*...*...*  約束 4 *...*...*
「ねえ、ドリンク取ってくるよ。なにがいい? え? ハーブティ? ちょっと待ってて!」

 ナオくんは、はじけるように立ち上がると、ドリンクコーナーへ向かう。
 心なしか、ナオくんの頬が赤い。
 あれ? 私、なにかおかしなこと、言っちゃったかな?
 『オレの知らないちいねえがどこかにいるんだよね』
 って……?

 確かに、平日は毎日、決められた時間に会社に行って。決まった時間に同僚とランチを食べて。
 終業のベルが鳴れば、周囲の人に挨拶をして退社する。
 それを、『ナオくんの知らない私』といえば、確かにそうなんだろう。
 だけど、私にとって『会社勤め』というのは取り立てて自慢できることでもないような気がする。

 単調な仕事。単調な、毎日。
 このご時世にこんなにノンビリした仕事があるなんてラッキーじゃない、と、両親も大学の友だちも口を揃えていうけれど。
 簡単すぎる仕事というのは、残酷だって思うこともある。
 暇を持て余すと私の脳内は、考えても仕方ないことを考える。
 ──── 私は、今、ここにいる自分をまだ、認められないでいる。

 白いカッターシャツと、黒いズボン。
 今時、こういう子も少ないんじゃないかなと思うくらい、ナオくんは学校の規定通りに制服を着こなしている。
 きっちりとズボンの中に入れ込まれたシャツは、清潔感に満ちていて、
 さっき食べたハンバーグは、いったいあの細い身体の何処に入っていたんだろう、って思えてくる。

 あれ? ナオくん、ドリンクバーで、ジュースも3杯くらい飲んでたよね。それも全部冷たいのばっかり。
 おなか、イタくならないのかな?
 
 『金曜日だってのに、こんな時間に帰ってくるってどうなの?』
 さっきのナオくんの、茶化すような明るい声を思い出す。

 金曜日の私の過ごし方、か……。

 25歳。社会人3年目。
 だからかな、よく分からないけれど。
 最初の1年目は、よくコンパや飲み会に誘われたっけ。
 でも絶対、『行く』という返事をしない私に、いつしか同僚も私を誘うことは諦めてしまったらしい。
 最近は、誘われることもなかった。
 金曜日の更衣室は苦手。華やかな空気に包まれている女の子たちの中に、私はひどく場違いだ。

 ふとドリンクバーに目をやると、ナオくんは、少し年上の女の子に紅茶のありかを教えてる。
 後ろ姿の女の子の髪が揺れる。
 ナオくんって、取っつきやすい、いい子なんだよね。
 幼い頃から、そうだった。

 幼稚園の頃、人気者のナオくんは、よくクラスメイトからひらがなばかりの手紙をもらっていたことを思い出す。
 返事は書いた方がいいよ、という私に、
 『だって、オレ、まだ、ひらがな、よめないもん』
 って笑ってた。
 『ウソだ。絵本、すらすら読めるのに?』
 そうからかうと、
 『オレ、よめないことになってるの』
 なんて。
 可愛い顔でそう言われると、それ以上、ダメなんて言えなくなった。

 だけど、女の子っていうのは敏感だ。
 本能的に、どの男の子が話しかけやすくて、与しやすいかを知っている。
 ナオくんは一度も返事を書いたことがない、って言ってたけど、その後も女の子からの手紙は止むことはなかった。

 紅茶を淹れてもらった女の子は、ナオくんに笑いかけながら、店内を見渡して。
 やがて私に気づくと、綺麗な髪を大きく振り払って自席へと向かった。

「ちいねえ。はい、どーぞ。ご注文のハーブティです」

 ナオくんは口とは裏腹に慎重な動作で、私の前にティーカップを置いた。

「ありがとう。熱かったでしょ? 大丈夫?」
「ううん? 全然。あ、そうだ、言ってなかったよね」
「なあに?」
「ちいねえ、今日はごちそうさまでした。満足満足」

 ナオくんは、おなかの上をぽんぽんと叩くと私を見て嬉しそうに微笑んだ。
 こんな風に、家族以外の人とゆっくり食事をしたのって、久しぶりかもしれない。
 それに、食事が美味しい、って感じたことも。
 笑ったり。相手のお皿の料理を食べたり。
 ──── 不思議。
 昔の自分を知ってくれている人とは、私も自然体で過ごせるのかな。

 ナオくんはさすがにおなかがいっぱいになったのか、これ以上飲み物を口にすることはなく、
 手持ちぶさたに、ストローの先をクルクルと動かしている。

「ねね、話の続き、してもいい?」
「あ、はい。なあに?」

 カモミールのハーブティは、ナオくんには新鮮な香りだったらしい。
 興味深そうに、私のカップに目を落としてから、改めて私を見上げる。

「ちいねえって、平日は仕事に行ってるでしょ。行って、帰って、ご飯食べて。……それから、だよ。それから」
「それから?」
「それから、ええっと、……たとえば、オレの場合は、学校から帰ってからは宿題がある。
 だから、それをやってたり……、それ以外にも友だちにメールしたり、音楽聴いたり。
 1日24時間でも足りないくらいなんだ。いろいろやることがありすぎて困るくらい」

 私はうんうんと相づちを打った。
 学生の時期って、そうだったかも。
 やることがたくさんありすぎて。何時間あっても足りない気がして。
 だけど、眠らなきゃ、次の日の授業は夢の中だ。
 私はどちらも目一杯楽しんで、ギリギリの均衡を保つ、っていうのが好きだった。
 『よく学び、よく遊べ』っていうの、信条にしてたくらいだもの。
 あ、でもどっちかっていうと、『よく遊び、少し学べ』って感じだったかも。

「ちいねえは、会社から帰ってから、家でなにをしてるの?」

 ナオくんは少し声を落とすと、内緒話のような小さな声でささやいた。

「えっと、なに、って……?」
「オレ、クラスの女子なら、なんとなくどうやって時間を潰してるかわかるんだ。
 メールしたり、音楽聴いたり。あとちょこっと宿題やって。雑誌なんか読んでネイルして」
「ふふ、きっとそうだろうね」
「だけど、ちいねえはわからない。……メールもあまりしなさそうだし、テレビや音楽、ってのも興味なさそうだし。
 ああ、今みたいに、お茶を飲みながら静かに本を読んでるって感じかな?」
「……私、私は……」

 自分の毎日を振り返る。
 帰宅して、お母さんに帰ったことを告げる自分。
 それに、夕飯を食べている自分。
 あまり食べないことを心配しているのか、お母さんの料理はたくさんの品数が並ぶ。
 それに1口ずつ箸をつけて、私はそそくさと2階にある自分の部屋へと向かう。
 自分の部屋なのに、ドアを開けるときは少し緊張する。
 ベッドと机と本棚だけのシンプルな部屋に、迎えられるのが、すごく嬉しくて、少し、怖い。

 上手く言葉が出てこない私を気遣うようにナオくんは笑う。
 そして私の腕時計を覗き込むと、ぱっと目を輝かせた。

「あ、そうだ。ちいねえ。ご飯のお礼に、いいところに連れて行ってあげるよ」
「え? 今から?」
「大丈夫。全然遠くないから。ちょっと寄り道するだけ。……ね? それ飲み終わったら、行こう?」

 ナオくんは、私が断る、ということも考えにないような屈託のない目をして私を見上げる。
 こう、って決めたら一歩も譲らない。
 こういうところ、って幼い頃のナオくんそのものだ。

 大きく息を1つ吐く。
 ……断るのが難しいなら、できるだけ早く終わらせた方が、いい。

 私は持ち上げていたカップをソーサーに戻すと、カバンを手にして立ち上がった。
 目に浮かぶのは、私の部屋。
 机の上には、1枚の古い写真が飾られている。
 満月の夜、写真立ては宙に浮いているかのように、白くぼんやりと浮かび上がる。

 ──── 早く、1人になりたい。

 自宅の、あの人の写真がある、あの場所。私の、1つきりの居場所。

「……じゃあ、私も、ごちそうさま。ナオくんの言うところに行こう?」
「え? もういいの?」

 ナオくんの目は不思議そうに私とカップの間を行き来する。

「ごめんね。せっかく淹れてもらったのに」

 私はレシートを取り上げると、まっすぐレジへと向かった。
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