その音を、オレは自分へのエールのように聞いていた。
そっか。
いつか、渡せたらいい。
渡せるときになって、渡せないっていう後悔はまっぴらごめんだ。
そう思ってずっとカバンの1番底に入れておいたんだっけ。
どうだろ? 買ったのは確か、5月くらいだったから。
オレってやっぱり運がいい。買ってからたった2ヶ月で、ちいねえに渡すことができるんだ。
*...*...* 約束 5 *...*...*
「ナオくん、どこ、行くの?」「どこって? えへへ。いいところ。ほら、こっち曲がって」
ファミレスに向かうときは自転車を押してきたオレが、今度はテクテクと歩き始めたのを見て、ちいねえは不思議そうに行き先を尋ねる。
えーっと、ここからは歩いて、だいたい15分くらいかな。
って待てよ。途中でちょっと歩きづらい道もあるかも。
オレはちいねえの足元に目をやる。
シンプルな形のローヒール、か。これなら、あの道でも歩けるよね。
改めて自分の足元に目をやる。
って、ちいねえの足ってこんなに小さいの?
ずっと年上だと思っていたちいねえが、小さな女の子のように思えてとドキリとする。
「ちいねえ……」
小さな路地を通って、フェンスをくぐる。
これってちょっとした冒険みたいでワクワクする。
小学生の頃、こんなことばっかりしてて、よくちいねえから注意されたっけ。
もっともそれはオレのお袋が差し金だった、ということはあとで聞かされた話。
『ナオはちいねえちゃんの言うことならよく聞くでしょう? ふふ、母さんの作戦勝ちよね?』
ってさ。
だけど、それはお袋の見当違いって感じもする。
だってオレはちいねえに叱られるのが嬉しくて、冒険を止めるコトなんて考えつかなかったもんね。
ちいねえは行き先が小高い山だと知ったとき、不安そうに目を見開いた。
「ナオくん、山に登るの?」
「うん! ……滑らないように気をつければ大丈夫だよ。このガケを登ると近道なんだ」
「ん……」
「ほら、手を貸して」
オレは小さい頃してもらったことそのままに、ちいねえの手を握ると山道に足を踏み入れた。
オレには大したことないガケでも、ちいねえからしたら、やっぱりなんだろ、スカートっていう服が不安なのかな。
素直にオレに手を引っ張られている。
食べた後はすぐ身体中がかーっと熱くなって、すぐ汗をかくオレと違って、ちいねえの手はひどく冷たい。
あれだけ少ない、って思ってたスープスパも結局残してたみたいだったし。
オレからしてみたら、クラスの女子って未知の世界だ。
そして、ちいねえはその『女子』っていうひとくくりの中でもさらに未知な存在だったりする。
月明かりがオレたち2つの影を薄く作り、昼間の暑さはシンとなりを潜めている。
ちいねえは夜空を見上げると、小さな笑顔になった。
「──── ふふ。なんだか、逃避行、みたい」
「『逃避行』?」
「そう。……今日は満月だからかな。ほら、月に吸い込まれそうだよ」
「……オレとちいねえも、このまま吸い込まれたらいいのにね」
「はい?」
「う、ううん! なんでもない! ほら、……ここだよ」
オレはようやく目的地に着くと、視界を遮っている若葉を押し広げた。
「どう? キレイでしょ? ちいねえが働いている都会の……、六本木や新宿とかの夜景には敵わないけれど。
俺たちの待ちも捨てたモンじゃないでしょ? この街はオレのものだって叫びたくならない?」
「うん! 知らなかった……。すごく、綺麗」
「でしょ?」
「この街の夜景ってこんなに綺麗だったんだね。ほら、あれが、都心環状線? それで、あれは……」
「首都高」
「そうだね。……ありがとう! ナオくん」
この場所を見つけたのは……。そう、これも5月。
オレがちいねえの秘密を知ったときだった。
嫉妬と、あきらめと。……どうしようもないもどかしさと。
オレの感情すべてがごちゃごちゃになってどうしようもなくて。
オレは夜中の街を自転車で徘徊した。
何度も、ちいねえの家の前を走って。
明かりの消えたちいねえの部屋は、ちいねえ自身にも見えてどうしようもなかった。
「1度、ちいねえを連れてきたかったんだ」
「はい?」
「……ちいねえに笑ってほしくて」
ちいねえはワケがわからない、って感じでオレの口元を見つめている。
オレはゴソゴソとカバンの中から紙袋を取り出し、ちいねえの鼻先に差し出した。
「これ。オレからのプレゼント。なんていうか。……オレがちいねえに贈る初めての宝石、ってことになるのかな」
「……プレゼント? 私に? ど、どうして?」
「たいしたモノじゃなくてごめん! オレにはまだこれくらいがちょうどいいかな、って」
「ナオくん……」
「いつか本物、プレゼントするからさ。ちいねえはもう少し待ってて!」
ちいねえはおずおずと紙袋を手にすると、何度もオレと紙袋を見つめている。
そして、ハッとしたようにオレの手に触れた。
「これ、ずっと持っててくれたの? だって、今日会えたのだって偶然だよね?」
「う、うん……。あ、ごめん! ラッピング、なんか端っこの方、折れちゃってるね」
「ううん、そんな!」
誕生月それぞれに、誕生石がある、って知ったのは偶然。
クラスの女子たちが、声高に、自分たちの誕生石を言い合っているときだった。
ちいねえの誕生月は3月。
『ねえ、3月の誕生石ってどんなの?』
『えーー! ナオくんの好きな子、3月生まれなの? じゃあ、誰? マオ? それとも、ユウカ?』
『あー、もう、そういうんじゃなくてさ!』
『って、ナオくん、それ、なにげに失礼だよ』
女子中のバッシングを浴びながらようやく聞き出したのは、3月の誕生石はアクアマリンだ、ってことだった。
透明な、水色。涙色にも似た石は、ちいねえの雰囲気そのままだった。
そう。ちいねえは、大学に入ってからキレイになった。
そして、それは大学を卒業する頃、透明な美しさに変わった。
理由を知っているオレは、その理由を考えるたび、息が苦しくなる。
……どうして、ちいねえは、1人で、こんなに苦しんでいるんだろう、って。
オレは助けにはなれないの? それは、オレがまだ子どもだから? ねえ、どうして?
「わあ、すごくキレイ! ありがとう、ナオくん」
ちいねえは律儀にオレに中身を見ても良いか聞くと、ちっちゃな宝石を手に取り、嬉しそうな声を上げた。
──── 可愛い、よな。
幼い頃、ずっと見上げるばかりだったちいねえの笑顔。
それが今は目の前にある。
笑うと三日月型になる目も。白い頬も。
触れたくなるようなふっくらとした唇も。
ふいに、10歳、という年の差がクヤしくなる。
……ねえ、オレはあとどれだけ歳を重ねたら、ちいねえに触れることができるの?
それとも、そんな機会は一生無いの?
だけど、過去には、ちいねえに堂々と触れることのできた人間もいたんだよね。
もし、今、オレが『幼い』っていう理由だけでちいねえを幸せにできないなら。
そ、そう! オレが大人の男になるまでの間。
他の男とでもいいから、ちいねえには幸せになってほしいのに。
『混沌』って英語で『カオス』、って言うんだっけ。これもかなり前、ちいねえから聞いた言葉。
だとしたら、今のオレの頭の中はまさにカオスだ。
なのに、お調子者の唇ときたら、ちいねえの核心に切り込むようなことを言い続けている。
「えーっと! あ、そ、そうだ。ちいねえ、いい加減、彼氏、作ったら?」
「え? あ……、彼氏? そ、そうだね、そのうち……」
「オレ、事情、知ってるよ」
月明かりの中、ちいねえの顔がさっと白くなる。
それだけで、オレはちいねえの傷がまだ治りきっていないことを知る。
そう。ちいねえを思い浮かべるたびに浮かぶ、痛い感情は、ここから生まれてるのかな、って。
本当はオレ、1番よく分かっていたのにね。
「大学の頃のあの彼だろ? 1度オレ、アイス買ってもらったこと、あるよ」
「……ナオくん、知ってたんだ」
ちいねえは、かすれた声で相づちを打った。
今から、オレが言うことは、ちいねえを傷つける? だけど……。
ここから始めないことには、オレも始められない。
オレは乾いた上唇をそっと舐めた。
「うん。──── 彼、亡くなったんだってね」