*...*...* Mix 2 *...*...*
 慎重にクリームチーズを解凍する。
 200g。この前は30秒でちょうどよかったけど、加熱しすぎは厳禁。
 私はレンジの中のチーズの端を見て、数秒前に取り消しボタンを押した。
 
「あれ? 香穂子、ケーキ作り? 今日は市の音楽祭があるんじゃなかったっけ?」
「ん……。出番はね、午後からなの。だから、今はちょっとのんびり」
「成長したねー。去年は、オロオロソワソワしっぱなしだったのに」
 
 憎まれ口を叩くお姉ちゃんを尻目に、私はせっせとクリームチーズをかき混ぜる。
 土台になるクラッカーは、もう型に敷き詰めてあるし、あとは生地を流し込めばOK。
 ベイクドチーズケーキは、手順が多少前後してもあまり味には影響がない。
 チーズがクリーム状になったら、グラニュー糖。
 そして計量済みの、卵、はちみつ、生クリーム、レモン汁も順番に入れる。
 ラウンド型も見栄えがするけど、今日はパウンド型で焼いて、あとでスティック型に切ろう。
 ワックスペーパーで包めば、吉羅さんも食べやすいかな……。
 
「よし、生地完成、っと。……えへへ、ケーキ作りもかえって気分転換になっていいんだよ?」
 
 私は生地をゆっくりと型に流し入れながら反論する。
 あまり甘いモノが得意じゃない吉羅さんに、この前このケーキを持っていったときのことを思い出す。
 おそるおそる差し出したにも関わらず、ワインに合うと言って、喜んでくれたっけ。
 今日のコンサートを聴きに来てくれるって言っていたから、なんとか手渡すタイミングがあるといいな。
 
 って、本当なら、一緒に演奏してくれる土浦くんをメインに考えなきゃいけないかも、だけど。
 
 吉羅さんと一緒に過ごすようになって、もうすぐ9ヶ月。
 3ヶ月を過ぎた頃から。……そう、私が高3になってから。
 吉羅さんは2人で会うたびにいろいろな贈り物をしてくれるようになった。
 最初は通学に使う革靴。財布。小さなものから始まって。
 夏を過ぎる頃は、コンサートで着るドレスやバッグ。アクセサリー。
 話の端々で、私の好みを察してくれているのだろう。
 吉羅さんがプレゼントしてくれたもので私の気に入らないモノは1つもなかった。
 
 ──── ただ……。
 
 そこまで考えて、自然と頬が熱くなる。
 最初の方はそうでもなかったのに。
 最近の吉羅さんは、2人きりのときに贈り物を身につけるように命令する。
 命令、という言葉よりもっと相応しい言葉があるのかもしれないけれど、
 私にほとんど拒否権がない選択肢は、命令にも近い。
 
 3日前にもらった、香水。
 むせかえるような花の匂い。思い出すのも恥ずかしいほどの行為。
 あの香りを感じるたび、私は、理事長の吉羅さんじゃない。
 鋭い目を持った、一人の男の人としての吉羅さんを思い出すのかな。
 
「そうそう。あんたさ、今はチーズケーキの匂いしかしないけど、最近、香水変えた?」
 
 口ではイジワルを言いながら、お姉ちゃんはさっさとキッチンにある汚れ物を洗ってくれる。
 そして私の胸元にクンクンと鼻を寄せて不思議そうに首を傾げた。
 
「う、ん……。わかっちゃう? あれ? でも、今は付けてないよ?」
「んー。まあね。付けた瞬間はよくわかるね。あ、でもそんなにキツいってワケじゃないんだよ? 安心して」
「……よかった。あまり匂いがキツイと、周りの人に失礼だもの」
 
 お姉ちゃんは眉を上げると したり顔で頷いている。
 
「ってか、あんた、彼氏さんによっぽど愛されてるのね〜。まあ次から次へと」
「で、でもね……。なんだか、私、申し訳なくて」
「は? なんでまた」
 
 お姉ちゃんはワケがわからないといった風に首を振る。
 その様子に、私自身が感じていることは本当に正しいのかどうかわからなくなる。
 須弥ちゃん。乃亜ちゃん。
 周りの女の子たちも、年齢差のある彼と付き合っている人がいないから、耳から入る情報も少ない。
 
「香穂子?」
「うん……。そのね、私、男の人と付き合うのが初めてでよく分からないんだけど……」
「ふむふむ」
「その、付き合い始めたら、お互い平等、っていうか、一緒、っていうか。
 気持ちも、その、プレゼントの交換も、同じ量っていうのか、同じ大きさがいいなあ、って思ってて」
 
 私の話が意外だったのだろう。
 お姉ちゃんは呆れたようにぽかんと口を開けた。
 
「その、私、もらってばっかりだから。……あ、ケーキ、あと少しで焼けるかな?」
「……そりゃ、その分、相手は、香穂子の若さをもらってるんだと思うけど?」
 
 オーブンの中のチーズケーキは、あと15分、というころになってようやくむくむくと成長している。
 このケーキは、最初に一気に膨らむとしたら、それは温度が高すぎるせい。
 ……うん、今回もイイカンジに焼けたかも。
 
「あれ? お姉ちゃん、なにか言った?」
 
 焼き色に夢中になって、お姉ちゃんの言葉が私の頭上を素通りする。
 あわてて聞き直すと、お姉ちゃんは今度は大げさに肩をすくめた。
 
「っと。若いあんたにこんな下世話なこと言わなくてもいいか」
「お姉ちゃん?」
「ま、今のあんたは高校生だしね。貢ぎ物は今はありがたくいただいておくとして。
 来年、大学入って、バイトして。初めてのバイト料でお返しする、っていうのはどう?」
 
 私はお姉ちゃんの言葉に頷くと、吉羅さんの後ろ姿を思い出して微笑んだ。
 吉羅さんは、どんなものを贈ったら喜んでくれるだろう。
 考えるだけで、胸の奥が温かいもので包まれる。
 そうだ、今まで私がプレゼントしてもらったものの男性向けのモノを贈るのもいいかもしれない。
*...*...*
「よっ。香穂。どうだ? 調子は」
「ありがとう……。ちょっと緊張してるけど大丈夫」
 
 コンサート開催2時間前の控え室。
 着替えを済ませた私と土浦くんは演奏前の最後の調整をしていた。
 土浦くんの隣りで、加地くんは目を輝かせてプログラムを見ている。
 
 調整と言っても、今回は参加団体が多くて、演奏直前の10分しか音を合わせる時間はないらしい。
 ……だけど。
 楽器をともに奏でることも大切だけど。
 こうして、お互い、顔を見て。顔色を知って。
 言葉を交わし合うことも、実はとても大切なことなんだ、って今は知ってる。
 
「ふふっ。今日は僕、すごく楽しみにしてきたんだ。2人とも応援してる」
「あはは、加地くんが聴いてくれてると思うと私も心強いな」
 
 土浦くんからもらったのだろう。
 加地くんは胸元に、このイベントの主催者を示すIDカードをぶら下げている。
 そして手にしていた紙袋をそっと鏡台の前に置いた。
 
「はい。これ、いつものチョコレートとアイスティだよ。土浦もこのチョコレートなら大丈夫でしょ?」
「おう。いつも悪いな。お前のせいで口が肥えちまったぜ」
「ふふっ。演奏前の緊張には、カカオの比率が高いチョコが身体にいいんだよ?
 それに、ストレートのアイスティ。後味がスッキリしているから、緊張で口が渇くこともない」
 
 加地くんはそう言って眩しそうに笑うと、いつでも飲めるようにとストローをさしてくれる。
 ……いよいよ、本番。
 どうか、吉羅さんが喜んでくれる演奏ができますように。
 
「香穂さん、そのドレス、とてもよく似合ってる。それに、今日はとてもいい香りがするね」
「え? あ……。ありがとう」
 
 ぱっと目には地味な、濃いグレーのドレス。
 だけど歩くたびに揺れるドレープの隙間には、細かなビーズの刺繍がしてある。
 日頃履き慣れない高いヒールは、今まで見たことがない景色を連れてくる。
 でもなによりも私が息をのんだのは、背中のデザインだった。
 正面から見ると首元が詰まっているこのドレスは、背中は鋭いVの字で、腰の位置までスリットが入っている。
 背骨に風を感じる分だけ、顔が赤らんでくる。
 
『君が知らない君の魅力を、観衆に見せつけてやろうと思ってね』
 
 このドレスをプレゼントしてくれたときの吉羅さんの表情が浮かんでくる。
 捲り上げられた裾。
 ゆっくりと背骨を這っていく舌。
 突き上げられることで形を変える、恥ずかしすぎる肢体までも。
 
「な、なに……?」
 
 ふと顔を上げると、加地くんの食い入るような視線にぶつかる。
 どきりとして、今度は土浦くんの方に顔を向ける。
 土浦くんは、私を上から下まで眺めると屈託のない声で笑った。
 
「ははっ。馬子にも衣装ってか? もう少し、お前もこうボリュームがあるといいんだが」
「あはは! い、いいの。私、まだ成長期だから。もう少ししたら別人になるもん」
「そりゃいいぜ。もう少しってどれくらいだ? 100年後か?」
 
 土浦くんの笑い声にすがるように、私も冗談で返す。
 ツボにハマったのか、土浦くんは私の頭にぽんぽんと手を載せた。
 
「せっかくの機会だ。加地、お前も参加すればよかったのにな」
 
 土浦くんはさらりと加地くんに言う。
 
 そういえば、どうして吉羅さんは加地くんを誘わなかったんだろう。
 デュオよりもトリオ。トリオよりもカルテットの方が音が広がるし、迫力も違う。
 厳密なルールがないような今回の舞台なら、3人の方が演奏曲にしても、選択が広がったんじゃないかな。
 この話を聞いたばかりのころ、吉羅さんに尋ねてみたことがある。
 だけど、そのときの答えは、Noを意味する沈黙だった。
 
「突然すまないね。失礼するよ」
 
 細くドアの隙間が空いていたからだろう。
 聞き慣れた、低い声がすると思ったら、そこには吉羅さんが立っていた。
 吉羅さんは、カツリと靴音を立てて控え室に入る。
 そして、私と土浦くん。それに加地くんを一瞥すると、普段と変わらない口調で言った。
 
「日野君も土浦君も頑張ってくれたまえ。今回のコンサートでよりいっそう星奏の名を知らしめてくるように」
 
 
 
 
 
 加地くんは一瞬私と吉羅さんの顔を見比べたあと、ふぅ、と小さな息をついた。
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