私の手は助けを求めるかのように、ナオくんからもらったアクアマリンを握りしめる。
 ナオくんが、知っていた? あの人と、会ったことがあるの?
 アイスを買ってもらった、と聞いて、胸の中に柔らかな感情が広がっていく。
 ……いかにもあの人らしい、って思えるエピソードだ。

 よく私、ナオくんのことを話してたから。あの人もそんなナオくんに会ってみたいって言ってたっけ。

『男の子って俺、好きなんだよね。いや、子どもって本当に可愛いよね』

 どうしてそんなに子どもが好きなの? って聞いたことがある。

『子どもって、大人と違って無限の可能性を秘めてるでしょ? 俺たちが無くしてしまった』

 その答えを聞いたとき、少しだけ居心地の悪い気がしたのを覚えてる。
 無限の可能性っていうのなら、今のあなただって持っているハズなのに、って。  
*...*...*  約束 6 *...*...*
「ちいねえ。オレの話、聞いてくれてる?」

 こんなによく話すナオくんは見たことがない、って断言できるくらい、ナオくんは饒舌に話し続けている。
 だけど、私の耳は上手く聞き取ることができなくて、目は機械的にナオくんの顔を見つめていた。

「お、オレには、よく分かってないのかも知れないけどさ。
 人生は長いんだし、いつまでもこだわってなくていいと思う。いや、こだわってちゃ、いけない、って思う」

 アクアマリン。
 あの人も、ナオくんと同じことを言って贈ってくれたっけ。
 『初めて贈る宝石』って。
 だけど、その次はなかった。

 梅雨明けを思わせるようなじんわりとした暑さが、身体の周りを覆っている。
 そう。あの人が亡くなったのも、こんな季節だった。
 1つ上の彼は、ずっと子どもに携わりたいという理由で、小さい頃からの目標だったという教員になった。
 1年遅れて、私もその後を追いかけることになっていた。

 僻地の廃校寸前の町で、少ない生徒を愛情を持って育てて行けたらいいね。
 いっそのこと、先生が私と彼、2人きりの分校、っていうのもいいね、って笑っていた。

 ところが、私が大学4年の7月の週末。
 毎日1通は来るメールが1通も来ない日が3日続いて。
 私は、初めての成績表付けで彼も忙しいんだ、って思おうとした。
 私自身、教育実習に行っていたこともあって、自分のことで精一杯だった。
 週末、少しの時間でも会いに行ってみよう。そう思っていた。

 彼の好きなお菓子と、本を詰め込んで部屋を出ようとしたとき、彼の両親から彼が亡くなったことを告げられた。

『……玄関で倒れていたと聞いています。
 まだ所見は出てないのですが……。過労が祟った急性心不全だと』

 彼のお父さんの電話に私は半狂乱になった。

『そんな……。ウソ、です! この前会ったときも、すごく元気で……っ!』

 葬儀が済んでから、彼のお母さんが教えてくれた。
 亡くなるとき、彼は携帯を握りしめていたこと。
 そして彼の携帯の画面には、私の電話番号が表示されていたことを。

『最期にあなたに電話しようと思ったのかしら? 馬鹿な子。
 あなたにこれからも会いたいなら、あなたより、まず救急車に電話しなきゃ、よねえ?』

 泣き笑いのお母さんの顔が、彼と重なる。

 ねえ。私に電話しようとしたとき、なにを思ったの? 苦しかった?

 どうして、私、遠慮なんかしてたのかな。
 どうして、一歩、彼の中に踏み込まなかったのだろう?
 1人きりで逝って。3日も1人きりだった彼に、どうして私は気づかなかったの?
 問いかけては、泣く。その繰り返しの日々だった。
 あれからもうすぐ3年目の夏が来る。

 この季節特有の、重苦しいどんよりとした空気は、ただの肉片になった彼を静かに壊した。
 腐敗した彼の顔から、生前の笑顔を思い浮かべるようになれるまでに3年かかった。

 私を取り巻く世界は確実に動き続けている。
 ナオくんもランドセル姿の小学生から、来年はもう高校生になる。

 ──── 私だけ、私の時間が止まっている。

 私の沈黙を補うかのように、ナオくんは話し続ける。

「ちいねえが幸せにならなきゃ、彼だって辛いだろうって思う。
 オレだって! オ、オレがもしちいねえより先に死んだら、やっぱちいねえがずっと心配だと思うから」
「……ふふ、ナオくん、優しいんだ」

 ようやく、ナオくんの話していることに私の頭は追いついたらしい。
 私の顔は忠実にいつもの動作を始める。
 笑って、相手に失礼にならないような相づちを打つ。
 3年間の訓練は、こんなときも健気に同じ動作を繰り返す。

 だけど、私の演技はナオくんには簡単に見破られたらしい。
 ナオくんは、怒ったように顔を高揚させた。

「あ、当たり前だよ! も、もし、オレだったら……っ!
 ちいねえ残して、オレだけ死んだら、心配で心配で、幽霊になって確認しにきちゃいそうだよ」
「……えへへ。ありがと」

 ナオくんの、『心配』って言葉が暖かい。
 幼い頃から知ってる近所の男の子。
 たった今までそれだけの存在だと思っていたナオくんに、こんな心配かけてたなんて。

「ちいねえには幸せになってほしいし、それに、真面目な話……。
 オレがいい男になって迎えに行くまでに、ちいねえも少しくらい他の男とも付き合ってみたりして、
 人生勉強、しておいてほしいからね」
「……人生勉強?」

 ナオくんの血色の良い唇が、思いもかけない言葉を告げることに、
 私には驚きよりも、非難よりも、小さな笑みが浮かんでくるのを感じる。

 ……ナオくん、いろいろなことを一生懸命、考えててくれたんだ。
 何も知らないような顔をして、見ててくれたんだ。

 金曜日、ううん、それ以外の日もいつも伝書鳩みたいに帰ってくる私を。
 そして、週末は。
 1人で。あの人の写真の前で部屋に閉じこもっている私を。


 ──── ありがと、ね?


 私の微笑みは、意外にもナオくんのプライドを傷つけたらしい。
 ナオくんは不快そうに眉をひそめた。

「いいさ。今は子ども扱いしてれば」
「ううん? 違うんだよ。私、ナオくんの気持ちが嬉しくて」
「オレが大人になったら、きっとちいねえ、驚く、と思う。オレ、必ず、ちいねえを振り向かせてるだけの男になってみせるから」
「……ありがと。期待してる」
「ちいねえがどんな素敵な男と付き合っていたって、オレが登場した途端、ちいねえはその男を振ることになる。絶対!」
「ふふ。そうなの?」

 15歳だった頃の私が、25歳の今の私を想像できなかったように。
 15歳のナオくんが、25歳の自分の未来を想像している様子が可愛くて、私は小さく笑った。
 私、まだそんなに歳を重ねてるつもりはないのに。
 私の心の中の一部分だけは、老婆のように疲れて干からびている。
 ナオくんが見せてくれる愛情も入っていかない。

 そんな私が、ナオくんと?
 ううん。ナオくんは私に恋なんかしていない。大人に恋してる男の子なんだ。

 ナオくんは私の肩をつかむと、私の身体を自分の正面に向けた。

「ねえ。ちいねえ、約束してよ」
「約束って、どんな?」
「10年経ったら、またここで会って。……そのとき、ちいねえを絶対オレのモノにする。
 ちいねえが幸せじゃなかったら、オレが幸せにすればいい。もしも、幸せだったら、……オレがもっともっと幸せにする」

 ナオくんは自分を納得させるかのように、最後の言葉を2回繰り返すと再び夜景に目をやった。

「約束だよ。10年後の今日、この時間にこの場所で。必ず、オレに会いに来て」

 おずおずとナオくんの顔が近づいてくる。
 こんなに自分以外の人間が近づいてきたのは、あの人が亡くなってから初めてかもしれない。
 とっさに目を閉じてかぶりを振る。


 もう、人と触れあうのはイヤ。好きになるのも、失うのもイヤだ。
 あんな思いをするのは、もうイヤ。


「やだ! ナオくん……」
「……これだけ、だから」

 抱きかかえられそうになるのを必死に両手を伸ばして拒絶する。



 いつの間にこんなに大きくなったんだろう。
 ナオくんの両手は簡単に私を抱きかかえると、髪の中にナオくんの鼻先が入ってくる。
 必死にもがいているつもりなのに、目の前の胸板はビクともしない。

「──── 約束、だよ?」

 私は、ナオくんの唇がかすかに頬を伝って行くのを感じた。
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