その中で、特に強い印象を残したのは、ちいねえに似た容姿のマサミさんという女性だっだ。
彼女はオレが師事した担当教授の秘書で、教授とは長い仲なのだという噂を耳にしていた。
楚々とした容姿を持つ彼女は、いわゆる性的な意味合いでよく口の端に登っていたことを覚えている。
不思議なことに、彼女から将来に繋がる話題というのは一切振られなかったし、オレも一切口にしたことはなかった。
お互いがお互いを束縛しない緩やかな付き合いは、素直に居心地が良かったし、
彼女との付き合いはオレが大学を卒業するまで2年ほど続いたと思う。
セックスの後、たいていマサミさんはオレの胸に頭を乗せて、とりとめのないことを話し続けるのがクセだった。
『ナオくんてば、優しそうな顔して、実は相当ガンコ?』
『マサミさん、それは失礼だよ』
『案外、人は的外れな質問には笑って答えないものよ?
『失礼だ』って反論するってことは、その質問が真理を突いているからなの。どう? 当たり?』
『まあね。……それより、どうしてオレと寝ようと思ったの?』
出会ったその日、マサミさんを含めた数人で食事に行き、その翌日には、オレは彼女のベッドで寝ていた。
展開の早さを問うと、彼女はふっと軽いた笑い声を上げながら、オレの目を覆って立ち上がった。
ティッシュを取り出す音、陰部についた精液を拭き取る音が、今、自分がしていた行為より卑猥に響く。
『別に理由なんかないわよ』
『そうかな? オレ以外のヤツらだって、あなたが声を掛ければ、なんとでもなるでしょ? 教授も鼻の下、伸ばしてたし』
『あら。教授の態度で分かったでしょ? 私、あの人とは寝てないわよ』
同級生よりもやや張りを失った肌が、主を見つけたかのように再びぴったりと自分の脇に収まる。
マサミさんは子どもがおもちゃで遊ぶかのように、何度もオレのノドから胸へと指を滑らせていたけれど、
何かを思いついたのか、一編の詩を朗読するような優しい声でささやいた。
『『……あなたは私をかゆがらせる』 ……この感情に近いかな?』
『かゆがらせる?』
『太宰の、なんだったかしら? 『斜陽』か『人間失格』かそのあたりの一節よ。
太宰って男なのに、どうしてあんなに女の心情に詳しいのかしら? ……ねえ、ナオくん?』
『なに?』
『もう1回、しよう?』
そう言うとマサミさんは軽くオレのモノをしごいて、上に覆い被さってきた。
手を伸ばせば届く場所で、2つの乳房が揺れている。
──── ちいねえも、今、オレの知らない誰かとこうしてるのだろうか?
日々洪水のように溢れては流れていく情報の中で。
10年も前のたわいない約束を守る人間など、この世のどこにいるのだろう。
そう自虐しながらもオレは、いつまでもちいねえとの約束を忘れられずにいた。
*...*...* 約束 7 *...*...*
中3の夏から10年目の夏。もうすぐ、ちいねえとの約束の日がやってくる。
オレが10年前のオレのように、今もちいねえ家の隣りの実家に住んでいたなら、もう少し状況も把握できただろう。
オレが高校3年までは、毎日判をついたかのように出社して、そして帰宅するちいねえを見ることができたけれど。
それ以降は、オレは自宅から離れた大学に行ったこともあって、音沙汰はたまにお袋から聞くくらいになった。
大学4年を経て、就職。
オレはここでもまた、自宅から離れた場所で働いている。
『そうそう、ナオ。お隣りのちいねえちゃんね、なんでも今、海外で働いているんだって』
『そうなの?』
『意外よねえ。優しいばっかりのお嬢さんで、キャリアウーマン、って感じでもなかったから』
『…………』
『仕事に生きる女になったのかしらね』
そう聞いたのは、オレが大学に在学中の4年前のこと。
あれから、ちいねえは1度も実家に戻ってくることはなかった。
だから……。
10年前のあの約束を、ちいねえは守ってくれる。
そう信じることがときどきツラくなる。
どんよりとした雲が空を覆う季節はなおさらだ。
風が、空気が、あのときの自分と泣いていたちいねえを連れてくる。
今、ちいねえは、あのときのオレとの約束をどんな風に考えてるんだろう?
そもそも、覚えていてくれるのだろうか?
『好き』の反対は『嫌い』じゃない。『無関心』だ。
だとしたらオレはちいねえにとって、『嫌い』以下の存在になる。
「お袋。今日、オレ、今から出かける。夕飯は要らないから」
「ナオ?」
3年ぶりに帰宅した自宅で、オレは台所で料理の支度を始めたお袋の背中に話しかけた。
昨日、突然家に帰るとオレから連絡を受けて、急いで用意したのだろう。
キッチンにはとてもオレと両親の3人分とは思えないほどの肉や野菜が並んでいる。
お袋は、信じられないといった様子で動きを止めるとオレを振り返った。
「ナオ、あなた3年ぶりに家に帰ってきたっていうのに。
父さんも喜んでいたのよ? 仕事早く切り上げて帰るって、さっきメールが」
「ごめん。また別の日に埋め合わせするから」
平日の、これから夜に向かおうとする時間。
そんな時間帯にぴっちりスーツを着たオレに、感じることがあったのだろう。
お袋はやれやれと肩をすくめると、オレと野菜たちを見比べてため息をついた。
「……そう。今日は遅くなるの?」
「わからない。またあとでメールするよ」
お袋はそれ以上言及することなく、ちゃんと連絡入れなさいよ、とだけ言った。
*...*...*
初夏の残照は、かすかに建物の輪郭を残している。これから本格的な夏に向かおうとする季節の、この昼とも夜とも付かない曖昧な時間帯はいつもオレを不安にさせた。
痛みに耐えているような、ちいねえの顔を思い出すからかもしれない。
抱きかかえようとするオレを拒絶しようとした腕。
必死にもがいていたちいねえの気持ちを押し込むかのように、オレは小さな身体を抱きしめた。
オレは車に乗ると、ちいねえとの約束の場所へと向かう。
そして目的地の近くに車を停めると、辺りを確かめるように、ゆっくりと歩き始めた。
ちいねえを手をつないで登ったガケは、記憶の中よりもずいぶん低く、視界を覆うように伸びていた若葉はかなり小さく見える。
──── あれから、10年。
オレは、10年前のオレじゃない。
マサミさんやクラスメイト、幾人かの女の上を通り抜けて、いろいろなことを学んだ。
オレと同じように、ちいねえも10年前のちいねえじゃないだろう。
そんなことはわかってるんだ。
どうして、オレはこんなにちいねえが気になるんだろう。
この10年、何度も自問して壁に当たった。
幼い頃の憧憬そのままに、オレはちいねえを拡大解釈してるんじゃないか。そう思った。
だけど、どんな女と付き合っても、オレの中の渇きは静まることがなかった。
多分そこは、ちいねえのためだけに空けられた場所。
他の人では埋まらない。
女の人と付き合うたび、その虚空は広く、深くなる。
大学卒業とともに別れたマサミさんは、今のオレを見たらなんて言うかな。
きっと背中をポンと叩いて、『しっかりしなさいよ! まったくナオくんはガンコなんだから』って笑う、かな。
(ちいねえ)
今日がオレの幼い頃との決別になるのなら、それでいい。
オレはオレとの約束を果たす。
ちいねえが、今日、この場所に来てくれたなら。
オレはまたここからオレ自身を紡ぐことができる。
そして、もしちいねえが来てくれなかったら。
……いや、来てくれなかったとしても、オレはちいねえに感謝するだろう。
ちいねえは今、幸せなんだ。
ちいねえが幸せなら、オレは、……オレも、いつかきっと幸せを掴めるだろう。
白い影が1つ、暗い森を照らす。
食い入るように見つめても、その影は動かない。
オレは今、幻影を見ている?
10年間、何度も想像した景色。願った風景。
「……ちいねえ」
思わず目を見開いたその先で、オレは、細く小さな影が動くのを見た。