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*...*...* Destiny 4 *...*...*
「バッドニュースだ。自宅にいない」
 
 私は金澤さんにため息で返事をする。 金澤さんから話を聞き、呆然としている私を見て、金澤さんはてきぱきと棚から全校の生徒名簿を出すと、 あの子の自宅に電話を入れた。そして彼女の不在を知ると、音を立てて受話器を置く。
 
「携帯にも出ませんね」
 
 慌てている金澤さんを見ていることで、 私のいらだちはそっくりそのまま金澤さんの方に移ってしまったらしい。 私は用を為さない携帯を机の上に静かに置くと改めて金澤さんを見上げた。 私のその仕草は、先輩の目には痛々しく見えたのかもしれない。 これで3度目になるであろう、さっきの話を繰り返す。
 
「……ま−、そ、その、なんだ? お互い服は着ていたわけだし、未遂ってところか。 いや、もっと言えば未遂の未遂。日野はなんともなってねえよ」
「ほう。金澤先輩はおかしなことを言う。服を着ていたってセックスはできると思いますよ」
 
 肩をすくめてそう言うと、先輩はあきれたように眉をひそめた。
 
「って、お前、あいつのことを疑ってんのか?」
「金澤さんの言う『あいつ』とは霧島さんのことでしょうか? それとも香穂子の?  どちらにしても、私はあらゆる可能性を示唆しているだけですが。なにか反対意見でも?」
「おいおいおい。またそんな風に絡んでくる。 俺の言ってんのは日野のことだよ。まったくお前ってヤツは、なんでも理詰めで来るからタチが悪い。 自分のオンナくらい信じてやれっての」
「……あいにく私は、金澤先輩のような人格者でもないので」
 
 夕方6時20分。都内での会合を終え、私は帰宅ラッシュに背を押されるようにして星奏学院に戻った。 学内秘の資料を自宅に持っていくのは抵抗があったから、というのは表向きな理由で、 実のところはあの子に会い、あの子の淹れたコーヒーを飲みたいと思っていたのが本音だ。 あの子の顔を見て、声を聴く。私のために淹れてくれたコーヒーを飲む。 それだけのことで、私の心は静かに穏やかに凪いでくる。
 私が会合などで学院を不在にする週末。 こんなときは、別段2人で会う約束を交わしているわけではないが、 会って話をすることはここ最近の私たちの暗黙知にもなっていた。
 ところが今日は勝手が違った。私の思い描いていた姿はどこにも見当たらず、 理事長室につくねんと立っていたのは金澤さんだった、というわけだ。
 金澤さんは何度も霧島さんにこの場に留まるように言ったという。 だが当の本人は頑なな態度のまま、金澤さんの手を振り切って出て行ったらしい。
 
「霧島が言うには、ちょっと日野にビジネスの話をしていただけなんだと。 なんだってまあ、そんな話を女子高生にするかねえ、あいつも。 どうせ大人になったらイヤにもカネの話に巻き込まれるんだ。 学生ってのは、カネのことを考える必要のない、モラトリアムの時期なのにさ」
「それだけ切羽詰まっているということでしょう。霧島さんの気持ちがわからない私ではありませんが」
「ほほう。じゃあなんだ? お前は日野が脱兎のごとく逃げていった理由はなんだと思う?  俺はただならない状態だと思ったがね」
「怒ってますよ。少なくとも、男と2人きりになるシチュエーションを作った香穂子に対しては、 結構腹を立てていますね。これでも」
 
 金澤さんはやれやれといった風に肩をすくめた。
 
「ほう、そっちか。俺はてっきり霧島に対して怒ってるんだと思ってたよ。 ……ってかお前さんも大人になったなあ。全然腹を立てているようには見えないぞ?」
「車のスピードメーターと同じ原理です」
「は?」
「怒りも限界値を振り切ると、あとは同じように見えるんですよ」
 
 金澤さんの気遣いをありがたいと思いながらもどうにも素直になれる状況じゃない。 私はブリーフケースから学院外秘の資料を無造作に取り出すと、それを鍵つきの引き出しに押し込んだ。 書類の端が折れて不愉快な音を立てたが、迷わす押し込む。こんなことは今はどうでもいい。
 金澤さんは感情の読めない顔で私の様子を見ていたが、やがて、白衣のポケットから皺の寄った紙を取り出して私の机の上に置いた。
 
「これ、渡しておく。まあ、渡しておいてなんだが、無駄になればなによりだ」
「なんですか?」
「住所だよ」
 
 金澤さんは言葉少なにそれだけ言うと、長居は無用とばかりに踵を返して、そのまま理事長室を出て行った。
*...*...*
 私は金澤さんの直筆らしい走り書きのメモと、愛車に取り付けたナビの住所を見比べる。 高層階のマンション。いわゆるタワーマンションの一室が霧島さんの自宅らしい。 私は星奏学院から約20分の距離にある霧島さんの自宅まで辿り着くと、 頭上にそびえ立つマンションを見上げた。
 同じ重要度の仕事が2つ同時に来た場合、どちらを先に処理するか。 社会人になってから、たえずそんな訓練をし続けてきたからだろう。 どんな事象も瞬時に方向性を決定付けできる自分がずいぶんと味気ないものだと思っていたが、 なかなかどうして、こういうときにも役に立つのがありがたい。香穂子が先か、霧島さんが先か。 優先度は香穂子の方が高いが、連絡が付かない今は対処のしようがない。 私は携帯画面を覗き込み、香穂子から連絡がないことを確認すると、 エントランスのカウンターで注意深く2度、霧島さんの部屋番号を押した。
 想像したこともなかったし、想像したくもなかったが、もしかしたら霧島さんと香穂子が今一緒に いるのかもしれない、という妄想が私の眉根を苦々しいものにさせていく。 香穂子が出て行った。そのあと霧島さんも出て行った。 もし香穂子が霧島さんから交換条件のようなものを持ち出されていたとして、 それを秘密裏に解決したいと思ったら……。 そう考えるだけで頭の奥が熱くなる。 白くて柔らかな身体。ようやく快感を覚え始めたあの子の肢体に、どの男だって夢中になるだろう。 一度知ったら手放せない。
 やがて、住人が私を客と認めたのだろう。画面は、"Accept" という文字を表示し、 静かにゲートが開かれた。エレベーターのドアが開く、とそこには、私が今忌々しく 思い浮かべていた人が立っていた。
 ちょうどランニングに行く途中だったのか。 ぴたりと身体に張り付くTシャツと短パンを着込んだ霧島さんは、 私と同じくらいの身長でありながら、出ている脚や腕の筋肉は私の倍ほどの太さで隆々としている。 彼の落ち着きのないさまは、ますます私を不安に駆り立てていく。
 
「吉羅か。まあ、来るかなって思ってたさ。俺の部屋へ行くか?  って、俺の淹れるコーヒーなんて飲みたくねえ、ってことだったら、近くにバーがあるけど、 お前はどうしたい?」
「私が聞きたいことは一つだ。……あなたはあの子になにを言った? 今、彼女はどこにいる?  あなたの部屋か?」
「は? 聞き捨てならないねえ。そんなことしたら監禁になっちまうだろ? そんなことしてないって」
「では、彼女になにを言った?」
「って大体金澤から話は聞いているだろ? 犯人扱いしてなんだ? 尋問か? 脅しか?  理事長様ってのはそんなにエラいのかよ!!」
 
 霧島さんは小刻みに身体を揺らし、私を威嚇するように睨みつける。 朱く充血した目は、目の前にいる私をも映していないようだ。
 
「脅し、ですか。……社長ともあろう人が発する言葉ではないように思いますが」
「社長? フリーターって言ってるのもサマにならないから社長って言ってるだけだ。 知ってるだろ? 今時株式会社の設立なんて、はした金で出来てしまう。それだけの話さ」
「……私は、ただ、事実が知りたい。あなたがここまで私に固執する理由を知りたい。 教えてもらえないだろうか?」
 
 数年前に感じ続けていた痛み。 それはいつしか香穂子と会うことで、薄らいでいた打撲のような疼痛。 白い百合。濃い花の香り。 放心したように毎日同じ話を繰り返す母。肩を落とす父。 何もできなかった幼い自分が泣いている。
 霧島さんは下卑た笑いを浮かべながら私を見据えた。
 
「結局金澤が来て未遂に終わったけど、あの子、キス上手いな。お前が仕込んだの?」
「……そういうことはあなたから聞きたくない。直接彼女から聞く」
「ウソを言うかも知れないぜ? お前に怒られるのが怖くてさ」
「それでも私は彼女の言うことを信じます」
「はっ。わかってたさ。お前はいつだって、俺に対して腹を立てたことがなかった。 ただの仲間でしかなかった。美夜のことだって」
「いい加減にしてください。いつまであなたはその話を……」
 
 彼の口から姉の名が飛び出したことで、私はさっきまで感じていた痛みが現実になったのを知る。
 視界の端で揺れるものがある。ふと見れば、それは霧島さんのこぶしだった。 手のひらに食い込んだ爪が、手のひらの血色を止めている。
 
「いや、言わせてもらう。お前は、美夜が病んでいることを金澤には教えたくせに。 お前は、最後まで俺には言ってくれなかったじゃないか!」
 
 彼の、以前は美しいとさえ思った目の輝きは淀みきってひどく暗い。
 霧島さんの心の傷はこれほどまでに深かったのか?  私の至らなかったところ。それが巡り巡って香穂子に因果として巡ったのか?  因果? こんなときになんと愚かなことを思いつくのか。だが、 高校生のときの私が霧島さんの気持ちをしっかりと受け止めていたなら、 今の香穂子が傷つくことはなかったのか。
 頭痛が起き始めている。私は額に手をあてると口を開いた。
 
「何度も言ったとおり、姉の死は突然だった。私や両親。 家族でさえ心の準備ができないまま、姉は旅立った。 そんな中、あなたへの連絡が遅れたからと言って、それは不可抗力だ」
「だけど金澤は知っていた」
「それは姉の意志だったからだ」
「美夜の?」
「姉は言った。『霧島くんにはコンクールに集中して欲しい。だから黙ってて欲しい』と。 あの子はあなたのピアノがとても好きだったから」
「お前……。どうして……?」
 
 時が止まったかのように、霧島さんの表情が静止する。 血走った目はこれ以上なく見開き、こぶしの揺れは大きくなった。
 
「どうして、言ってくれなかった?」
 
 霧島さんはかすれた声で呟いた。
 
「姉が亡くなってから言ってどうなるというんですか? あなたの希望に添えなかったのは事実なのに。 ……でも、本当に申し訳なかったと思っています。 だから、あなたの一連の行動の理由を教えてくれませんか?  あなたはこんなことをするような人じゃない。私はそう思っています」
 
 霧島さんは憑きものが落ちたような放心した表情を浮かべると、やがてぼそりと口を開いた。
 
「俺さ……。すまん。お前を売ったんだよ」
「……わかりませんね。売る、とは?」
「種明かしをすれば簡単な話さ。吉羅が1年の間に星奏学院を建て直したというのは 都内の私立中高では有名な話だ。垂涎の的と言ってもいい。…… 俺は、お前を引き抜く際の条件を付けた。お前と一緒に、俺のポジションも用意しろとね」
 
 一気にそれだけを言うと、目の前の男はふっと深い息を吐いた。
 
「大体、音楽科の人間なんて、音楽家になれるのはほんの一握り。学校の先生になれれば御の字だ。 そんな中俺はいつまでも過去の栄光を引きずって、ピアニストを目指した。結果はどうだ?  気が付けば、教員になれるトシも過ぎている。ピアノ教室と言ったって、 生計を立てられるほどの収入はありはしない。ましてや、自分のプライドが許さない。違うか?  まったくお前はイイ判断をしたよ」
 
 判断? そうだろうか。私はいい判断をしたと言えるのだろうか? もし姉の死という現実がなかったら、私は今も音楽とともに生きていたのかもしれない。 だが姉の死を経て、私は音楽という世界を忌み嫌うようになって。 ……それから、香穂子と会った。 幸せそうにヴァイオリンを肩に載せる姿が姉の様子と重なった。 恋を知らないまま死んでいった姉を哀れとも不憫とも思った。 だが、香穂子を通じて知ったこと。それは、『それでも音楽は美しい』という確固たる事実だった。
 
「もともと俺にはその手の才覚があったんだろうな。気がつけば、あっちの公演にこいつを。こっちの公演にこいつを、 なんていう人のマネジメントをするようになった。それで今回の話が出たってわけだ。 俺もそろそろ落ち着きたい。来月の収入を気にしないで生活できる方法を模索したくなった」
 
 霧島さんは一気に話し終えると、乾ききった下唇を舐めた。
 
「それで? 香穂子には?」
「は?」
「香穂子にはなんと言ったのですか?」
「あの子には、……そうだな。 『君が吉羅のそばにいることで、あいつの人生の幅が狭くなるとしたら?』と言ったかな? 吉羅と君とはスキャンダルだよ、とも。 ……あの子がヴァイオリンケースに忍ばせていたお前との写真をネタに、脅した」
 
 気が付くと私は霧島さんの胸ぐらを掴んで持ち上げていた。 あの子は霧島さんの言葉をどんな思いで聞いたことか。どんなに、傷ついただろう。 今すぐあの子を胸の中に閉じ込めて、大丈夫だと言ってやりたい。 泣く前の目尻に口付けて、出てくる涙を無かったことにしてしまいたい。
 
「はは。冷静なお前がこれほど感情を露わにしたのは初めて見たよ」
「ご冗談を。私が本気で腹を立てる人間は、彼女に対してだけですよ」
 
 ふ、と思い切り息を吐き切る。今、私が暴力行為を起こせばそれこそ、霧島さんの思うつぼだ。 それになにより、香穂子は私が人を殴ることを望まないだろう。
 私は霧島さんを押しのけると、胸ポケットに入れてあった携帯を取り出して履歴を確認する。 あの子からの連絡はない。
 霧島さんはさばさばした表情を浮かべると、壁に背中を預けた。
 
「お前のそういう落ち着いたところが、俺は大好きで大嫌いだったよ」
「ありがとうございます。賞賛の意味で受け取っておきましょう」
「それにしても彼女は可愛いな。こう、真っ直ぐで素直で。 ……ああいう子が俺のそばにいれば、俺ももう少しまっとうな人間になれたかもしれない」
「……それも彼女への賞賛と受け取っておきましょうか」
「あの子が欲しい、って言ったら、お前どうする?」
 
 からかいを帯びた目で霧島さんは笑う。
 
「なにを馬鹿なことを。あなたにも、ほかの男にもあげる予定はありませんが」
「なんだ。つまらん。でも、まあ、お前らしいか」
「霧島さん」
 
 私は先輩の視線から目を逸らさずに一気に告げた。
 
「もし、香穂子から抜き取った写真を世間にばらまくというのなら、あなたの好きにすればいい。 私は彼女を全力で守る。その結果、私が星奏を去ることになっても構わない。 だが、あなたの言いなりにはならない。 ただ、女生徒に手を出す人材が、あなたの提示する学校で採用されるとは思いませんが」
 
 霧島さんは大きく肩をすくめるとやれやれという風に首を振る。
 
「あの子が言ってたよ。『どんなことがあっても、それでも、私は吉羅さんのそばにいたい』ってさ」
「……そう、ですか」
「どうしてお前は……。いや、お前の周りに集まる人間ってのは」
 
 脳裏に霧島さんのピアノのタッチが浮かんでくる。高1の学内セレクション第一。 金澤さんの歌。それに霧島さんのピアノを聴いたときの衝撃は今でもありありと思い出すことができる。 音とともに浮かぶ震えは、まず初めに胸をゆらし、みぞおちに落ちてくる。 若さなのか。荒削りな音はただシンプルで暖かくて。 聴衆の心を捉えずにはいられなかった。 たしかあのときのセレクション優勝者は姉の美夜だったが、 幼い頃から聴き慣れていた姉のヴァイオリンは私の心をあっさりとすり抜けていったらしい。 今思い出すのは彼の溢れんばかりの才能を響かせた音だった。
 
「……ダイナミックなくせに寂しがり屋で。 明朗な転調を繰り返しながらも、続く余韻は切なくて」
「吉羅?」
 
 
 
「私は……。あなたが今、私のことをどう思っているかわかりませんが、 私はあなたのピアノが大好きでしたよ」
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