*...*...* 痛みも涙も僕のもの (2/3) *...*...*
「なんだー? 望美ちゃん、先生はしばらく留守ってか?」
「はい……。でもね、明日か明後日には帰ってくるって話なので、おじいさんもすぐ診てもらえると思います。
 安心して待っててくださいね」
 
 薬を取りに来た村のおじいさんは、ぱっと表情を明るくすると私の言うことに頷いた。
『五条には、どんな難病も治す名医がいる』
 なんていう弁慶さんの噂はかなり遠くまで広がっているらしい。毎日、初めての人が足を運ぶ。
 
 私もおじいさんに釣られるようにして笑うと、用意しておいた薬の調合を始めた。
 
 ──── 大丈夫。日が高い間は、大丈夫。まだ、寂しくない。
 
 呪文のように言い聞かせる。初夏の日差しは今日も暑い日が来ることを伝えてくる。
 そうだ。今日もくたくたになるまで動き回ろう。予定をいっぱいにすればいいんだ。
 薬の棚を整理して、薬草を摘みに行って。
 天気と相談しながら、この前朔に教えてもらった着物の洗い張りをやってみてもいい。
 
(……こういうのを『物思い』っていうんだ)
 
 できあがった薬を慎重に、慎重に、紙に包む。
 この折り方は、小さいときに覚えた三角折り。
 この前弁慶さんに折ってみせたら、丸薬を包むのに便利だってすごく喜んでくれたっけ。
 
 なにをしてても弁慶さんが浮かんでくる。
 眠ってしまえば考えなくていいのかな、と思ったら、明け方に夢を見る。
 ずっと前、朔が言ってた『物思い』ってこういうことなんだ、って初めて知った気がする。
 
「お待たせしました。お薬できましたよ?」
 
 くるりとおじいさんに向き直ると、意外なことにいたわるような優しげな視線にぶつかった。
 
「わしより、あんたの方が具合悪そうな顔してるよ。……先生、早く帰ってくるといいな」
 
 村の人は弁慶さんのことを『先生』と呼ぶ。
 住み始めたばかりの頃は『弁慶先生』と呼ばれることの方が多かったのに。
 弁慶さんのやんわりとした拒絶を受けて、いつからかみんな『先生』というようになった。
 
(この京の災いはすべて、僕が応龍を滅したことにあるんですよ)
 
 『応龍』が再び京の平安を守ってくれるようになってからも、弁慶さんはどこか自分を抑えながら暮らしているように見える。
 自身が源氏軍に属していたことだけじゃない。その前のことまでも秘めようとしているみたいだ。
 
『君とこうして暮らせる時間が、僕にとっては宝物なんです。それ以上望んだら、罰が当たります』
『あ、あの、弁慶さんは、いつまで……?』
『……いいんですよ。僕は、もう』
 
 微笑みながら目を閉じてつぶやく弁慶さんは、なにかを諦めているような、悟りきった静かな顔をしていて。
 そのたびに私は言いかけた言葉を引っ込める。胸を刺すような痛みが増していく。
 京が少しずつ以前の活気を取り戻しているからといって、それと比例するように彼が持ち続けている心の傷が癒えるわけじゃない。
 きっとずっと彼は考え続ける。自分のしてきたこと。これからしなくちゃいけないことを。
 今、どれだけ村人に感謝されたとしても、それは、マイナスの位置にある目盛りが少しゼロに近づくだけで、彼の中ではプラスにはならないんだ。
 
 それがまるで自明の理のように、ごく自然に私が知ったのはいつだっただろう。
 
(今頃、弁慶さん、どうしてるかな)
 
 弁慶さんが熊野に向かってこれで四日。明日か明後日には帰ると文が届いた。
 一日に二回来るときもある。
 昨日は『ヒノエからことづかったものですが』という書き出しとともに、真珠でできた髪留めも受け取った。
 
 きっと、今までの私だったら、弁慶さんの気持ちが嬉しくて、弾んでばかりだったのに。
 今の私はちょっとどうかしている。
 文を見て、弁慶さんが近くにいないことを知る。
 その事実を、こんなに寂しく感じるなんて。
 
(早く、帰ってきて)
 
 こちらの世界にやってきてから、ほとんどの時間を弁慶さんと一緒にいた。
 みんなと一緒にいるときだって、いつも近くに弁慶さんがいてくれることが、安心感につながっていた。
 気づきにくい優しさで守ってきてくれた彼に、今の私は何を返すことができるんだろう。
 
 弁慶さんの普段着の青い着物がしわくちゃになっているのを見て、私は勝手に赤面する。
 夜ごとに一緒に眠ってたなんて恥ずかしくて言えない。
 だけどきっと、弁慶さんなら気づきそうな気がする。
 着物を抱きしめる。思い切り深呼吸すると少しだけ気持ちが落ち着いた気がした。
 
「え……?」
 
 ふいに、荒くれだった足音が近づいてくる。
 一人、……二人かな。
 私は腰を浮かすと、土間の奥に立てかけられている太刀に目をやった。
 
「先生、大変だ、すぐ来てくれ。一人切られた!!」
 
 土まみれになった村の人が転がり込んでくる。
 思い切り走ってきたのだろう。のどに張り付いた声はひゅうと乾いた音を立てた。
 
「あ、あの、なにがあったんですか!?」
「ああ、望美ちゃんか。お前さんでも十分だ、すぐ来てくれ。源氏の手の者か賊なのかわからんが……。
 俺たちを助けてくれ!!」
 
(弁慶さん……)
 
 清盛との戦いを最後に私は太刀を持つことを止めた。
 応龍が復活したことで、また京には平安がくるって信じていたし。
 実際人が切られるという話は最近まったくと言っていいほど聞かなくなっていたのに。
 
「行きます。案内してください」
 
 今、弁慶さんだったらどうするだろう。どう願うかな。
 私は細く裂いた布と、少し迷って、太刀を手にすると、村の人の後をついて走り出した。
*...*...*
「六代を探している! 平家の嫡男だ。どこだ、どこにいる!!
「この子は関係ない。正真正銘、うちの跡取りだとも」
「まあ、そんなのはどうとでも言い訳がつくわ。
 ようは、その年代の男の子はすべて惨殺せよとの鎌倉殿の仰せでな」
 
 見るとすでに一人肩口を切られたのか、三歳くらいの男の子が倒れている。
 お母さんなのかな。刀から守るように男の子の身体に覆い被さっている。
 その背中に五歳くらいの男の子がいる。
 土気色の顔の中、お母さんの目だけが真夏の川面のようにギラギラと光った。
 
「待ってください!」
 
 六代。以前聞いたことがある。
 惟盛さんの息子で、将臣くんが特に可愛がって面倒を見ていた子だ。
 将臣くん、ときどき自嘲気味に言ってたっけ。
 
『こいつがいなかったら、俺もこの世界には残らなかったかもな』
 
 亡くなった人。生きている人。どちらがよりたくさん辛いのかなんてわからないけれど。
 私はもう、これ以上血を見るのはいやだ。
 残された人たちが、胸をかきむしるようにしながら、生きるのを見ているのもいや。
 
 ──── 弁慶さんが苦しむのがいやだ。
 
「……あん? ねえちゃん、お前も一緒に死にたいのか?」
 
 太刀を手に私は武士たちを睨みつける。久しぶりに持つ太刀は、固くてひどく重い。
 私は汗で湿った手のひらを隠すように力を込めた。
 背後のお母さんは私の袖を握って離さない。
 抑えようとして止められない震えが、布を伝って私まで揺れている。
 
「この狼藉を、九郎さんは知っていますか?」
「なにっ?」
「源判官殿……。九郎義経殿に話を通してください。平家の残党狩りにこんな殺生をしていることを。
 九郎さんならこんな無益なことはしない。だから、……九郎さんに」
 
 こんな風に、武器を手に話したくない。
 穏やかな弁慶さんとの毎日を思い出す。
 毎日、困っている患者さんたちを助けて、優しい笑顔を返されて。
 薬草を摘みに行き、その世話をする。
 物じゃない。心が豊かな、満ち足りた、生活。
 少しずつだけど、こんな毎日を繰り返して。
 私と弁慶さんは応龍の加護を失った京に少しずつお返しができていると思っていたのに。
 
「……ちっ。つまらねえ」
「大体、平家の残党が今頃京をうろついてるわけないってか?」
「騒がれても面倒だ。ま、行くか。……六代ってのは貴族のような暮らしをしてたって話じゃねえか。
 こんな土くせえ餓鬼じゃねえよ」
 
 勢いを削がれたのか、二人の男は唾を地面に吐きかけると、何事もなかったように踵を返す。
 
 
 
「……よかった。もう大丈夫だよ?」
 
 振り返って男の子の手を握る。
 その仕草で、私は自分の手も震えていることを知った。
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