*...*...* Embrace 3 *...*...*
「じゃあ、先行って待ってるね。香穂ちゃんも早くね〜」「はい!」
気持ちよく晴れ上がった空。
ホント、今日は絶好の海日和だって、思う。
空も海もこんな天気の中 一緒にいたら、自然と仲良くなれちゃうのかな。
彼らを隔てているのは1本の白い波だけだった。
「さて、っと」
おれは急いで着替えを終えると、ビーチパラソルをレンタルして、香穂ちゃんより一足早く海辺に向かった。
まるでフライパンの上でから煎りしてるマメのような上天気には辟易する。
遠くには、遊覧船がのどかな汽笛を鳴らしている。
カモメも、汽笛が作った雲を追いかけるようにゆらりと空を彩る。
── 今日、また、香穂ちゃんと良い思い出ができたら、いい。
香穂ちゃんと付き合う前から思ってた、いろいろなこと。
彼女ができたら、いっぱい遊ぶんだ、って。
毎日浮かんでくるたくさんの気持ちを、少しずつ交換し合って、もっともっと好きになるんだ、って。
そんなことをいうおれを、クラスメイトはよくからかったっけ。お前はロマンチストすぎる、って。
女なんて甘やかせば つけあがって、手に負えねーぜ。
あ、そうか、火原、オンナキョーダイいないから、そんなノンキなこと言ってるんだ、とか。
だけど、香穂ちゃんと付き合ってて思うのは、香穂ちゃんはおれの思い描いていた以上の女の子だった、ってこと。
今のおれには、これ以上の子は見つけられない、ってことだった。
人の気持ちの大きさなんて測りようがないの、よくわかってるけど、
今のおれと香穂ちゃんの関係って、ぜったいぜったいおれの気持ちの方が大きいって、思ってる。
その事実を真剣に捉えたら、悲しくない……、こともないけど。
きっと香穂ちゃんは香穂ちゃんなりに、おれのこと、好きでいてくれる、って信じていられるから問題なし、だ。
「よっし。このあたりかな」
おれはネガティブな気持ちを砂に埋めるかのように、砂浜に ぐさりとビーチパラソルを差して、日影を作った。
すっごく良い場所が取れた、って思う。
ここなら海も近いし、売店も近い。それでいて人少なだ。遠浅の海も、遠くまで透き通ってる。
軽く準備体操でもしておこうか、と、腕を思い切り空に突き上げたとき、後ろから小さな声がした。
「ごめんなさい。お待たせしました」
「香穂ちゃん?」
「すごくいい場所ですね」
すらりとした足。
砂浜の上では白すぎる身体が、一歩一歩おれの方に近づいてくる。
と同時に、ビーチにいる男たちの視線も忠実に香穂ちゃんの背中を追っている。
日頃、手の指はヴァイオリンのために、ってとても大切にして塗っていないマニキュアが、足のツメには丁寧に塗ってあった。
それは、目をこらさなくてはわからないような、透明な色。
おれから見たら、5つの小さな桜貝が香穂ちゃんの足に、ここは私の居場所なの、と言いたげに張り付いているようにも見えた。
オレンジ色の水着。香穂ちゃんの白い肌に、すごく映えてる。
ゴールドの華奢なサンダルも、本当に可愛くて、女の子っていうのは男とはまるで違う生物なんだ、って改めて感じる。
おれはカラカラに渇いた喉をセキでごまかすと、口を開いた。
「香穂ちゃん。可愛いよ、すごく! おれ、見とれちゃった」
「あ、あの。おかしくないですか? 買ってからちょっと大人っぽかったかも、って散々悩んで……」
「だから、上にパーカー羽織ってるの? もったいないなあ」
「え? もったいない??」
「うん。香穂ちゃんすごくキレイなんだから出さなきゃもったいないよ。ね?」
「えっと、じゃあ……。海に入るとき、脱ぎますね?」
香穂ちゃんはちらりとおれの方を向いて、上半身に何も身に付けてないことに気づいたのか、改めて顔を赤らめている。
夏だし。海だし。男だし。そんな恥ずかしい格好をしてるって自覚の無かったおれまで勝手に恥ずかしくなる。
って、おれたち、もう何度かソウイウコトをしてるのに。なんだろ。照れくささ、っていうのは、恋愛のエッセンスなんだろうか。
「あ、そうだ。火原先輩。私、なにか買ってきましょうか?」
「う、うん。そうだね。一緒に行こうか。おれ今日は朝ご飯、少ししか食べてなくって」
「え? 本当ですか? お腹、空いてるでしょう?」
「うん! 今日は母さんが徹夜で仕事してて、父さんも休日出勤だーって飛び出して行っちゃって。
たった1つ残ってたカップ麺をアニキと2人で分けたんだ」
そのときの様子を想像したのだろう。香穂ちゃんはようやくいつもの伸びやかな笑顔を向けた。
「じゃあ、一緒に買いに行きましょう?」
歩きながら、ごく自然におれの腕の絡まる手をおれは改めて握りしめる。
華奢な、白い手。こんな細い指から、どうしてあんな音量のヴァイオリンを響かせられるんだろう。
香穂ちゃんは物珍しそうに1軒1軒お店を覗いていく。
かき氷、ビール。アイス。そんな中、香穂ちゃんは1軒の店に立ち止まった。
「火原先輩は、お腹に たまるものがいいかな……。あ、焼きそば売ってますよ?」
「香穂ちゃんは焼きそば、大丈夫?」
「はい。好きです。でも、量が多そう……。1つ全部は食べ切れないかも」
「大丈夫。おれが香穂ちゃんの分も食べるから」
「そうですね。……すみません。2つください」
「へいらっしゃい、って、あれ? 火原じゃないのか?」
「ってその声は……。長柄? おまえ、ここでバイとしてたのか?」
まぶしすぎる空の下から、ビニールシートで覆った薄暗い店内を覗き込むと、
そこには、別人のように日焼けしたおれの悪友が立っていた。
*...*...*
「よお。火原じゃねーか。彼女とデート? いいなあ。若者は」「って、お前だっておれと同じ歳だろ? 焼きそば2つお願い」
「へーい。まいど」
まだ昼には少し間があるからか、客と言えば、飲み物を買いに来るヤツばかりで、悪友はヒマをもてあましていたらしい。
器用に卵を割りながら、長柄は香穂ちゃんを前にしてあれこれと話し始める。
「ねえ、彼女。香穂子ちゃん……、だったよね。
こいつってさ、すこーしロマンチストだけど、いいヤツだからさ。大事にしてやってよ」
「あ……。は、はい」
「てかさ、あいつ、君に優しくしてくれる? 困ったことがあったらいつでも長柄相談所へ。安くしとくからさ」
「あはは。……あの、ありがとうございます」
「長柄〜。香穂ちゃんのことはお前が心配するコトじゃないの。いいんだよ。おれたち上手くやってるから」
「ふっふっふ。そう? まあ、勝負あった彼女と仲良くするのは当然、ってことか。ほらできたぜ? まいどあり〜」
長柄は上機嫌で焼きそばと箸を手渡してくれた。
……と、ここまでは特に違和感は感じなかったのに。
パラソルの下に着いた頃、香穂ちゃんはきゅっと口の端を噛んで俯いている。
気まずい沈黙が流れている。
香穂ちゃんは、分も食べないうちに、そっと焼きそばを脇に押しやった。
「えーっと。香穂ちゃん? どうか、した?」
「……火原先輩、って、あの……。私と、その、そうなった、ってこと、お友だちのみんなに話しているんですか?」
「え?」
「だって、長柄先輩、その、『勝負あった』って」
「う、うん……」
悪友のひょうきんな顔が浮かんでくる。まったく、あの長柄のヤツ!
良いやつだし、気さくなヤツだし、なにより気が合うし。
だけど、あいつはおれと一緒で、あまりオンナの子の気持ちがわかる、ってヤツじゃなかったのは事実だ。
そして、おれが、香穂ちゃんとの関係を誰にも話していないのも、事実なんだ。
こういうとき、柚木だったらどうするだろう、って考える。
まあ、柚木と海ってすごく会わない取り合わせかも、だけど、
もし柚木がこの場に出くわしたら。
柚木のことだ。余計なことをいわないでさらりと身をかわして離れていくだろう、って思える。
おれは香穂ちゃんの腕を掴んだ。
「香穂ちゃん! 信じて? おれ、誰にも話してない。ホントだよ?」
「絶対内緒、っていうつもりはないんですけど、わざわざ言いふらすのはちょっと苦手、っていうか……。恥ずかしい、です」
「イヤな思い、させたよね。本当にごめん。あいつ、妙に勘が鋭いから」
「ね……、火原先輩。もう私に隠してること、ありませんか?」
香穂ちゃんは、目の前の海のような透き通った目をして言った。
隠していること、か。
恋ってどんなものなんだろう、って頭でっかちになっていた頃、恋をすれば、なにもかも好きな子と共有できるって思ってた。
食べることとか、気持ちとか。隠しごとなんて何1つない世界だと思ってた。
だけど、そうじゃなかった。
好きって気持ちが増えた分、苦しくなることも増えたんだ。
どうしよう。この気持ちって、香穂ちゃん、わかってくれるかな? 受け止めてくれるだろうか?
不安そうにおれを見上げる香穂ちゃんに、おれは半ば自棄になって白旗を揚げた。
「……あー、もう、あるよ。たくさん」
「え? たくさん、ですか?」
「汚い自分。カッコ悪い自分。だらしない自分。香穂ちゃんに釣り合う男になりたい、っておれ、そればっかりだからさ」
付き合いたい、って告白して。オッケーもらって。有頂天になって。
だけど、すぐ不安が追いかけてきた。
それでも不安で。さらに一歩関係を進めて。
それで、もうおれと香穂ちゃんの間は万全だ、って。もう、誰も入り込むすき間はなくなった、って思ったけど。
── だけど、そうじゃない。
現に今だって、香穂ちゃんは考え込むような顔をして、白い波を見つめている。
今のおれと香穂ちゃんの間にならたいていの男が滑り込めそうなすき間が生まれている。
おれは、香穂ちゃんの薄い肩に頭を乗せた。
「ねえ。香穂ちゃん。こんな情けないオトコなんて、いやだよね……」
「ううん? お話してくれて嬉しかった、です。私も少し神経質でしたよね。ごめんなさい」
「嫌いにならないの?」
「── いえ。正直に話してくれたから……。ますます火原先輩のことが好きになりました」
夏の日差しに吸応するかのように、香穂ちゃんの背中が朱く色づき始めている。
背中を伝っていく汗が気持ちいい。
まるで2人してまだ水の中でさまよっているみたいだ。