「うう、緊張する……。お邪魔、します……」
 
 主のいない部屋はしんと静まり返って私を迎える。
 吉羅さんとおつきあいを始めてからちょうど1年。
 今まで一度も来たことがなかった吉羅さんのマンションは、駅から少し離れた高台にあった。  
*...*...* Joy 2 *...*...*
 吉羅さんの近くにいるようになってもうすぐ1年経とうとしている。
 だけど、理事長室でも、車の中も。当たり前だけどいつも吉羅さんが近くにいた、から。
 こんな風に、吉羅さんのいない吉羅さんの場所に1人きりでいるのは初めてのことかもしれない。
 
「うーん。吉羅さん、帰るの7時って言ってたっけ。お料理、大丈夫かな」
 
 私は、テーブルの上に置いた箱2つとポインセチアをモチーフにしたリースに目をやる。
 
 クリスマスが近づいてくる頃、お姉ちゃんと2人きりで話す機会があった。
 秋が始まったばかりの頃、『もらってばかりで申し訳ない』って私が言ったのを覚えていたのだろう。
 お姉ちゃんは私に学校の様子を尋ねたあと、声をひそめて吉羅さんの話を始めた。
 
『で? あんたはどうするの? クリスマス。あの理事長さんと一緒に過ごすんでしょ?』
『うん。あのね、プレゼントにちょっとした食べ物を持っていこうと思ってるんだけど……』
 
 私が思いついたちょっとした食べ物。
 それは、この1年の間に吉羅さんと一緒に行ったお店のテイクアウトだった。
 吉羅さんと親しい間柄のシェフは、吉羅さんが席を外したときによく私に彼の好物を教えてくれた。
 なかには吉羅さんの小さい頃からのお付き合いの人もいて。
 吉羅さんの高校時代の話が聞けたときは、むっとしている吉羅さんには申し訳なかったけど、とても嬉しかったのを覚えてる。
 
 ぱっと目は冷たい感じの人なのに、やっぱり人を惹きつける魅力が吉羅さんにはあるんだろう。
 どのシェフも、次に吉羅さんが来るときにはこんな食材を食べさせたい、なんて意気込んで話すのを聞いて、
 クリスマスにサプライズで吉羅さんの好きなモノを出せたら素敵だな、って思ったんだ。
 
『ふふーん。『だけど』ってことは多分、予算がナイ、とか?』
『うう、図星、です』
 
 普段、お礼の気持ちも込めて手作りのお菓子は渡してるけど、クリスマスなんだもの。
 自分では作れないような『特別』な感じ、に憧れる。
 ちょっと背伸びをした感じ。洒落てて、大人っぽくて。吉羅さんがびっくりしてくれるものがいい。
 だけど、一番の問題がその『予算』だった。
 今年はごめんなさいって手作りで許してもらって、来年、目一杯頑張る、っていうのがいいのかな。
 
 って考えて、知らないウチに顔が熱くなっているのに気づく。
 来年だけじゃ、ダメ。その次も、その次の年も、私、ずっと吉羅さんと一緒にいたいんだ。
 
 お姉ちゃんはそんな私の横顔をじっと見ていて、急になにを思ったのか、私の頭をくしゃくしゃと撫で始める。
 
『ったく。しょうがないなあ。じゃあ、これはあんたの出世払い、ってことで。今回は私が持ってあげるよ』
『ほ、本当?』
『可愛い妹のためなら、お姉ちゃんも一肌脱ぐわよ! ははは』
 
 年が離れているせいか、半分お母さんのようなポジションのお姉ちゃんに私は思い切りハグをする。
 でもでも、出世払い、なんて言ってないで、できるだけ早くお返ししなきゃ。
 
 私はそんなお姉ちゃんとのやりとりを思い出しながら、改めてそろそろと周囲を見回した。
 モノトーンでまとめられたシンプルな部屋。
 東南の2つの面がガラス張りになっていて、眼下に夜景が広がる。
 白いソファが現実味のない空間にふわりと浮いて見える。
 
「そ、っかぁ……。そうだよね、吉羅さん、星奏学院の理事長なんだもの……」
 
 雑誌の中から出てきたような高級感が満ちている部屋で、
 私はすっぽり身体が沈んでしまいそうなソファに座ると、はぁ、と息をついた。
 
『共通の話題がないのはお互いさまだ』
 
 付き合い始めたばかりのころ、吉羅さんはそう言って笑ってたのを思い出す。
 付き合いが長くなるにつれ、私は吉羅さんに慣れ、吉羅さんは私に合わせてくれるようになって。
 少しずつ距離は短くなってきたのかな、って思えたけど、改めてこの部屋を見ると不安になる。
 年齢も、環境も。考え方も、生き方も、全然私、釣り合っていない気がする。
 
 ……吉羅さん、私と付き合ってて、いいのかな。……私で、満足してくれてるのかな……。
 
 同級生でもすごく色っぽい子もいるし、物知りな子もいる。話が尽きないほど話題が豊富な子もいる。
 だけど、私、そのどれにも当てはまらない。
 なにか1つ、私達の共通項を探し出せと言われたら、リリが見える、っていうことくらい。
 しかもその事実は、おおっぴらに人に言えるようなものでもない、ような……。
 
「そうだ。ヴァイオリンを弾いて待っていよう」
 
 このまま考えていても気が滅入るばっかりだもん。
 私はソファから勢いよく立ち上がると、ヴァイオリンケースから相棒を取り出す。
 確か、この部屋は防音装置が付いているって話だったから、思い切り弾いても大丈夫なはず。
 
「えーっと、1人でコンサートしちゃおうかな。……えっと、日野香穂子のクリスマスコンサート、行きまーす!」
 
 私はふるふると頭を振って雑念を払うと、夜景に向かって一礼する。
 星と、イルミネーションと。今日は素敵な観客が聴いててくれる。
 
 高2になって。リリに声を掛けられて。
 その日から私はヴァイオリンに夢中になった。
 なかなか自分の願う音が出せないとき。アンサンブルメンバーの脚を引っ張ることが続いたとき。
 どんなときもヴァイオリンは私の近くにあった。
 今は……。どうだろう。
 吉羅さんと一緒にいるときに浮かぶ、不安も、哀しみも。喜びも全部。
 
 ──── きっとこの子は、吉羅さんよりも私のことを知っている。
 知って、近くにいてくれている。励ましてくれる。
 
 弾いたあとは暗い気持ちや不安はすべて溶けてなくなる。
 残るのは吉羅さんが好きって気持ちだけになる。
 音楽がある。ヴァイオリンがある。
 今、この一瞬に陶酔できる私は、多分、世界一幸せな女の子だ。
 
(……吉羅さん、伝わりますか?)
 
 去年みんなで弾いた『第九』。『諸人こぞりて』。それに、吉羅さんから初めてもらった楽譜、『ジュ・トゥ・ヴ』
 
 初めて、『ジュ・トゥ・ヴ』の意味を知ったときと、今。私はどんな風に変わっただろう。
 
 抱かれるという意味もよくわかってなかったころ。彼の動きについていくのに精一杯だった。
 痛みの代わりに快感が浮かび始めたころ。
 猫のような声を上げる自分が恥ずかしくて、ろくに彼の顔を見ることができなかった。
 1年を迎えようとしている今。
 私だけじゃない。彼も私と同じように気持ちよくなって欲しいって思う。
 
 『ジュ・トゥ・ヴ』。……『あなたが欲しい』
 ふふ、ちょっとクヤしい。
 ヴァイオリンを通してなら、私、こんなに素直に自分の気持ちが表せるのに。
 現実はまだ、口も態度も女の人になりきれない。
 
 カチャリとドアが開く音がする。……帰ってきた、かな?
 
「吉羅さん、お帰りなさい!」
 
 私はヴァイオリンを置くことさえもどかしくて、そのままパタパタと玄関に向かった。
*...*...*
「どうした? ただいま、と言ったはずだが?」
「う、ううん。すみません。びっくりしちゃって……」
 
 今日は気の張る会合だったのかな。
 普段はスーツ姿の吉羅さんが、今日はタキシード姿で、窮屈そうに真っ白な襟に手を当てている。
 角張った、清潔そうな指のラインや爪先に、勝手にドキリと胸がなった。
 端正な顔とそれに続く肩の線が、日頃見慣れている私にもハッとするほど美しい。
 どうしよう。……目が離せないよ。
 
「ヴァイオリンを弾いていたのか?」
「は、はい! この前、この部屋が防音だ、って聞いたから、ちょっと弾いていました」
「選曲は?」
「う……。そのね、課題曲とかじゃなくて、指馴らしっていうのかな。……えっと、クリスマスの曲を」
「そうか。……すまない。ちょっと先に着替えてくる」
 
 吉羅さんは私の頭に手を置くと、いったん寝室に向かって。
 やがて、ゆったりとした濃いブルーのガウンを着て戻ってきた。
 ……どうしたら、いいの? ……目が離せない。
 よく女の子の雑誌に、『このファッションでカレシの目をクギづけ』なんて特集が組まれていたりするけれど。
 男の人でも、こんな風に女の子の視線をクギづけにすることが、できるんだ。
 
「香穂子? どうしたんだ?」
「あ! えっと、ごめんなさい。吉羅さん、夕食、まだでしょう?
 そのね、今日は、クリスマスのお料理、たくさん買ってきました」
 
 テーブルの上の2つの大きな箱とそれに、ポインセチアをモチーフにしたクリスマスリース。
 シックな部屋がポインセチアの赤色で一気にクリスマスめいてくる。
 Merry Chirstmas。
 こんな日に、こんな近くで大好きな人の顔が見られるなんて。
 
「このリースは、君が?」
「はい! お花は好きなんです。あ、これも、ヴァイオリンを始めてからかも……。
 たくさん花束をもらって家で飾るようになってから、すごく興味が出てきました」
「この料理は?」
「あ、これは、吉羅さんとよく行くお店のシェフに無理を言って作ってもらったんです。
 サプライズにするんですって言ったら、すごく乗り気になってくれて」
「ああ、この料理は平井さんだろうか?」
「はい! 当たりです」
 
 吉羅さんの目尻が細くなる。
 吉羅さんを小さい頃から知っているシェフが作る料理は、見ているだけで楽しくなってくるものばかりだ。
 日頃あまりたくさんの量を食べる人ではないけれど。
 最近は仕事が忙しすぎて、ちゃんと食事も摂れてないみたいだから。
 今日くらいはゆっくり楽しんでくれたらいいな……。
 
「平井さんがね、『ボクからも暁彦さんに』って、ワインもプレゼントしてくれました。これも、よかったら」
 
 私はいそいそと箱の中に入っている料理を取り出してテーブルにセッティングしていく。
 オマールのゼリー寄せ。サーモンのいくらクリーム。牛フィレの赤ワインソース。
 全部吉羅さんの好きな料理ばかりだ。
 
 あれ? カードが入ってる。
 自分で開けようか迷って、吉羅さんに渡す。
 吉羅さんはカードを一瞥したあと、照れくさそうな笑みを浮かべた。
 
「平井さんも人泣かせな」
「吉羅さん?」
 
 
 
「カードにはこう書いてあったよ。……『君と君の大切な人が幸せでありますように』、とね」
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