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*...*...* Destiny 3 *...*...*
「えへへ、いいところ見つけちゃった。今日はここで練習しよう」
 
 寒々しいほど閑散とした放課後の講堂で、 私はピアノの端の場所をゲットすると、いそいそとヴァイオリンケースを開いた。 講堂が空いててよかった。 講堂の端っこにある金澤先生用の指導室に、楽譜を返しに行くのに都合がいいもの。
 ヴァイオリンケースを開くのはとても好き。 開く瞬間、ヴァイオリンが優しく私を見てくれている気がするから、すごく好き。 そんなことを伝えたら、吉羅さん、子どもみたいだって呆れるかな?  ってわかっていたのに、私はどうしても吉羅さんに言ってみたくなった。
 案の定吉羅さんは面食らったようjな顔をしていたけれど、
『道具を大切にすることは、音楽家として重要な資質だ。だから問題ないのでは?』
 なんて、淡々と答えてくれたのを思い出す。 ……恥ずかしいような、嬉しいような。 吉羅さんと一緒にいることが増えてきたこの1年は、 シンプルな言葉で表現できない、むしろ、色や音のような曖昧な想いが増えてきた気がする。  ヴァイオリンケースのペグを入れる部分。 ちょうど二重のベルベッドで見えなくなっているところに、 私はこの前一緒に撮った吉羅さんとの写真を忍ばせている。 気楽な私服の2人が、私は満面の笑みで、吉羅さんは少しだけ口端を緩ませてこっちを見ている。 服装が人のその時々の表情も作るのかな。 ラガーシャツを身につけた吉羅さんは、いつもよりずっと若々しい。
 普段気にしている年の差も、こうやってみると少し縮まって見えるかな。見えるといいな。
 
「今日は2時間くらい、できそうかな」
 
 普通科に在籍しながら、音楽科への進学を目指す私は、どうしても普通科のみんなとは違う行動になる。 須弥ちゃんと乃亜ちゃんは今日も図書館で勉強するって言ってたっけ。 受験生である今の私にとって、普通科と音楽科の大きな違いって、 受験勉強する場所を確保できるかどうかってところにあると思う。 音楽科の人、しかも受験生の人たちが専有している練習室を貸して欲しいと言うことに、 申し訳ないって思う私は、毎日こうして練習場所の確保のために走り回る。 土浦くんが呆れたように、
『今日はこっちの場所、明日はあっちの場所。お前ってジプシー生活だな』
 って笑うけど、気にしない。 考えてみれば土浦くんも自宅に練習できる場所がある。やっぱり羨ましいかも。
 
「香穂子ちゃん〜。こんにちは。元気でやってる?」
「え? ……あ、霧島さん! こんにちは」
 
 小節を繰り返し弾き続けていた私は、演奏と演奏の絶妙な隙間でポンと肩を叩かれて振り返った。 見るとそこにはこの前とは違う、細いストライプの入ったスーツを着た霧島さんが立っていた。
 スーツっていえば、黒系か紺。あまり印象のないネクタイ。もちろんYシャツは白っていう格好のお父さんを見ているからかな。 最初吉羅さんが濃いベージュのYシャツを見たとき、こんな色があるんだと驚いた。 今、目の前にいる霧島さんは吉羅さんより強い印象がある。明るめのピンクのYシャツ、それにコバルトブルーのレジメンタルタイ。一瞬眼がチカチカとする組み合わせなのに、霧島さんの雰囲気には誂えたみたいにしっくりとしている。
 
「君の、今の、それ」
「はい……?」
「パガニーニかな。俺、『ラ・カンパネッラ』だったら、伴奏つけてあげられるよ?」
「え? あの、今、ですか?」
「今。ほら、すぐ準備して」
 
 霧島さんは足取り軽く階段を昇ると、上着を脱いでグランドピアノの蓋を開ける。 そしてさらりと私が弾いていた一節を音にすると、ちょっとやってみよう? と微笑んだ。
 
「……いくよ?」
 
 ソロの演奏を一度も聴いたことがない人とアンサンブルを組むことは、私にとって初めてのこと。スピードも、雰囲気もわからない。霧島さんにとっても同じはずなのに、端正な横顔は全然慌てていることを感じさせない。 霧島さんの広い額はうっすらと汗の膜に包まれている。
 
(あ……)
 
 低く高く音を繋ぐ。慌てて急ごうとするヴァイオリンをピアノはゆっくりと待つ。 何度か同じことを繰り返しているうちに、やがてピアノとヴァイオリンは共鳴したのか優しげな旋律を奏で出した。
 ヴァイオリンを始めて1年。人を見て、話して、奏でて。この人は本当はどんな人なんだろう。どんな本質を持った人なのだろうとあてもなく考えることがあった。そしてほとんどの場合、見るより話すより、奏でる方がよりたくさんのことを教えてくれるって思うようになった。
 
(この人は……)
 
 優しい人だ。 ただただ優しくて。でも今は、あまり練習に割く時間はないような人。 やや強引に思えるような行動をするけれど、本質は繊細で。もしかしたら傷つきやすい人かもしれない。
 ──── この人は悪い人なんかじゃない。
 
「ごめんごめん。ちょっとなまっちゃったみたいだな」
「いいえ、とっても素敵でした」
 
 演奏を終えたあと、霧島さんはポケットからハンカチを取り出すと額の汗を拭いている。
 
「突然でちょっと緊張しました。私こそすみません」
「いや。香穂子ちゃんとのジョイント、よかったよ〜。また機会を見つけてやってみようね」
「はい! ありがとうございます」
 
 考えてみれば私はこんなに年の離れた人と一緒に演奏するという経験がなかったかも。 大学に行ったら、いろいろなジャンルの人……、たとえば外国の人だとか、退官に近い教授とかと一緒に演奏するかもしれない。 そのときもこんな風に笑い合えたら素敵だな。
 霧島さんはグランドピアノの蓋を丁寧に戻すと、微笑を浮かべながら話しかけてきた。
 
「申し訳ないけど、香穂子ちゃん、ちょっと時間取れる?」
「はい。大丈夫です」
「ごめんね。俺を理事長室へ連れていってくれるかな?  この前たしか吉羅に聞いたのにすっかり忘れちゃってさ」
「はい。じゃあ、ご案内しますね」
「……俺ね、君から見てしっかりしてるように見えるでしょ?」
「は、はい! それはもう」
 
 霧島さんは鼻の頭にシワを寄せて笑っている。
 しっかりしてる。……しっかりしてる。どうだろう。 私からしてみたら3つ年上のお兄ちゃんだってすごくしっかりしてるって思うもの。 10歳も年上の人がしっかりしていないわけがない。 吉羅さん……。吉羅さんはどうだろう? 吉羅さんの落ち着きを年齢差で表せ、って言われたら、私、吉羅さんを何歳って答えるんだろう。
 
「それがね、俺、全然しっかりしてないんだ。俺ね、トシの離れた妹がいるんだけど、結構叱られちゃうんだ。『お兄ちゃんなにやってるの』ってさ」
「あはは! じゃあ、あの、ちょっと、ごめんなさい。少しだけ待っててもらえますか?」
「うん?」
「この楽譜、金澤先生に……、違う、金澤先生の書架からこっそり借りたんです。いそいで返してきます」
「ははっ。君は悪い子だな」
「えへへ。内緒にしておいてくださいね?」
 
 私は小走りで講堂の階段を駆け降りると、舞台袖の端にある控え室に飛び込んだ。
 
『あいつには気をつけろ』
 
 吉羅さんの言葉が浮かんでくる。気をつける。いったいなにを気をつけるんだろう。 霧島さんは少し強引なところがあるかもだけど、いい人だと思う。 そうじゃなきゃあんなピアノが弾けるわけないもの。
 
(大丈夫)
 
 さっきの演奏を思い出す。相手の話をしっかり聞いてくれるところ。 視線の合わせ方。自然に相手の興味を引き出そうとするパワーみたいなもの。 ……うん。霧島さんって、私にはそんな悪い人には見えない。
 リリだって言ってた。霧島さんは土浦くんによく似た演奏をする素敵な人だった、って。
 
「失礼します……。あれ? 金澤先生、どこにもいない……?」
 
 私は主のいない部屋に頭を下げると、楽譜を本棚に戻した。
 金澤先生の机の上は、読みかけの楽典や聴きかけのCDが雑然と山積みされている。 みんなは机の様子だけ見て金澤先生をからかうけれど、 整然と並べられている楽譜の存在を知ったらそんなことは言えないんじゃないかなって思う。 作家別、国別に並べられた楽譜は本当に綺麗だと思う。それに、楽譜を借りるとわかる。 こんなに緻密なメッセージを書き込む人はいい加減な人じゃないってことを。
 
「すみません。遅くなりました」
「いや、こっちこそ。練習、中断させて悪かったね」
「ううん? もう終わる予定だったから……」
 
(あれ……?)
 
 ふと見ると、ヴァイオリンケースの持ち手の部分がぴょんと上を向いている。 おかしな癖だな、と以前月森くんに笑われたことがあるけれど、 私はどういうわけか、ヴァイオリンケースの持ち手の部分は下に下げておく。 理由なんて特にない。あえていうなら『なんとなく落ち着かないから』が答えなのかも。 ケースが落ちた? そんなわけないよね。音もなにもしなかったし。
 霧島さんを見上げる。彼は笑ったままなにも言わなかった。
*...*...*
「うーん……。吉羅さん、まだ戻っていないみたいですね」
「そっかぁ。この時間、いつもだったらいる時間?」
「は、はい! 今日は……、と、そうですね」
 
 今日は文科省の人たちとの会合だ、って言っていたけど、 一生徒の私がそんな細かいことまで知ってるのはおかしい、と 私は途中まで出かかっていた言葉を慌てて口に閉じ込める。 ウソをつくって、本当に難しい。自分の中で勝手に居心地が悪くなるんだもの。 確か吉羅さんは今日は、夕方6時前には帰るって言ってた。年代物の大きなからくり時計に目をやる。 吉羅さんは時間に正確だから、あと、5分、くらいで戻ってくるかな。
 
「じゃあ、霧島さん、私はそろそろ帰りますね」
「ああ。香穂子ちゃん。こんなところまで付き合わせて悪かったねえ。ありがとう」
 
 ドアの近くにいる私に、霧島さんは笑顔で近づくとドアノブに手を添えた。 えっと、あ、ヴァイオリンと鞄を手にしている私のことを気遣ってくれてるのかな。 なんだろう……。
 
「……え?」
 
 そう思っていた私の耳に届いたのは、ドアノブが閉まる音とロックが掛かる音だった。 ぎょっとして振り返る。するとそこには狡猾そうな笑みを浮かべた霧島さんが立っていた。
 
「ふぅん。理事長室ってかなり奥まったところにあるんだねえ。 なんでも吉羅に言わせれば、学院内の質疑を冷静に対処するため、喧噪を避けた? とか言ってたけど、なるほどね。 ……ねえ、香穂子ちゃん?」
 
 ドアノブを持っていた手ははらりと私のヴァイオリンを持っている手を掴んだ。
 
「な、なにするんですか!」
「いや、ラッキーだったよ。君があいつの写真を持っていたなんてさ。しかもプレイベート写真っていうの?」
「え?」
「いいねえ。現役理事が女子高生と援交? これ、後援会とかに知れたらマズいよねえ?」
「な……。あ……」
 
 さっき感じた違和感が、現実になる。もしかして、ヴァイオリンケースに入れてあった写真のこと……?  もう片方の手で霧島さんの手を引きはがす。だけど、大人の男の人の手は、絡みついた蔓のようにびくともしない。
 
「あー。安心して? 俺、君みたいな子どもっぽいのは好みじゃないの。 もっと出るとこ出たグラマーな子がいい。なんで吉羅もこんなお子さまと付き合うんだか」
「ど、どうして、あなたにそんなこと言われなきゃいけないんですか!」
「でもたまには気分が変わっていいかもね。ねえ、君、俺と寝てみる?」
「やめてください。いい加減に……っ」
「君、もう吉羅とはやってるんでしょ? 別に売り惜しみしなくたっていいじゃない」
「いや、って言ってます!」
「ふぅん。……じゃあ、この写真どうしようかなあ。吉羅にとっても不利だけど、君にとってもちょっとしたスキャンダル?  今まで君がこの学院で優遇されていたのは、理事長さまと寝てたからだ。なるほど、こういう裏があったからだ、ってみんなにわかっちゃうね」
「…………」
「大学は星奏の内部進学? だとしたら、ますますマズいよねえ。理事長承認の子、大学だって落とせないし」
 
 矢継ぎ早に言われた言葉は私の理解を越えたところで通り過ぎていく。 なのに、一言一句忘れられない言葉になりそうな予感がする。頭がガンガンする。
 私のあごを持ち上げると霧島さんはじっと目の中に言葉を注ぎ込むように、ゆっくりと考えを告げた。
 
「ねえ。香穂子ちゃん。君、吉羅を説得しておいで? 霧島さんのヘッドハンティングを受けるべきだ。あなたにはその才能があるってね」
「そんなこと……」
「答えは簡単。わかるだろ? 俺がもしこの写真をばらまくって言ったらどうする? ばらされたくなければ、吉羅を説得するんだね」
「や、やだ。放してください! 近づかないで」
「んー。やっぱりこんな脅しくらいじゃ君は動いてくれないかな。もっと、苛めた方がいい?」
 
 すごみのある言葉に息を飲む。この人、なにを言っているんだろう。ひょうきんに見えていた目が獰猛な光を集めて光っている。こわい。両手に力を入れる。
 そっと握られたままの手はびくとも動かない。その思い切り手首を掴まないところに、この人が音楽の世界にいたことを知る。
 
「お願い……。お願いだから、放して、ください」
「……なんか、君ってイジめてみたくなるタイプ? 妙にそそられるね」
「だから、放して、って……」
「……うーん。よく見ると可愛いし。着やせするたちなのかも? 案外抱き心地もいいかもね」
 
 追い詰められた壁際に、霧島さんのネクタイだけがよく見える。コバルトブルーのそれは、いつも落ち着いた色合いの吉羅さんを見ていたからか、目にチカチカする。
 
「やめて……。やだ」
 
 ぴたりと首元に冷たい唇が這う。怖い。気持ち悪い。
 
「どうする? 香穂子ちゃん」
「いや……、放して」
「俺は君の答えが聞きたいんだけど? 今の君の考えを聞かせて?」
「……私は……。私は」
「私は?」
「吉羅さんの未来は吉羅さんが決めます。私が指図なんてできません! それに……」
「それに? なに? 聞いてあげるから言ってみてごらんよ」
「……どんなことがあっても、それでも、私は吉羅さんのそばにいたい」
 
 私の答えは目の前の人には不愉快なものだったのだろう。 彼は握っていた手首に力を込めると、憎々しげに私を見据えた。
 
「ふうん? 想定外だな。君が近くにいることで吉羅の将来の幅が狭くなるとしても、君はいいんだ。 その程度の愛情だったってことね?」
「それは……」
「じゃあ、交換条件。君が俺と寝てくれたら、この話はなかったことにする、って言ったらどうする?」
 
 一瞬言葉に詰まる。
 自分と吉羅さん。世間から見たら2人がどんな風に映っているかは分かってた。分かってるつもりだった。 だけど2人でいることで、吉羅さんが苦しい目にあうのなら、それは私の望むことじゃない。だけど……。 それでも私、吉羅さんと一緒にいてもいいの?
 頭がクラクラする。でもどんなことがあっても、吉羅さんとするようなことをこの人としたくない。
 
「……私は、吉羅さんが、いい」
「君って……」
 
 私の手首を掴む霧島さんの手の力がふっと緩む。私は思い切り振り切ると、距離を取った。
 
「吉羅、いるか−? 今日は金曜だ。帰りにどっか寄って一杯やってくかーーー?」
 
(金澤先生!)
 
 理事長室のドアノブを揺する。必死にロックを外すとそこには面食らった顔をした金澤先生が立っていた。
 
「お、お前さん……、と、霧島? お前さんたち、なにしてんだ?」
「あ、あの、私、帰ります!」
「日野!? おい、ちょっとお前、待てよ!」
 
 金澤先生の顔なんて見られない。見ていられない。吐き気がする。
 霧島さんの言った言葉も頭の中でガンガン響いてる。
 
『君が近くにいることで、吉羅の将来の幅は狭くなるよ』
『君が優遇されていたのは理事長さまと寝てたから』
 
 思い出す霧島さんの顔は笑っているのに、寒気がする。
 そうだ。吉羅さん、一緒に写真を撮るの、嫌がってた。私、浮かれてお願いしてた。あの日の自分をなじりたくなる。
 
 
 
 ──── 一緒に撮った写真。このことが、こんな大きな問題になるなんて。
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