*...*...* Mix 3 *...*...*
 コンサートが無事に終わった翌日。
 8時過ぎの正門前で私は思い切り伸びをする。
 朝陽の中、ファータの像が瞬きするように10月の風に揺れる。
 
「おはようなのだ! 日野香穂子」
「あれ? リリ?」
「我が輩、今日の放課後、お前に話があるのだ。なんとしても昨日の想いを伝えたいのだ!」
 
 目を凝らしてみると、像の後ろで、リリが顔だけ出して笑っている。
 胸の前で小さく手を振ると、リリは安心したのか、ふっと姿を消した。
 高2の春のコンクールが終わった今でも、こうしてファータと話ができるのは、私と吉羅さんの2人きり、らしい。
 吉羅さんは、リリの姿が見えることをあまり好ましく思っていないみたいだけど。
 私自身は、2人だけの秘密が増えたようで少し嬉しい。
 
「おっはよ〜。香穂。アンタ、昨日すごかったねえ。私、久しぶりに聴いて感動したよ」
「あ、天羽ちゃん、おはよう。あれ? 聴きに来てくれたんだ」
 
 ぽんと肩を叩かれ振り返ると、そこにはすごい量の学内新聞を抱えた天羽ちゃんが立っている。
 ……って一面のこの写真って……? あれ? もしかして、私?
 
「ふふーん。明け方まで記事書いて、今、印刷してきたんだ。
 いいでしょ? この見出し。『土浦梁太郎・日野香穂子 夢のジョイントコンサート』」
 
 紙面の上、一番目を引くのは、『夢のジョイントコンサート』という大きな文字。
 コンサートに『夢』って言葉が付くのは、恥ずかしさにフタをすればいい、として。
 その下にある土浦くんと私の写真は、天羽ちゃんのイチオシの写真なのだろう。
 普段の私たち以上に大人っぽく、素敵に撮れてる。
 だけど、その写真よりもインパクトのある色遣いで書かれている見出しだった。
 
「『こんな二人を支える影の男』……、ってなあに?」
「ふっふっふ。香穂〜。よくぞ聞いてくれた!
 せっかくこの新聞を手に取ってくれるなら、表だけじゃなく裏まで読んでもらいたいじゃない?
 で、この天羽、謎かけをしておくのさ。この『影の男』ってのは誰だろう、ってね」
 
 『男』っていう文字を見て、勝手に動揺している自分を隠すように、私は天羽ちゃんから新聞に目をあてる。
 昨日コンサートが終わったあと、私は吉羅さんの指定した場所まで行くと、吉羅さんと一緒に過ごした。
 二人で車に乗っているところは誰にも見られていないと思うけれど、鋭い天羽ちゃんのことだもの。
 ……どうしよう。
 冗談でも吉羅さんの名前が出てきたら、私、自分でもどんな顔をするか自信がない。
 
「じゃーん! 『影の男』! その男の名は、『加地葵』!!」
「そ、そっか……。でも、そんな言い方、加地くんに悪いよ」
 
 吉羅さんの名前が出てこなかったことにほっとしながらも、私は慌てて周囲を見渡した。
 加地くんは『影』じゃない。
 確かに、今は受験勉強もあってちょっとヴィオラから離れてるけど、影の人じゃないもの。
 
 加地くんや、月森くん、土浦くん。
 それに卒業した火原先輩や柚木先輩。後輩の志水くんや冬海ちゃん。
 みんなとアンサンブルコンサートを開いたのは去年のことだというのに。
 高3になった今、加地くんがヴィオラを弾いていたということを話題にする人は少ない。
 
 元々彼は、音楽以外に秀でているところが多くて。
 彼にとって音楽は、数ある才能のウチの1つだ、っていうのはわかるけど……。
 
 高3になってからの加地くんは、音楽の話をしている私や土浦くんを、ちょっと遠くを見るような目で見るときがある。
 その理由を探したとき、私はある1つの考えに辿り着いた。
 ──── それって、加地くんの自己評価の低さと関係があるんじゃないか、って。
 
 『支える』なんて言葉、正しくない。
 今でも加地くんは、私や土浦くんと『音楽をともにする仲間』って思ってるんだもの。
 
「ごめんごめん。香穂」
 
 天羽ちゃんは、私を拝むように両手を顔の前で合わせると、いきなり耳元に口を寄せた。
 
「アンタがこの記事見て、ちょっと居心地が悪くなるってこと十分判っててやってるアタシが悪いのよ。
 だけどね正直、ここだけの話、加地くんをネタにすると、発行部数が3割増しなんだよ〜」
「そうだったんだ……」
「アンタたちってホントに仲がいいじゃない? だからねー。
 定期的にこの手の話題になるのは仕方ない、っていうか。ま、さらっと流してよ」
「ん……。2人に仲良くしてもらってるのは本当だけど……」
 
 徹夜で書いた新聞に反応があることが、天羽ちゃんにとってすごく嬉しいってことはよくわかる。
 私だって、コンサートの感想や、意見。どんな些細なことだって嬉しいんだもの。
 
 報道部のこと。年明けにすぐやってくる、受験。
 お姉さんとの二人暮らし。天羽ちゃんは、週末の家事も頑張ってる。
 だから、天羽ちゃんが喜ぶことなら、私だって、イヤとはいえない、けど。
 
「じゃあね。ひとっ走り、音楽科の柊館まで行ってくるよ」
「うん。気をつけてね」
 
 私の声に、天羽ちゃんはヒラヒラと手を振って走っていく。
 ──── 見出しの言葉。加地くんが考えすぎないでいてくれるといいな。
*...*...*
 空気が紅葉したように朱くなる放課後。
 私は、教室の掃除もそこそこにヴァイオリンケースを持って、屋上に向かう。
 10月の空は手が届きそうもないくらい高くなっている。
 そこには夏のような日差しの強さはなく、すぐ近くに秋が迫っているような寂しさがある。
 ──── 私も、あと半年で卒業する。
 
「こんにちは。美夜さん」
 
 私は誰にも聞こえないような小さな声で壁の落書きに挨拶する。
 ヴァイオリンが好きで。このヴァイオリンとともにある生活が好きで。
 そんな私を見ていてくれる吉羅さんが、すごく好きで。
 誰にも話せない恋だけど、吉羅さんのお姉さんである美夜さんは、私の中では親友と同じ位置にいる。
 本当なら、美夜さんは私と今、同じ年のハズなのに。
 おかしい。いつも美夜さんは、私のことを励ましてくれるお姉さんポジションにいるんだもの。
 
『……まったく、暁彦にはしょうがないわね』
 
 私の想像の中の美夜さんは、吉羅さんのどんな話をしてもコロコロと笑い声を立ててくれる気がする。
 
「あのね、今日は昨日の曲、弾きます。土浦くんが頑張ってくれて、とても褒めてもらえたんですよ?」
 
 音楽やヴァイオリンにあまり詳しくない人にも楽しんでもらえるように。
 そう思って選んだ曲はポピュラーが3曲。クラッシックが2曲の計5曲。
 ポピュラーは、小さい人たちが喜んでくれたのが嬉しかったな。
 私みたいに大人になってから夢中になるのも悪くはないけれど、
 幼い頃から音楽と一緒にいた、土浦くんや加地くんの話を聞いていると、やっぱり正直言って羨ましい。
 小さな思い出の断片に、音楽の欠片があるなんて。
 
「おお! 日野香穂子。頑張っているのだな」
「あ、リリ! 今朝はありがとう」
「お前が頑張っているのが、我が輩嬉しくてな。練習中にもかかわらず しゃしゃり出てきたのだ!」
「あはは。てっきり吉羅さんへの伝言があるのかと思ってた」
 
 吉羅さんにいわせると、リリは会議の真っ最中だとか、どうしても手が離せない仕事の最中に、
 キラキラと細い棒を振り回して話しかける、らしい。
 そっけない態度を取らざるを得ない吉羅さんと、それを冷たいと思うリリと。
 お互いの言い分を聞きながら、最近の私は2人のメッセンジャー役もやっている。
 
 だけど、本当は知ってる。
 吉羅さんは。リリも。お互いのことをとても信用してるんだよね。
 
「じゃ、弾こうかな。『小さな木の実』、小品だったのに、秋らしい曲だからかな。すごく評判がよかったの」
「うむ。我が輩、心して聴くのだ」
 
 『小さな木の実』が、ビゼー作の『セレナーデ』のアリアであることを知っている人はあまりいない。
 だけど、小学生の唱歌として入っているこの曲は、もの悲しい旋律が日本人に合うのかな。
 土浦くんの前奏が鳴り始めたとき、会場の空気が一変した。
 手放しに褒めてくれた、というわけではなかったけれど、吉羅さんも楽しめたって言ってくれたもの。
 
「ふふっ、香穂さん発見。やっぱりここにいるんじゃないか、って思ってた」
「うぉ!! なんだなんだ、加地葵! どうしてこの瞬間に来るのだ!!」
「わ、加地くん。……びっくりした。どうしたの?」
 
 加地くんには、ガックリと肩を落としているリリの姿が見えない。
 私は構えていた弓を戻すと、加地加地くんを見上げた。
 目の前の加地くんは、うっすらと頬を高揚させて、日頃見慣れている私でさえ目を瞠るくらい美しい。
 
「あ、昨日は差し入れ、どうもありがとう。全部食べきれなかったから、今日もまた帰ったらいただくの」
「どういたしまして。ふふ。僕は『君を支える影の男』だから」
 
 天羽ちゃんの新聞に書いてあった『支える』という言葉は、加地くんにどんな風に響いているんだろう。
 おそるおそる顔を見上げると、加地くんはどうしたの? と言いたげに笑っている。
 ……今朝の私は『考えすぎ』ってことだったら、いいな……。
 
 加地くんは片頬に笑みを浮かべたまま、クラスメイトの噂話のような軽い口調で話し続ける。
 
「……僕はね、影の男でいい、って思っていた。
 音楽の才能がない僕は、香穂さんを支えることに存在価値があるんだ、ってそう思っていたから」
「ま、待って! そんなことない。どうして加地くんはいつもそんな風に言うの?」
「日が差さなきゃ、影は生まれない。
 香穂さんは太陽で、僕は一生、その存在を際ただせる影で居られたら、それでよかったんだ」
 
 どんな返事をしても、加地くんには届かない気がして、私は黙って加地くんを見上げた。
 
「昨日、なんとなく僕は気づいてしまった。君が綺麗になった理由について」
「はい? 加地くん、なに言って……」
「香穂さん、付き合ってる人がいるよね? 僕の知ってる人」
 
 じっと正面から見据えられて、言い訳を考えていた私の唇は諦めたように動くのを止める。
 
「……君は、あの理事長と同じ香りがする」
 
 カチリと合う視線は、いつもの加地くんじゃない。
 どこかで見たことがある色。とても、よく、見る色。
 ああ、そうだ。
 この目の色は、2人きりになったとき、吉羅さんが見せる色。
 ──── 男の子、じゃない。男の人の視線だ。
 
「君の香りととても似ている。……僕、これでも鼻は利く方なんだ」
「そんな。その、香りなんて、どれもきっと一緒だよ?」
 
 慌てて言う私に、加地くんは首をすくめると、一歩私に近づく。
 距離を保とうと、一歩下がった私の背中が壁に当たる。
 吉羅さんのメッセージが書かれている壁。当たり前だけど助けてくれない。
 どうしよう……。
 
 加地くんは、ふっと緊張をほどいたような優しい顔になると、降参、というように、胸の前で両手を挙げる。
 
「ふふ。ごめんね。そんなに君を怖がらせるつもりはなかったんだ。
 じゃあ、香水なんてどれも一緒。そういうことにしておいてあげる。
 たまたま、香穂さんと理事長は香水をつけていただけ、ってね」
「う、うん……。よかった。今の加地くん、怖かったよ」
 
 ほっ、と身体中の力が抜ける。膝がガクガクしてるのがわかる。
 加地くんの態度も怖いし、吉羅さんとのお付き合いが知られるのも怖い。どっちも怖い。
 
 
「香穂さん……」
 
 
 弱々しい声がする。
 その瞬間に、私の視界を学院の制服が覆う。
 
「知ってた? 親しい男女が似通ってくることを、Mirroring って言うんだ。ミラー。つまり鏡、ってこと」
「加地くん、お願い。離して」
「香穂さんと理事長は、雰囲気が似てきたよね」
 
 この香りは違う。いつもの、穏やかな吉羅さんの匂いじゃない。
 もっと爽やかな、夏の柑橘類のようなカラっとした香り。
 
「……苦しいくらい君が好きだよ。手に入らない、と思っても、それでも……」
「やめて! 私……っ」
 
 とっさに思い切り加地くんの胸を押しやる。
 加地くんは、抵抗する私をこれ以上なんとかしようという気はなかったのだろう。
 ひょいと風見鶏へと向かう階段を掴むと、苦しそうに眉を寄せた。
 
 
 
 
 
「……僕はね、今日ほどいろいろなことに気づいてしまう自分を、憎んだことはなかったよ」
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