必死に、思い出さないように、考えないようにしていても、幼い頃からよく見ている映像のように焼き付いている光景がある。
 荒い息を繰り返しながら立ち上がる吉羅さん。
 離れた気配はあるのに、何度も私の背を撫でる熱い手の平。

 ──── 取れかかった目隠しから見えたのは、少しだけ目の縁を赤らめた金澤先生だった。  
*...*...* Three 2 *...*...*
 吉羅さんとそういうことになってから、秋で半年。
 少しずつ抱かれることに慣れてきたつもりだったけれど。
 昨日のことは、今思い出しても頭の後ろがカッと朱くなる。

 吉羅さんと金澤先生。4つの手で触られた身体は、今も火照りが残っている。
 2人の手はどちらの手も大きくて、細くて。
 私の触れて欲しいと思うところを昆虫の触角みたいに敏捷に探し出した。

 1番の違いは、その温度だ。
 夏でさえもしっとりと冷たい吉羅さんの指。
 中に入るたびに、その温度にピクリと身体が震えるのを、吉羅さんは面白そうに見てたけど。
 昨日私の胸を包んだ金澤先生の指は、火傷するんじゃないかと思うほど熱かった。

『悪い。お前さんもとんだ災難だったな。イイ子だから、さっさと服、着ろや』

 あの後、金澤先生は吉羅さんの挑発に乗ることなく、ポン、と私の頭に手を置くと、後輩をたしなめて部屋を出て行った。

 もし、あのとき。
 ──── あの勢いのまま、金澤先生が私の中に入ってきたら、私はどうなっていたんだろう。

 金澤先生自身じゃなくても。
 優しいリズムで私を導いてくれた、あの熱い指が入ってきたら……?

「香穂、先輩? 大丈夫ですか?」

 目に入る、森の広場の光景は、秋が深まったせいだろう。
 緑よりもむしろ、黄色やオレンジの色合いが増え始めている。

 ……あれ? 私、今、『香穂先輩』って呼ばれたような……?

「あ! 志水くん……。ごめんね、今、練習中だったよね」
「……今日は、おかしいです。香穂先輩」
「どうしよう。今、えーっと、各自個人練習が終わったら、どこから合わせよう、って話だったっけ?」
「楽器は愚かな口よりも忠実に今の状態を顕します。今、香穂先輩の心は、この曲にありませんね」

 志水くんは穏やかな顔をしながらも、淡々と厳しいことを言う。
 冬海ちゃんと言えば、そんな志水くんを取りなすように口を開いた。

「いえ、その……。香穂先輩は忙しいんですよね。普通科の勉強もしながら、ヴァイオリンの練習もして」
「ううん! それは、私が決めたことだから。そんな気を遣わせて、私こそごめんなさい、なの!」

 志水くんはそんな私にふっと表情を和らげると、手にしていた楽譜を片付け始める。

「先ほどの音合わせで、おおよそ個人の弱点は掴めたと思います。
 3人の音合わせはこれくらいにして、また明日仕切り直すというのはどうでしょうか?」
「志水くん……」
「……僕、あなたならできるって思っているんです。だから、待つのは別に平気です。
 明日までに、香穂先輩の気持ちをこの曲の方に持ってきてください。待ってますから」

 元々オケ部の練習があると言っていた冬海ちゃんも、志水くんの言葉にほっとしたように口元を緩めた。

「私がその……。こんなことを言うのは失礼だけど、その。
 香穂先輩の練習は完璧だと思います。あとは、その、気持ちが乗れば、いいんだと思います」
「ごめんなさい。……私、明日までになんとかするから。本当にごめんね。私、ちょっと1人で練習してみる」
「はい。……僕もちょうど図書室で調べたいことがあったんです。冬海さん、行きましょう」

 2人はそう言って肩を並べて建物の方に向かう。
 あまり身長差がないって思ってた2人も、2年生になって志水くんは驚くほど大きくなった。

『簡単にチェロを持ち上げることができるんです』

 そう言って笑う志水くんは、吉羅さんと変わらないくらい。
 そっか。
 最初に出会った頃、志水くんはまだ男の子だったけど、今は、男の人、なんだ。
 吉羅さんみたいに、女の人を抱くことができる男の人、なんだ……。

「も、もう、私、なに考えてるの……。そうだ、練習、しなきゃ!」

 私は譜面台に置いた譜面を睨みつけ、ヴァイオリンを肩に載せる。
 その途端、チクリと痛む肩は昨日、金澤先生が甘噛みしたところ。

 吉羅さんに抱かれている私を見て、金澤先生はどう思ったかな。
 彼に何度勧められても、がんとして私を抱こうとしなかった金澤先生を思う。
 呆れて……。不潔だと思ったかな。

 それとも……。

 私は自分の胸を見下ろす。
 女の子として、魅力がない。そう思ったのかな。もしそうだったら泣きたくなる。

「よし。練習練習!」

 なにか、心に思うとき。自分の感情を吐き出す場所がある私は、世界中で1番幸せ者だ。
 音を出す。音を作る。
 自然が観客だけ、って最高の舞台だと信じている。
 思い切り悲しい音も。豊かな音も。
 自分のすべてを受け入れてくれる、っていう安心感があるからだと思う。

「ブラボー、ブラボー! お前さんが『ユーモレスク』をこんな、愁情たっぷりの曲調で弾けるようになるとはなー」

 思いの丈を弾き終えたとき、パンパン、と乾いた拍手とともに聞き慣れた声がした。
*...*...*
「金澤、先生……?」
「おー。休み時間だってのに、ちゃんと生徒の音楽を聴く俺ってエラいだろ? なぁ、褒めてくれよ。
 ったく、俺のこと、ブラボーって言ってくれるのはウメさんだけでさ」

 金澤先生は普段以上のテンションで話しかけてくる。
 な? 日野。あれは吉羅の悪ふざけがすぎたんだ。
 俺がさ、あとでちゃんとフォローしておくからさ。お前も、早く忘れろ。な?

 そんな思いが見え隠れしてる気がする。

 ──── どうしよう。

 伝えたら、どうなるの? 伝えたら、迷惑になる?
 それとも私は、伝える相手を間違ってるのかな。

 あれから、金澤先生のことを思うと、どうしていいかわからなくなること。
 どれだけ身体を洗ってもこすっても、ぬめりのような火照りが取れないこと。
 ……金澤先生はどんな風に女の人を抱くのだろう、って、止めようと思っても考えてしまうこと。

 黙っている私に、金澤先生は耳の後ろを掻きながらふと真顔になる。

「日野。あー、その。まあ、なんだ? 俺が言うのもおかしな話だが」
「はい……」
「……忘れろや? 昨日のことはさ」

 金澤先生はまるで、『昨日のあのラーメン屋はイマイチだったな』というのと変わらない、乾いた口調で笑った。
 その途端、私の頭はコンピューターみたいに、一気にいろんなことを考え始める。
 大人の金澤先生に、私の身体はちっぽけに思われたんじゃないか。
 ううん、吉羅さんと、ずっとソウイウコトをしてきた私を呆れてるんじゃないか、とか。
 それ以上に。
 金澤先生に抱かれたいと密かに思っている私を、軽蔑するんじゃないか、って。

「おーい。日野。聞いてるか? おーい、って、おわ!!」

 くしゃりと髪の毛を触れられて、身体は私の意志に関係なく、ピクリと陸に上がった魚のように跳ね上がった。

「ご、ごめんなさい!」
「……って、お前さん、そういう反応は犯罪だろうが」
「……忘れられないんです」
「は?」
「金澤先生が触れたところが……。熱くて。その、洗っても、取れなくて」

 昨日の金澤先生の態度。それに今の『忘れろ』って言葉。
 どれを取っても、金澤先生が私を抱くという選択肢はなくて。

『金澤先生が触れたところが熱い』
 なんて吉羅さんには絶対言えない。
 言ったら、吉羅さんを傷つける。
 ──── だったら、自分でなだめるしかないもの。

「ご、ごめんなさい! そのうち、そう……、そのうち、治りますよね」

 カチャカチャとわざと大きな音を立てながら譜面台を片付ける。
 どうしよう。……恥ずかしいことを言った自分に泣きそうだ。

 泣く前に、今日は帰ろう。
 自分の部屋で、丁寧に淹れたお茶を飲みながら考えてみよう。
 これからの、吉羅さんと私のことを。
 吉羅さん以外の人に気持ちが揺れている私が、吉羅さんと付き合う権利は、ない。

「あの、今日は帰ります。聴いてくださってありがとうございました」


 拍手をくれたお礼とともに頭を下げる。
 傍目からは礼儀正しい生徒に映るかも。
 だけどこれは自分を守るため。金澤先生が、私を蔑(さげす)む顔を見て、傷つくのが怖いからだ。



 金澤先生の横をすり抜けようとしたとき、ふいに右手に力が加わる。
 おそるおそる顔を上げると、そこには厳しい表情を浮かべた金澤先生が私をじっと見つめていた。





「ったく、そんな顔してたら、ほっとけないだろ? ……いいから来いよ」