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「今、君はどこにいる? どこにいるか言ってくれたら、すぐにでも迎えに行けるんだが」
「ごめんなさい……。今は、その」
 
 強く携帯を握り締める。『今は』。今は、なんだっていうんだろう。この先は? わからない。 ただ分かったのは、今までの私は、吉羅さんと『別れるということ』を考えたことが ないという事実だった。 一緒にいるのがただ、楽しくて。心地よくて。話が尽きなくて。
 秋になったころ、どれだけ話していても話し足りないのはどうしてだろう、と 話したこともあった。
 
『我々が今夢中になっているクラッシックは300年の歴史がある』
『はい……。そうですね』
『──── だから、我々の話題が尽きるのも今から300年後になるだろうね』
『あはは。300年ですか?』
『だから君には、それ相当の覚悟をしてもらわらなくてはならないな』 
 
 耳朶にかかる声。湿った吐息。私の髪の間を通っていく長い指。
 ……私が、吉羅さんの隣りにいたら、迷惑なのかな。
『君が近くにいることで吉羅の将来の幅が狭くなる』
 霧島さんの声が蘇る。それほど世間のことを詳しく知らない私でも、 吉羅さんと私の写真が、吉羅さんの未来を滅茶苦茶にすることはわかる。 そんなのは絶対いやだ。耐えられない。
 
「とにかく、君は無事なんだな」
「……大丈夫、です」
 
 言葉少なに返した返事に、電話越しの吉羅さんからは頷くような気配が聞こえる。
 混乱。そうかもしれない。私は混乱してる。どうしたらいいのかわからない。『足手まとい』? 考えたことなかった。 ううん、それは正確じゃない。吉羅さんと私は会うときはいつも気を遣っていた。 なにに? それは周囲の目だったかも。 それはつまり、私にはやましいところがあるっていう罪の意識の裏返しだ。
 日付の変わるころまで続きそうな長い沈黙のあと、吉羅さんは静かな声で言った。
 
「……香穂子。できるだけ早く顔を見せてくれ。私にも限界がある」
*...*...* Destiny 5 *...*...*
「で? あんたこれからどうするの?  どういう理由で吉羅さんから逃げてるのかわかんないけど、 いくら逃げていたって、逃げ切れるもんでもないでしょう」
 
 自宅にいたらあれこれ考えてしまう。考えすぎて、おかしくなる。
 そう思った私は、霧島さんと別れてからそのまま天羽ちゃんの家に泊まりに来ている。
 突然の外泊に、お母さんは渋い声だったけど、天羽ちゃんが上手く取りなしてくれたおかげで あまりご迷惑をかけないようにしなさいね』と言いながら許してくれた。
 そろそろと天羽ちゃんの大きな手が伸びてくる。 いつものように頭を撫でてくれるのかな、と思ったら、その指は私の眉間をツンとこづいていく。
 
「……わ、な、なに?」
「眉間にシワ。これ以上考え込んでいると、香穂、ブスになっちゃうよ〜?」
「うう、それは困る……」
「目も腫れぼったいし。なにこの天羽菜美さまに黙って泣いてるの」
「ん……」
「まあ、お互い大人なんだし? 無理矢理聞き出すことはしないけどさ。 まあ、言いたくなったらいつでも言ってよね」
 
 天羽ちゃんは豪快に笑うと、ふたたびペンを手に英語の長文読解に挑んでいる。 そっか……。ってそうじゃなくて、天羽ちゃんも私も受験生。 今が大事なときなのに、 私いきなり自分の都合だけで天羽ちゃんちに飛び込んで、なにやってるんだろう。 ますます自己嫌悪だ。
 
(……やっぱり、ない)
 
 私は祈るような気持ちでそっとヴァイオリンケースを覗き込む。 ペグの部分。そこには小さなハンドタオルが入れられている。 その下をめくってみる。やっぱり吉羅さんとの写真はない。
 
「ま、私はほとんど一人暮らしみたいなもんだし?  香穂がいてくれれば美味しい料理にもありつけるし、嬉しいけどさぁ。あんたはいいわけ?  今、大事な時期でしょうが」
 
 午後8時。いつもだったら、譜読みをして、英語の勉強をして。……吉羅さんと電話して。
 私はそろりと周囲を見渡す。男の人のようなあっさりとしたインテリア。 なによりも目に付くのは壁一面に配置されている本棚だ。 もし、部屋の隅に制服がかかってなかったら男の人の部屋と間違えそうなくらいの威圧感で 天羽ちゃんを見守っている。
 
「ごめんね。忙しいときに」
「いいのいいの。香穂が来てくれるのはいつでも大歓迎だし、全然問題ないよ?  だけど、あんた、大丈夫なの? その……吉羅さんと」
「うん……」
 
『できるだけ早く連絡してくれ』
 
 電話越しの吉羅さんの言葉が耳元で聞こえる。 自分以外の人の気持ちを知ることはできないけれど、推し量ることはできる。 好きな人ならなおさら。 吉羅さんの声は、いつものように落ち着いているのに、どこか悲しそうで、不安そうで。 もし私の身体がすぐ近くにあったなら、思わず抱きしめたくなるほどだと思った。
 私はどうすればいいかな。
 霧島さんの言うように、吉羅さんを新しい仕事に行くように説得する?  ──── そんなことできるわけない。吉羅さんの生き方は吉羅さんが決めることだもの。
 もし吉羅さんが考えて出した結論なら、それでいいけど、私がそんなこと言えるわけない。
 霧島さんのいうことは聞かずに、このまま吉羅さんと付き合い続ける? そうしたら、2人の写真が広まることは絶対で。 私は、平気。どんなことでも辛抱できる。だけど吉羅さんは。 社会人である吉羅さんが、どんな非難を受けるかと思うとそれだけで怖くてたまらない。
 吉羅さんと真剣に付き合ってきたつもりだった。初めは最悪な、 怖いことばかりいう人に良い印象がまったくなかった。 だけど、少しずつ吉羅さんは私にとって必要な人になった。 今はなくてはならない人にもなった。
 なのに、近くにいることが彼にとってよくないことだってわかったとき、 私はどうしたらいいんだろう。
 
「香穂。こういうときのこと、どう言うか知ってる? ことわざ勝負」
「は、はい? ことわざ……? なんだろ。ちょっと待って……。『堂々巡り』?」
「ブー。『堂々巡り』ってことわざじゃないじゃん」
 
 報道部の天羽ちゃんはボキャブラリーというのかな、 私より遙かに語彙力が高いって思う。ときどきこんな風に私に質問をしては笑ってる。 えっと、ことわざ、ことわざ。なんだろう。
 
「答えはね、『腹が減っては戦はできぬ』だよ?」
「うーん。もしかして、天羽ちゃん、お腹空いてる??」
「正解〜。ということで、一緒に何か作ろう? ゆっくり食べて、 ゆっくり話せばなにか見えてくるものがあると思うよ」
「うん! 天羽ちゃんの食べたいもの、作るよ。なにがいい?」
「わわ、香穂子先生! ぜひぜひ。相談するなら冷蔵庫としてよ〜」
 
 このまま考え続けてても答えは出ない。 それに自分の好きなことで気分転換するのは、すごくいいことかも。
 そう思った私は勢いよく立ち上がると、天羽ちゃんと一緒にキッチンに向かった。
 
「材料ってなにがあるの?」
「ジャガイモと玉ねぎ。あとは、賞味期限ギリギリの乾いたベーコン。名付けて『ベーコン・オブ・ダンボール』」
 
 天羽ちゃんは澄ました顔で答えてる。
 
「あはは、乾いちゃったんだ。使いかけってどうしてもそうなるよね」
「うんうん。あとは、これも賞味期限ぎりぎりの牛乳。コーヒーばっかり飲んでると胃が痛くなるから、最近カフェオレにしてるのさ」
「うーん……。そっか」
 
 人の家の冷蔵庫をじっくり見るのが申し訳なくて、私は出された材料を見つめた。
 天羽ちゃんが喜ぶもの。これだけの材料でできるもの。あとは、気持ちが温かくなれば、いいな。
 
「決めた! 天羽ちゃん、クリームシチューにしよう」
「え? できるの!?」
「うん、なんとか」
 
 手は第二の脳だ、と吉羅さんが言ってたことを思い出す。でもこうして好きなことをしていると気分転換になっていいかも。
 
(どうしてあんなこと……)
 
 どうして霧島さんはあんなことをしたんだろう、と考える。そして思う。 私のヴァイオリンに合わせてくれた、霧島さんの音色を思う。 あの人は、そんな意地悪な人じゃない。意地悪な人に、あんな音は出せない。 コンクールを始めたばかりのころ、王崎先輩が言ってた。
 
『コンクールに参加した人間は一生の付き合いになる』
 
 吉羅さんも言ってた。『あの人はいい人だ』って。だったら私はどうしたら……?
 
「香穂?」
 
 ダイニングテーブルの端っこで、参考書に目を落としていた 天羽ちゃんがすっと顔を上げて私を見る。
 咎めるんじゃなくて、怒っているのでもなくて。ただ、まっすぐな優しい顔。 考えてみれば天羽ちゃんはコンクール参加者ではないけれど、 ずっと取材を通して音楽の良さを知らせてくれた人だった。
冬海ちゃんと一緒にパジャマパーティをしたり、ショッピングをしたり。 今の彼女は私にとってなくてはならない人になっている。 出会わなかったときの自分が想像できない。高校はそんな出会いがたくさんあった。
 
「……はい、完成! 即席でごめんね」
「わ、これ、ホントに香穂が作ったの? ホントに!? あんたすごいよ! ヴァイオリンじゃなくて、カフェでも経営したら?」
「うーん。天羽ちゃんが食べてくれるかなって思って頑張っちゃった」
「…………。香穂」
 
 手渡したスプーンを手に、天羽ちゃんはおどけるように肩をすくめる。
 
「なんかさ、ウチに嫁に来い、っていうか、吉羅さんに渡すのもったいなくなっちゃうよ」
「あはは。そんなこと全然ないよ−。お腹空いたでしょ? 食べよう?」
「よーし。香穂、いっただきまーーす!」
 
 真っ白なホワイトシチュー。ベーコンの香りがふわりと鼻先を通り過ぎる。バターが少し残っててよかった。風味が全然違う気がする。
 天羽ちゃんはよほどお腹が空いていたのか、2杯一気に平らげると上気した顔で私を見上げた。
 
「……一度さ、吉羅さんとちゃんと2人で話し合ってきなよ。誰のことでもない。2人のことなんだからさ」
「うん……」
「私にとって吉羅さんって、いまだになに考えてんのかよくわかんないし。金やんと一緒にいればすぐ悪巧みしてんじゃないかと思っちゃうし。 とにかく、『うさんくさい』人なわけ。今もね」
「あはは。ひどいなあ。そうだったの?」
「──── だけど。香穂が決めた人なんでしょ? だったらちゃんと話せば香穂のこと受け止めてくれるはずだよ」
 
 受け止めてくれる? そうかな。どうかな。どうしたらいいのかな。混乱する。 受け止めるっていうのはどういうことなんだろう? わからない。
 
「香穂と吉羅さん。2人の問題なんだからさ」
 
 黙りこくった私に天羽ちゃんは手を伸ばすと、小さな子どもみたいに私の前髪を撫でてくれた。
 2人の問題。……2人の。 このまま私が黙り続けてて、その結果霧島さんが写真をばらまいてしまったら。 吉羅さんは私を求めてくれて、私も吉羅さんを求めた結果、今の私たちがあるのに、 世間の人は多分、大人である吉羅さんを責めるだろう。 吉羅さんは学院を辞める。今、吉羅さんが一生懸命勉強しているいろいろなことが すべて無駄になる。 そんなことはダメ。
 ……そっか。自分が傷つくより吉羅さんが辛い目に合う方が、私は辛いんだ。
 ちゃんと話そう。そしてちゃんと決めよう。 2人で話して、そして、吉羅さんが私との別れを望んだとしても。私はちゃんと説明しよう。
 
「……天羽ちゃん、私、明日の朝、学院に行ってくる」
「へ? 吉羅さんに会いに行くんじゃなくて?」
「ちょっとヴァイオリンを弾いて、頭を冷やしてくる。それから吉羅さんに説明するね。自分の気持ちを」
「なるほど。あんたにとってヴァイオリンは精神安定剤みたいなものかぁ」
 
 天羽ちゃんは手にしていたフォークを皿に戻すと、あんたの思ったとおりにするのが1番だよ、 と明るい声で言った。
*...*...*
「んー。いい天気!」
 
 私は屋上の風見鶏を見上げながら、思い切り息を吸った。 冬休みの学院は、学院を包む空気まで凍り付いたかのように静まりかえっている。 そっか、年末年始は練習室は開放しない、って言ってたっけ。 高3の冬休みだもの。みんな自宅やスタジオで最後の仕上げに入っているよね。
 コンクールが終わって、もう1年以上時間が経ったというのに、 まだファータが見える私のことを、吉羅さんは苦笑を交えてからかったことがあった。
 
『どうやら君と私は縁があるようだね。これからもよろしくお願いするよ』
 
 あのときのよそよそしい笑顔から、私と吉羅さんがこんな関係になるなんて どうして予想できただろう。 今の私が思い出す吉羅さんの顔は、そのときよりずっと優しく、ずっと温かい。
 
「リリも冬休みなのかな? 今年もありがとうね」
 
 ヴァイオリンケースから丁寧にヴァイオリンを取り出してペグを巻く。 ペグの位置の写真がないことに、自分へのやりきれなさが浮かんでくる。
 どうして私、写真が欲しいって言ったのかな。吉羅さんが写真が苦手なのわかってたのに。
 
(吉羅さん……)
 
 わかってた。自分が高校生で。吉羅さんは大人で。 そういう年齢差の中の付き合いは、とても気をつけなきゃいけないってわかってた。
ときどき見聞きするニュースで、『援交』って言葉を聞くと勝手に慌てた。 どんなに私が真剣だと言っても、事実が知れれば、吉羅さんが責められる。 そのことは分かってたはずなのに。
 冬の太陽に思い切り手を伸ばしてみる。 5本の指の隙間から見える太陽は弱々しくて余計泣きたくなる。
 
『君は吉羅の邪魔をするの?』
 
 違う。邪魔したいわけじゃない。そんなことを願う恋人なんて、 もう恋人同士とは呼べない。
 吉羅さん。私、吉羅さんの優しさが好きだった。 その優しさはけっして押しつけがましいものではなくて、気が付いたらすぐそこにあるような さりげないもの。だけどそれが少しずつ積み重なって、 私自身も気づかないうちに、いつしか無くてはならないものになった。 そんな吉羅さんに、私は今までなにをしてあげられただろう。
 ──── 好きだから、決めなきゃいけないこともある。
 もし私の存在が、吉羅さんの未来を狭くするのなら。……私はそっと離れよう。 いつか平気になる。いつか、大丈夫。呪文みたいに唱えていれば、いつか、忘れられるはず。
 
「そうだ。この子も観客に入れよう。聴いててね」
 
 私はカバンの中から、チェシャ猫のぬいぐるみを引っ張り出すと、そっとベンチに置いた。 『不思議の国のアリス』に出てくる、チェシャ猫。 今年のヴァレンタインでもらったチェシャ猫の置物のぬいぐるみヴァージョンみたいで 可愛いと思って買ったもの。誰も観客がいないとき。 ううん、もっと正直に言えば、吉羅さんに聴いて欲しくて、吉羅さんがいないとき。 この子は絶好の代役を買ってくれてた。
 
「吉羅さん。リリ。どこかで聴いてくれてる? ……聴いててね」
 
 柔らかなメロディの『愛の挨拶』が屋上いっぱいに広がる。 リリ。思えばリリって吉羅さんと私の縁結びの神さまだね。
 リリがいてくれたから、吉羅さんは私に興味を持ってくれた。一緒にいようって言ってくれた。
 ──── ありがとう。リリ。
 私、吉羅さんが好き。今も、大好き。その気持ちは変わらない。 だけど、どんなに好きでも、ううん、好きだからこそ、吉羅さんの未来は吉羅さんのものだって思う。 私だけじゃなく、ほかの誰も邪魔できない。吉羅さんだけの人生だと思う。 だから……。
 溢れそうになる涙を目の中に押し込む。 こんなとき目も鼻も、そして口も内側では繋がってる、って言うのは事実なんだな、って確信する。 こらえた涙は、目の奥に逆流し、鼻を詰まらせ、口の奥を熱くする。 私は嗚咽を飲み込むと、もう一度譜面台を睨み付けた。 ──── ダメだよ。こんな演奏じゃ、吉羅さんが喜ばない。
 また、吉羅さんが目の前に出てくる。ああ、私、どれだけ吉羅さんが好きなんだろう。
 300年前、作曲家エルガーとその妻のキャロラインは、どんな会話を交わしたの?  伝記ではすごく仲むつまじい夫婦だった、ってどの本にも書いてある。 長い人生の中で、それでも、そばに居たい。そう思える自信はどこから生まれてくるのかな?
 
(会いたい)
 
 会って話がしたい。顔が見たい。話して、納得したい。 ううん、それは詭弁だ。本当のことをいえば、──── ただ、これからも私のそばにいてほしい。 だけど結果がこわい。私なんてまだ子ども。吉羅さんが見ている世界と違いすぎる。
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