【September】  Haduki's Side



「あなたがね……。よく思い切ったわね。あの子を置いてくるなんて」
「……一番早い方法を選んだんだ」
「途切れちゃうかもしれない方法を、ね?」
*...*...*
 ニューヨークに着いてから、俺はその足で直接洋子姉さんのオフィスを訪ねた。
 英語はなんとかなるものの、アパートメントの手続きとかはすべて洋子姉さんに任せていたからだ。

 高校時代から続けていたモデルの仕事を休業、たぶんもう二度とやることはない、と言い切ってから何度も引き留めていた洋子姉さんは、俺の頑固な性格に呆れながらも、こうして石の勉強をするにあたっての道を開いてくれている。

 当然と二人でくると思っていたのだろう。彼女はやや大きめのアパートメントを借りてくれていた。
 やや大振りの革のカバン一つを持った俺をいぶかしそうに見つめて、最初に交わした会話がさっきのそれだったのだ。


「……あいつも大学が残ってるし」
「ね、珪……。今からでもあの子を呼んだら?」


 これは私の経験だけど、と前置きしながら洋子姉さんは言葉をつなぐ。

「人って脆いものよ。会って会って存在を確かめて。絶えず会っていないとダメになってしまう。この人とはどうしてこんなに会話があるんだろう、続くんだろう、って思ってるカップルってたくさんいるわよね。……それはね、毎日会ってるからよ。きっとデートを終えて、電話を終えて、あれ?今日はなに話したっけ? って思い出そうとしても、思い出せないことばかりたわいないことを話しているの。そしてそのたわいなさが次への会話の糸口になってるの。1ヶ月、2ヶ月。……そのうちお互いにお互いの不在が普通になる。余程の努力をしない限りね」
「……姉さんもそんな思い、したんだ」

 俺の質問が予想外のモノだったのだろう。
 姉さんは一瞬顔をしかめた後、俺からは視線を外し、窓の外のエンパイヤステートビルを見つめる。
 それは夕焼けの中、昼間に俺が見た雰囲気とは違ってややか細くはかなげに空に向かって突っ立っている。

「……ちょっと昔にね。今はもう痛みもないわ。神様が与えてくれた最大の恵みは「忘却」だと思ってるから」

 その行為はまるでこれ以上この会話を続けるのを拒絶しているかのように思えて、俺は彼女の顔に這わしていた視線を暖かみのない白樺色のフローリングに落とした。

「ま、珪も私と同じで頑固だし。言っても聞かないの、わかってるから……」

 ねえさんは、机の引き出しからアパートメントのキーを取り出す。
 そして握手をするように俺の手に無機質なそれを渡すと言った。

「……頑張って。珪ならできるでしょ?」
「ああ」

「とにかくまめに連絡は取ってあげることね、あの子に……。距離の代わりに。身体が近くにない分、心をね」


 俺は返事をせずに軽く会釈をすると、洋子姉さんのオフィスを後にした。
*...*...*
『お互いの不在が普通になる』

 走り書きで書いてもらった地図を片手に握りしめながら、俺はいつしかその紙の存在を忘れ、さっきの洋子姉さんの言葉が頭の中を駆け回っていた。

(あいつ……)

 ぐっすりと眠りこける。流れるように艶やかな髪。その隙間に見える細い首が目に浮かぶ。

 俺たちは傍にいるのが当たり前の状態で。
 毎日のように電話をし。週に何度かは会い。
 会ったときには次に会う約束を必ずして。

『また』
『次』
『来年は』
『将来は』

 未来に続く言葉をふんだんに使っていて。

 もう少し積極的に振る舞ってくれてもいいのに、あいつ俺に甘えたくなると俺の二の腕に頭を擦りつけてくるんだ。

(ちょっとだけ甘えたくなっちゃった)

 照れくさそうに小さな声でつぶやきながら。


 でも、これからは。
 ── あいつが甘えたくなったとき、俺は傍にいてやれない。


 俺がしばらく暮らすアパートメントは11階建ての6階部分だった。
 南に面した窓を開けるとそこはハドソン川が緩やかな流れが広がっている。
 入ってくる風は日本のそれとは違って、かなり乾燥していた。

 俺は窓を開けて深く息を吸う。


 風も、そう。川も。
 そして俺の気持ちも。


 とどまることなく続いていくこの流れを、は俺が帰ったとき受け入れてくれるだろうか?


『……珪くん』

 錯覚だとわかっていながらもあいつの声が耳元でする。

『頑張って!』

 とびきりの笑顔が浮かぶ。
 これだけ長いこと一緒にいながら思い出すのは、なぜかのはば学のジャージ姿なんだな。

 あ、あれ、だな。
 高校時代、クラス対抗のリレーの代表に選ばれて。
 入場門に行く俺に、おまえ、声をかけてきて。

『他の人なんか蹴散らしちゃえっ。頑張って、葉月くん!』
『蹴散らせって、おまえ……』
『葉月くんは優しい人だからそれくらいでちょうどいいの』

 威張ってる、テングになってる、いう自分の風評が耳をふさいでいても入ってくる中で、自分が優しいと言われたことに違和感を感じた俺は、そっぽを向きながらおまえに言い返したっけな。

『……別に優しくなんかない』
『ふうん?』
『……なんだよ?』
『じゃあわたしが蹴散らしてあげる』
『どうやって?』
『……こそりとライバルさんの靴のヒモ、ほどいちゃおっか』
『バレるだろ、それ』

 なんてあいつとくだらないこと言ってる間に、あっさりとリレーの時間は近づいてきて。
 俺はコースに上がるときもさっきのとの会話を思い出して、リラックスしていたんだ。


 あいつはいつも俺を和ませる。
 それも俺の思ってみなかった方法で。


(会いたい)


 少しでも、早く。
 少しでも、たくさんの知識を持って。



 一人の人間にここまで固執する俺は、どこかを病んでいるのかもしれない。
 俺は殺風景な部屋を見回してため息をついた。
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