 私を一瞥しただけで、状況を鋭く看破する先輩に舌を巻きながらも、私は何も告げようとは思わなかった。
 不確定な事実を口にすることは私の趣旨ではなかったからだ。

「ふぅん。……言う気ナシ、ってことか」
「なにも申し上げることはありませんからね」

 金澤さんは大げさに首をすくめると、白衣のポケットに手を突っ込む。
 香穂子と付き合い始めてからの日々は、以前にも増して早く流れていく。
 私は金澤さんの仕草で冬の到来を知った。
 金澤さんは、学生時代と変わらない飄々とした目で笑っている。

「本当か? お前さんが『問題ない』ってときは何かある、って俺は踏んでいるんだがな。
 まあいい。なにかあったら何でも言えよ〜? 俺が先輩風を吹かせることができるヤツなんざ、お前くらいなもんだ」
*...*...*
 金曜日の夜、私は香穂子とともに新たに開店したという寿司屋に行った。
 元来無口な性格というのは、こういうときには隠れ蓑になるのか、香穂子は別段私の態度に疑問を感じることはないようだ。
 いや、むしろ、先週の旅行は彼女にとって良い息抜きになったのだろう。屈託のない笑い顔を見せている。
 食い入るように見つめる私に、香穂子は微苦笑を浮かべた。

「どうしたんですか? 吉羅さん」
「うん? どうした、というのは?」
「そんな風にじっと見つめられるのは……、ちょっと恥ずかしいです」
「……私が君を気にかけるというのは、そんなにおかしな話だろうか?」

 大人らしく余裕を持って、ゆっくり香穂子に向き合うべきだ。
 頭ではそう考えるものの、醜聞を知った私にはそんな余裕はどこにもない。
 ましてや、今週は仕事が立て込んでいて、10日近く香穂子には会えなかった。
 まさか……。考えたくもないが、もしかしたら、香穂子は今週もあの若者に抱かれたのだろうか?

 食事のあと、普段なら香穂子の希望を聞きながら、その後の行き先を考えるというのに、
 私は夕陽が見たくなるとふらりと立ち寄る、人少なな海岸線に車を停めた。
 秋の残照はとうに影を潜め、西の空には上弦の月が静かに私の行動を見つめている。

「あ、ごめんなさい。少し遅くなるって母に電話しますね」

 月に1度、私と香穂子は郊外のホテルで共に朝を迎えることになっていた。
 だが今日はその日ではない。
 香穂子は帰宅が遅くなることを感じたのか、カバンの中から携帯を取り出すと慌てて母親に連絡している。

「うん……。ごめんなさい。なるべく早く帰ります。……じゃあね」
「香穂子」
「あ……。待ってください」
「もう、10日も待ったよ。私は」

 電話を切るか切らないかくらいのところで、私は香穂子の手から携帯を取り上げるとそのままダッシュボードに置く。
 そして、助手席のシートを倒すと香穂子の身体を抱きかかえた。
 薄闇の中で行う行為に、香穂子は多少緊張の糸がほぐれたのか、柔らかな身体で応える。

(……おや?)

 脇の下に小さな赤い花がある。ひっそりと咲いている様子は愛らしくもあり、またふてぶてしくもある。
 付けた当人は、密やかなこの場所なら私が気付かないとでも考えたのだろうか。
 私は月明かりの中、白く発色しているような香穂子の身体を丹念に目で追う。

「私が付けた赤い花は、10日経っても消えないのだろうか?」
「え? ……あ、はい……。そう、ですね」
「それほど強く吸ったつもりはないのだが」

 香穂子は私の視線の先を目で追って、なにか思い出すことがあったのだろう。
 はっと、顔色を変えたのが夜目にもわかった。
 ……そう。もう少し、香穂子が、大人の女性が持つ手練手管を身につけていたなら。
 私も彼女との付き合いを遊びとして割り切り、ここまで執着はしなかっただろうに。

「10日経ってもまだ残っているということは、君は傷が付きやすい身体なのか、それとも……。別の男に上書きされたか」
「吉羅さん、何を……?」

 甘い香り。指先に吸い付くような滑らかな肌。
 スカートの下に指を這わす。
 くちゅりと水を撫でるような音が、だんだん大きくなっていく。

 桐也の電話以来、私は、香穂子の身体に触れるときの自分に自信がなかった。
 私以外の男にまみれた彼女を今までどおり抱くことができるのかわからなかったからだ。
 だが、香穂子の身体は、思いもかけない妖艶な姿になって私の前にいる。
 胸のふくらみが、以前より豊かになったのだろう。
 華奢な鎖骨。胸から腰へのラインは息をのむほどの美しさだ。

「あ……っ」
「どうした?」
「ごめんなさい。その……、車のシートが」
「なにを気にしているかと思えば。それにしても、どうしてそんなに君は濡れやすいのだろう」
「し、知らない……」
「……感じている女というのは、男にとってこの上なく魅力的だがね」

 耳を塞ごうにも、狭い車内では、蜜の音をどうすることもできないのだろう。
 香穂子は、目の縁を朱に染めながら私の手の中で壊れていく。
 喘ぐ声を自分の中に取り入れるために、私は彼女の唇を自分のそれで封じる。
 香穂子の中は、私の指をちぎってしまいそうなほど、きゅっと締め付けては震えている。

 自分のものである香穂子が、自分のものにはならない、もどかしさ。
 ──── あの青年も、今の私と同じような思いを味わったのだろうか。

「……おや? 電話だ」

 ダッシュボードに放り出しておいた香穂子の携帯が震えている。

「あ……。出なくて、いい、です。お母さんには遅くなるって伝えたし……」

 私は香穂子の頂きを弄っていた手で携帯を持ち上げる。
 画面には『加地葵』の名前が光っていた。

「君の大事な人から電話だ。『加地葵』と出ている」

 若者の名を口に出した瞬間、今まで自分の中で押し隠していたどす黒い感情が一気に吹き出していく。
 彼は、今の私と同じことをしたのだろうか。
 そして、香穂子は、私としているとき以上の反応を彼に返したのだろか。
 ただ、1つ。
 香穂子を信じていたい、という思いが、かろうじて今の私を冷静な場所に押しとどめる。

「え……? 加地、くん? いや、出ないで」
「私のことは気にしなくていい。他人の会話に耳をそばだてるほど、私も暇ではないんでね」
「いや……っ」
「──── その間、私は君で楽しませてもらう」

 私はそう告げると通話ボタンを押して香穂子の耳元へ携帯を押し当てた。
 小さな機械からは慌てた声がする。

『香穂さん? 今ちょっと、いい? さっき以前僕が通っていたヴァイオリン教室の連れから電話があって』
「うん……」
『あいつ、飛行機の中の僕たちを見たと言っていた。
 軽く口止めはしておいたけど、一応君の耳にも入れておいた方がいいと思って』
「ん……んんっ」

 彼女の口を塞いでいた唇が行き先を無くしたのをいいことに、
 私は豊かに実った彼女のふくらみを持ち上げると色づいた先を口に含んだ。
 舌の上で転がすと、柔らかいばかりだと思っていたそこには固い芯のようなものが立ち上がってくる。
 首の動きだけで『やめて』を繰り返す香穂子に、私は空いている方の耳へと言葉を注ぐ。

「……いっそのことを、彼に君の声を聞かせてやったらどうかね。そうしたら彼も諦めがつくかもしれない」
「やめて、お願いだから」
『どうしたの、香穂さん。様子がおかしいよ。今、どこにいるの?』
「ごめんね。電話、切るね」
『香穂さん、どうして……』
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」

 香穂子は早口でそれだけのことを言うと、電源を落とした。

「吉羅さん……。私、聞いて欲しいことがあるの。どうしても話さなきゃ、いけないの」
「なんだ? もう欲しくなったのか」
「違うの、私……っ」
「……私が今、どういう状態になっているか知らない君でもあるまい」

 期せずして知った真実。
 たった1本の電話で、すべての事象がつながり、1本の線になった。

「吉羅さん、聞いて。お願い」

 溢れ出る涙をぬぐおうともしないで話がしたいという香穂子を無視して、
 私は自分の分身を取り出すと、まっすぐに彼女の中に押し込んだ。
 普段なら、彼女の蜜を何度もすりつけて、入れることなく何度も彼女の入り口を刺激して。
 懇願されてからでないと1つになることはなかったのに。

「……香穂子。君はいつもにまして感じているようだ」
「吉羅さん、いや……っ」
「彼にはどんな風に抱かれた? ……こうか?」
「ち……、違う!」
「ほう。『違う』とはどういう意味かな? ……抱かれていない?
 それとも、こんな強引な振る舞いはされなかった、ということだろうか?」

 ピクピクと震える彼女の中は、いっそう強く私を締め付けてくる。
 気を抜けば一気に達してしまいそうなほどキツく、熱い。

「くっ……」

 今日の私はおかしい。狂ったように彼女の中に自身を押し込んでは、抜き出す。
 こんなことをしたら、香穂子は私の元から離れて行ってしまうかもしれない。
 わかっていても身体は制御不能。
 身体中の血液が沸騰しているかのように、脚の間の猛りは、いっそう強く大きくなった。

「んっ!」

 何度も強く突くことで、彼女の身体がずり上がったのだろう。
 香穂子の頭が、鈍い音とともに助手席のヘッドレストにぶつかった。

「……大丈夫か? 香穂子」

 私は我に返ると、香穂子の上半身を抱きかかえる。
 そして彼女の頭に手を当てると、香穂子の頬に自分のそれをすり寄せた。
 私を受け入れながら泣いている彼女は、どんな罪があったとしても許してしまいたくなる儚さがあった。

「痛くないか?」
「吉羅さん……っ」

 香穂子は、信じられないといった表情で私を仰ぎ見る

「吉羅さん……、こんなときに、優しすぎます」
「……私は君に優しさしか示すことができない。……泣くことも、君を殴ることも、できそうにない」
「吉羅さん」
「君は、私のそばに戻ってくるんだ。……いいね?」

 私は香穂子の弱いところをゆっくりと刺激する。
 香穂子の中は、私にすがりつくように蠢き始めた。





 香穂子は枯れることのない泉のように蜜を滴らせる。
 そして達するとき、切れ切れの声で3度、私の名前を呼んだ。
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